構造主義とテンプレと私①

 部屋とワイシャツと私、みたいなタイトル。(笑


 構造主義とひと口に言ってもレヴィストロースから始まって実存主義の批判ってその実存主義とはなんじゃらほいな感じの、一般人に解かるわけがねー、て感じのオハナシですんで(私も解からん)、正直、ワタクシもさっぱり解かりませんです。ちょちょっと調べた程度で解かるよーなシロモンじゃねーです、これ、哲学って完全に「内輪ウケ」そのもので発展してきたからね。(皮肉)


 内輪でしか解からない専門用語が飛び交う内輪で納得しあっただけの用法の論法、解説と同時に翻訳もしなきゃ一般の人間にはまるでチンプンカンプンてシロモノ。


 まーね、専門分野の学問なんてのはソレでいいんです、数学でも高等なのになれば代数使うじゃんか、X=Yとか短略化しないと1から10までなんぞいちいちやってられるか、膨大なんだよ、てなモンですんで。哲学とかの専門用語は代数XとかYね。


 んで、必要分だけちょちょっと引っ張ってくるとですね、実存主義ってのが「共通の法則性によって社会か人間は同じよーな発展をする」という考えで、だから土着の未開人の社会もいずれ先進国みたいに横並びに到達するよー、という考えらしくて、それに対するカウンターな立場で構造主義ってのがあるそうです。

 構造主義だと、その土地とか集団で独自のモンがあって、その影響はそれぞれ違うからー、という。これで未開人とかの考え方が否定されたらしいです。つまり、土着の未開人は遅れてるー、とする実存主義を否定して、いやいや、土地によってどう発展するかは別々でしょ、と。それが構造主義? らしい。たぶん。

 時代、土地、文化、それらの違いで同じ国であってもそこに住んでいた人々の常識はまるで違っていたりする、という話なのかね。よぅ解からんのですが。


 片方では、この構造主義ってのは結局何も解からんままなので批判されているという話も出ていて、ちょい齧り程度の理解ではホントにもう何も解からない。

 さてさて、ブンガク的に必要分だけ更に更に切り取ってみると、こういう一文が抽出されます。「この言語に関する思想を押し広めてゆくと、自分が考えて話しているつもりの言葉も、実は自分の外からインプットした言葉を繰り返しているに過ぎないという事実が明らかになる。それが、西洋思想が自覚的あるいは無自覚に前提としていた、「私」を中心とした思想を、根底から揺るがすことになる。なぜなら「我思う故に我あり」という言葉も、その「我思う」が、実は他人の受け売りを右から左に流しているだけで、純粋な意味での「私」の意見ではないからだ。」(引用:はてなブログ「四十三庵」http://blog.stm43.com/entry/20130424/1366778206)

 構造主義ってのは要するに、人間は受け売りで延々と周囲にある言語や文化を結い結い諾々してるだけの存在ではないか、という話らしい。そういう主張のこと?

 んでも、これを指して「構造主義そのものもまた、構造主義という概念を仮に与えただけで正解ではないと自明にしている」と論破されてるそうですな。だから、何も解決しない主義主張。イデオロギーだの普遍だのの概念を潰しただけだそうな。


 これはブンガク的命題で言うところの、「私という存在」のまるっきりの否定。つまり、レリゴーが根底で覆されたって事だそうです。ありの~ままの~、の私が否定されてしまい、私というのは歴史的に脈々と延々コピー&ペーストされる印刷品みたいなもんで、オンリーワンではない、すなわち、「幾らでも代替が利く私」だという結論に至るとかカントカ。

 これまた最近の社会情勢だの生活実相的にもなんかそうかもとか思わせるような状況にある人が多いのは事実。仕事でも趣味でも、オンリーワンな自分を認めてもらえる状況ってのはほとんどないわな、と。身代わりは幾らでも居る状態をひしひしするだけで、自分が居ないと困る状況ってのはあんまり考えられない、というような話で説明されていたり。



 さて、私自身の主張というか、モットーは、「この世は矛盾で出来ている。正解など存在しない。有はイコールで無である。ぐるぐると回っているだけ。自身を含めた全ては未決定であり、繰り返しであり、過去と現在と未来は重複している。」だ。これを説明するには、オカルト分野から始めて宇宙構造を経由しないといかんのでパスね。クラウドって言葉がすごく便利に頭の中身の整理に役立ちましたん。(笑


 自分の主張はまぁ、後々にしか関係しないんだけども、この構造主義ってのとテンプレってのの関係が本題なのですな、サクッと行けないのがまた複雑化した現代らしいっつーか、構造主義をざっくり要るトコだけ摘まんでくるだけでコレかよ。

 現代の若い子の多くが、構造主義で説明されるところの「幾らでも代替が利く私」の呪縛で自己否定に陥っている、というあたりがこの文書の主題です。


 先に結論書いちゃうけど(忘れるからね)、「構造を打ち破るのはレジスタンスだ」という事っすわ。「代替可能な私」という諦念を打ち払うのは、ただ自身の反抗心、「なにくそ、見てろよ」な意志だけだわ、というのを書いといて、それとなろうに代表されるテンプレ作品群の隆盛を紐解いてみたいと思いますん。


 まー、三歩歩いて忘れるトリ頭だから、まるっと忘れるかもですが。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る