構造主義とテンプレと私②

 まず思ったのが、この構造主義という考え方で世界を見てしまうと、確かに我々人間に関しては色んな違いを含めたままで横並びになるんだけども、この構造の外側にもう一つ、「所有者」を作ってしまうのだよね。


 これがまた実にリアルをも反映していて、確かに人々が納まる色んな枠の外には「管理者」が居るんだわ。居場所の所有者ね。会社の、学校の、SNSの、組合の、という具合で、そうすると世界にまで所有者が出てきてしまう。神ね。この主義によると、世界の所有者は神であるとなって、それは奇しくも宗教を指すわけよね。

 昔の人なら別にそれでよかったわけよ、ノブリスオブリージュな世界観では王様地主領主などなどで民衆は所有される自分を当たり前と思ってたし。実際のとこ、横暴なリアル所有者に対しての救いとしての宗教的所有の概念で神があったんだろうし。いや、所詮は人間でしかない王様とかの限界を担うのが神だったのかもだし。

 つまり、この主義がほじくり出した不都合の数々は、想像以上に不都合だったわけよね、人間のありように対する絶望的なまでのヘビー級パンチを加えた。神は死んだどころかご主人様で君臨してたわけだ。創造したに留まらないのよね。たぶん、これを歴代哲学者たちも解かっていて、だから躍起になって神殺しをしようとしてきたよね。この主張の登場で全部覆されちゃったけど。


 んでも、特に日本の創作界隈だと別にこんなの珍しくなくない? 世界を外から観察してる超越的キャラだとか、神サマ横暴で支配神と戦うだとか。今さら的な概念だけど、正式に学問の界隈にこれが出現しちゃったトコに問題ががが、て感じ?

 神サマが公平で慈愛に満ちてようが問題はソコじゃないからね、所有者だというそのものが実に問題なわけだわ。社会が人間を所有する、それを露呈した。人間はフリーダムですらなかった、と。あらゆる行動は借り物で行われていたわけ。



 つまりだ、結論、テンプレ作品の主題ってのは「レジスタンス」なのだ。それも、社会的、哲学的な「構造主義で定義される構造そのものへのレジスタンス」になる。


 抵抗運動というのかね。だからこそ、あれらの作品はまずテンプレートから開始しなくてはならない。執拗なほどテンプレ展開からの開始に拘るのはなぜかと疑問だったんだけど、そうでないとダメな理由があったってことよね。

 だから、多くのテンプレには「チートを与える神」が登場するわけだよ。そして、多くのテンプレはテンプレそのものへの批判を加えるために、あえてテンプレの形態を取るわけだね。これを完全にオリジナルのものでやるというのは、構造批判から外れてしまうってことだわ。

 テンプレのパターンに見られる、テンプレートからの脱却とか、テンプレ的な物への批判とか。擁護意見の中にあった「ちょっとずつ違う要素が入っていて、それが魅力なのです。」という言葉ね、このちょびっとのオリジナル要素が、抵抗でありレジスタンスなわけよ、構造主義そのものや構造主義的社会への。


 たぶん、作ってる人々の多くは構造主義批判を行っている自己ということには鈍感で、だけど漠然と何かに対する鬱屈とそれを打破したいという熱量はあるんだろう。

 完全なオリジナルでやれよ、他人のフンドシなんぞ借りずに、と思っていたけれど、これは構造を借りてこないと始まらないわけだわ。構造そのものの批判だからね。そんでこのテンプレパターンな物語作りの類型ってのに二次創作がある以上、このテンプレ文化は日本だけではないよね。無意識に行われている抵抗運動だ。


「取替えの利く自分」という構造主義的社会に取り巻かれてなお、その構造からの脱出、あるいは抵抗を表明する、取替えなど利かないと己に言い聞かせ、世間にも叫びを上げている。承認欲求なんていう言葉で片付けられているその衝動は、本当はもっと立派なトコから来てる。承認欲求なんていうとずいぶん卑下した感じになるけども。それは、取り巻く社会が支配する側に立つから、レジスタンスを貶めようとするのは当然の流れだということなんだろう。


 ま、こんなトコだろうかと思う。そろそろ飽きたんで終わる。



 あー、けど、立場的には二つあるよね。テンプレや二次創作的な直接運動系のレジスタンス行動創作と、従来のヤツね。従来のは、直接でレジスタンスに武器持つ立場じゃないけども構造主義的社会のその構造のメカニズムを暴き出そうとする立場だ。

 構造主義的な社会というのは、なんというか、カムフラージュが巧いからね。管理者やかつての支配者に当たる地位にいる者は、かつての支配者のように支配に対する責任を負おうとはしていないし、下手すると自分も民衆の一員だぞみたいな隠れ蓑を被っているから。自覚すればそれは民衆が否定した支配者という存在であることを認めることになるからさ。割とややこしい。(笑


 けども、支配者たる神を生み出しときながら、多く宗教は人に抗えと教えているの妙ですな。思えばインスタに写真を日々アップすんのも、こうしたダラダラ日記を更新し続けるのも、これすべて抵抗なのですな。日々がレジスタンスな我々。


「我思う限りにおいて、自立した我である。」だな。なにくそ、と思うの大事。

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