トットちゃんは欠落の記録だが欠落してると楽しめない本
読書記録の方に追加した「トットの欠落帖」です。かなり面白い。
日本シリーズのチケットをくれようという人に向かって、正面から「で、どことどこの試合?」などと聞いてしまう事だとか、球場で「今、打ってるのはどっち(のチーム)ですか?」などと聞いて、隣のおじさんに「ビール!」と叫ばせてしまうなんかは、私でもやりそうだと思って読んでいた。
文脈の構造的なところが読めるようになると、この本はさらに面白く感じられる。
この話、文章の書き方とか、その構造が解かっているとなおさら面白いエピソードとして読めるのだ。日本シリーズがどれほど有名で、そのチケットがどれほど稀少で、ファンにしたらどれほど価値があるか、その辺りを踏まえて読むとすごく面白いのだが、文面上にはそんな辺りをご丁寧に説明などしていないんだよね。
これが、説明しない事でさらに「そんな当たり前のこと」であると強調する効果も含んでいる。野球がよく解からない人だって日本シリーズがどういう試合であるかくらいは解かっている人が大半だ。それをわざわざ日本シリーズとはとやらずに、いきなりそのチケットをくれる人が居て、「どことどこの試合?」と聞く場面から始める辺りの構成力。ここで相手が、『出しかけたチケットをすっとポケットにしまいこんだ』と書いていく描写。
非常に少ない文字数で、日本シリーズがどういう意味を持ち、トットちゃんがどうズレているかを端的に書き表してしまっている。ふと気付いて感嘆の息だった。
とにかく読点が多くて、一見すると読みづらいんで騙されてしまうところだった。
面白い、には理由があるなぁ。この本は、従来の小説の作法をきちんと踏まえる事の出来る読者に向けて、作法をきちんと踏まえて書かれている。読点は多いが。
非常にシンプルだ。説明は最小限、トットちゃんが話しているという体裁に限りなく沿わせているから、「あなたそれくらいは解かってるわよね、」というトコロが滲むように、解説もなし。なのでトットちゃんの語り口調はかなり親近感がある。参考書のテキストっぽさがない。あれは不特定多数向けなので、よそよそしいのだ。
そういえば、高橋源一郎氏の文学時評の本はなんだかどっかの教室で少人数の生徒に向けて話している風な親近感だったな、と思い出す。
広く多くの人をカバーしようとすると、だんだんと親近感が減る。よそよそしくなる。まぁ、それを感じるには読み慣れというものが必要になるのかも知れないけども(私も最近になって解かるようになってきた)、同じ一人称でありながら、語りの対象が一人であるのか、少数制教室であるのか、街頭演説であるのかで、響いてくるところの親しみが変わるなぁと思った。
解説や説明が増えれば増えるほど、この親しみは減っていく。よそよそしさに繋がって、言ってみれば教師口調になっていくわけだ。
なので、トットちゃんでも高橋氏でも、親しみを籠めるために説明すべき箇所は厳選して出来るだけエピソード自体が説明解説抜きで書けるものに絞っている。それで誰でも解かる範囲に収めて、説明不要の状態から親しみをこめて語るのだ。
巧いなぁ。見習わねばね。
文章は絵ではない。アニメや特撮なら、見慣れないモノでも作って映せば一発で伝わるだろうが、文章ではそうはいかない。それは解説や説明になり、教師口調になる。だいたいがアニメや漫画、特撮では小道具作りからが工夫を凝らして、一発で視聴者に解かるような造詣にして映し出しているわけだよ。
これは、文章で書く時にだって、文章技巧としての工夫を凝らさねばならないって事と同じなのは自明の理というべきだよね。(これが、テンプレや一部ラノベが、二次創作と同じ内輪ウケな文体になっている理由)
「最近のドラマはなんだか作り物っぽいっていうか、安っぽいわね。」
この言葉は、先日立ち寄った喫茶店でどこかの有閑マダムたちが話していた台詞の抜粋だ。何を対象にしてたのかまでは解からないが、確かに最近は漫画原作のドラマ化でコケる事が多いなと思いながら聞いていた。
まーったく同じ現象だと思うのだ、トットちゃんと。
漫画とアニメと一部ゲームと一部ラノベはセットの1ジャンルで、ドラマと邦画と一部ゲームと一般文芸は1ジャンルだろう、という事だ。
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