流行りに乗れない作者さんは考えるべし

『文学がこんなにわかっていいかしら』高橋源一郎氏の書かれた文芸批評本なんだけど、私はこの高橋氏のエッセイ形式での解説が肌に合うんだよねぇ。わかり易い。すごくいい事が書いてあったんで、御紹介。

 ノースロップ・フライという海外の批評家の文章から展開される章なんだけど。


これ、丸々引用しておきます。(フライ氏の英文を軽い文体で氏が翻訳)


 ……言葉にはさ、およそ三つのリズムがあると思うんだけどな。一つは散文で、もう一つは韻文で、まあ、このへんのところはみんなわかってると思うけど、もう一つは、連想なんだよね。へえ、連想って、あの連想ゲームの連想だろ。それが、散文や韻文とおんなじに独自のリズムがあるなんて信じられない、っていわれるかもしれないけど、このことはすっごく重要だから、ちょっと話を聞いてもらいたいんだよね。

 たとえば、知らない町へ行ってさ、道がわからないとするじゃん。そういう時さ、「もうしわけありません。福武書店へ行く道がわからないのですが、どうかおしえていただけないでしょうか」っていうふうにはなかなか訊けないわけね。

 じゃあ、どう訊くかっていうとさ、「あの、ちょっと訊きたいんですけど、ちょっとでいいんです。道がわかんなくて。それで訊きたいんですよ。福武書店ってありますよね。そこへ行く道なんですけど、わからなくて、すいません。道、おしえてください」って訊くわけ。ちょっと、ガートルード・スタイン風だよね。

 ああ、でもガートルード・スタインが連想のリズムっていうわけじゃないよ。かのじょは、ちゃんとそれをクリティカルに処理してるから、ちゃんとした散文になってんのよね。それから、ぼくが教えてる学生がさ、英語の試験に落ちちゃってからぼくのところへきて、こういったのね。「先生、どうなっちゃってんのか、わかんないですよ。ほんと、あんなに勉強したのに、どうなっちゃってんのかなぁ。かんぺき、覚えたのになぁ。なんかいもやったのになぁ。わっかんねえなぁ。あーあ、なにがなんだかわかんねえや」。

 ったく、わっかんねえのは、おめえの方だよっていいたくなっちゃうよ。それじゃあ、英語ができないのもむりないよねえ。ふつうの分類じゃあ、このバカ学生がしゃべってるのも散文になっちゃうんだけど、冗談じゃない。

 この学生は、ただ連想でしゃべってるだけなんだ。この場合の連想は、思いつき、とか、適当に、ってこととおなじことだよ。つまりだね、連想っていっても、ジョイスが『ユリシーズ』でやったみたいに、批評にうらづけられたものと、「リスのおしゃべり」の二つがあるわけなんだ。

 <中略>

 さて、これで、ぼくらは三つのリズム(散文、韻文、連想)と三つの文体(低、中、高)という区分を手に入れたわけなんだけど、じつは、もっとずっと大事な、区分がある。それは、「ほんもの」と「にせもの」の区分なんだ。

 おやおや、ややっこしくなってきたなあ。でも、心配することはないよ。実際の例にあてはめると、ぜんぜんややこしくないんだからね。いいかい、ごくふつうで一般的な会話を想像してみるんだ。あれはなんなのだろう。ぼくの考えじゃあ、あれは「連想のリズムに基づいた、にせものの、低文体」なんだ。かれらは、(ぼくらだってそうかもしれないけど)なにも考えないで話してる。そういう会話の場合、話し手は、意志を伝えたいんじゃなく、ただおしゃべりしたいだけなんだ。あんなものは、会話でもなんでもない、ただの反射運動なんだよ。もちろん、文学とはなんの関係もありゃしない。

 ここまでは、だれでも認めるだろうけど、じつは、この「にせもの」っていうところと、「連想の」っていうところは、ただの会話だけじゃなくて「中」や「高」、「散文」や「韻文」にまで、すごい影響をあたえてるんだよ。この場合、書いてる当人が気付かないところがまずいんだよなあ。当人は、すっかり「ほんものの」「散文(もしくは韻文)」で、「高」(もしくは「中」)文体を駆使して、文学してるつもりなのに、ぜんぜん文学になってないってことなんだよ。

 シリアス・ノベルを書いてる連中は、自分ではすっごくシリアスで、すっごく芸術してると思ってるかもしれないけど、たいていは、「連想」の影響をわるくうけてる。ぼくは、そういう作家はとても「個人」とは呼べない、そんなものはひとりごとを呟く「エゴ」にすぎないと思うんだな。「個人」の集まりは「社会」になるけど、「エゴ」はいくら集まっても「群れ(モブ)」にしかなんない。文学は「個人」と「社会」との関係なんだ。

 「エゴ」と「群れ」の間にあるのは、うらみがましいおしゃべりだけさ。「ほんものの」会話はフレキシブルなもんだ。相手を説得しようとする気持ちがあるからこそ、相手の目を見て話すし、話す言葉もどんどん変化していく。ところが、「連想」のリズムの影響をうけた「にせもの」の「散文」を書く連中ときたら、相手なんかぜんぜん眼中にないわけだよな。そんなのありかよ。自分がいいたいことだけいうと、あとは黙っちゃうんだぜ。それじゃあ、井戸端会議のおばちゃんよりひどいじゃねえか。

 <中略>

 つまり、形式的っていうか、型にはまったっていうか、反射運動やきまり文句でしか表現できないグループが公認されている社会は、たえずそういう「文学」を再生産する必要があるんじゃないかってことさ。そういう連中は、独創的なものに対して、動物的かつ本能的な恐れをいだいてる。かといって、はっきり「そんなのは文学じゃないよー」っていうわけでもなく、「まぁ、いろいろ文学もあることだしー、書くのは自由なわけだしー、わたしはわたしの個人的なことを書けばいいわけだしー、そういうささやかなことがんばってほりさげていきたいと思ってるわけ」とかぶつぶついうだけなんだけど、そういう紋切り型の答えは「考える」とはいわないと、ぼくは思うわけよね。

 だって、「紋切り型」と「考える」っていうことは矛盾してるわけなんだもんな。でも、そういう連中は「連想」のリズムで「考えてる」かぎり、自分がなにをしているか絶対に気付かないことになってるんだよ。いやになっちゃうねえ……。

<引用終わり・勝手に改行入れてます>



 出版社はさ、漫画やラノベの売り上げに比べた時、不良債権だと解かっていても、純文学や論文書を世に出し続けるわけよ。その意味を考えた時に、売れること、読者にウケる事などは、瑣末な事柄であるのが解かっていいと思うんだ。

 編集者がその作品を推そうと思う時に、己の矜持に賭けて誇れる、そういう作品を書けば、ウケなど度外視で考えてくれるだろう。媚びるのが嫌な書き手は、そこを狙うしかない。


 まずは、編集さんを動かす作品を書くことだと思う。

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