少女と冠



 (ティファニアッ!!)


 思わず叫びそうになったその言葉を、アンリエッタは必死に胸中に留めた。

 先程から従姉妹の様子がおかしい事には気付いていた。少しずつ身体を震わせ始めたのを見て、“制約”が切れたのだろうと察しはしたが、まだ許容の範囲内に収まっているとアンリエッタは断じた。

 冷静に私情を挟まず、今まで聞いてきた彼女の生い立ちや、海竜船でのファーティマとの和解などの話を考慮して、耐え切れると判断したのだ。

(水精霊騎士隊はほぼ出払わせてしまった。残った者も対応に追われている。アニエスは司会を勤めている。追いかける者がいない!) 

 これでは取り返しの付かないことになってしまう。ティファニアに任せたのが間違っていた? 彼女の胸の中にあるものを、自分は見誤っていた? ・・・・・・いや、彼女の心はそんなに弱くも脆くもない。でもそれならばどうして――――、 

 しかし、その信用が断ち切られたことを現状の混乱は証明していた。どよめきは不審という名のさざ波を瞬く間に広げていき、怒りを露わにする兵士たちはいつ爆発してもおかしくない状況だった。


 とにかくこの場を収めなければ。でもしかし、どう説明すればいい? 


 どういう事情がそこにあろうと、この和平を担う少女が逃げ出したことは事実。礼を失する許されざる過失と見なされれば最後、この条約の締結がどうなるかは想像に難くない。

どうすれば、どうすれば。

 想定外の事態にトリステイン女王は途惑う。・・・・・・しかしその窮地を救ったのもまた、更なる思いの外であった。


「あー、あー、ごほん。諸君、驚かせてすまぬ。今のはすべて、わしが仕組んだことじゃ」


 立ち上がり唐突に口を開いたテュリュークに、周囲の視線が殺到する。おびただしく向けられたその瞳に、しかし老エルフは臆することもなく言葉を続ける。

「この場にいる者の大半がこの式典を喜び、心待ちにしていたと思うが、この和平をあまり快く思わぬ者もいる。・・・・・・当然それ自体は構わぬが、彼らの瞳に映る黒が、いまにも彼女に飛びかからんとしていたのでな。今日は我々エルフと人間が手を取り合う記念すべき日、そのような心持ちではちと悲しいではないか?

 ・・・・・・そこで、わしは少し彼らに頭を冷やしてもらおうと、憩いの時を設けさせてもらったのじゃよ。なに、彼らの気が落ち着いたらすぐにでも再開する。心配は無用じゃ。だから安心して待っていてくれたまえ、エウメネスの諸君」

 ネフテス統領がエウメネスからの来訪者たちに水を向けると共に、収束した視線は一気に瓦解した。未だ大半の者がこの式典を好ましく思っていない事実を、テュリュークは逆手に取ったのだ。


 まず彼の言葉で周囲に疎まれ、排されていたエウメネスの民の立場が変わった。人間とエルフの友好を強く望む彼らの意思はテュリュークの最後の言葉で肯定されたため、もう誰にも彼らを恥さらしだの裏切り者だのと言う権利はない。もし罵りでもすればそれは即ち、母国ネフテスに楯突く事と同義であるからだ。

 次に、兵士たちの態度が変わった。

「・・・・・・最初から僕は・・・・・・」「・・・・・・元はと言えばお前が!・・・・・・」「ほら、だから言っただろう!・・・・・・」「・・・・・・本来わたしは・・・・・・」

 言外に権力者から糾弾された彼らの様子は劇的で、周囲に乗じていただけの者が反感を抱く者を咎め始めた。するとさらに抱く反感が大きくない者が、大きい者を責め始める。

 指を差された者が身を捩り、その指の延長線上に立つ者の事を言っているのか、とのたまうような子供のようななすり付け合い。

 卓越した叡智と膨大な知識を持つと言われるエルフもこうなっては形無しで、その滑稽極まりない光景に人間たちから笑いが漏れる。しかし、それすらも彼らは気付く事はない。

 やがて気付き始めたエルフたちが先程まで自分がいたその集団を笑い始め、笑われたエルフが気付きさらに他の者を笑う。

 次々と笑いが伝播し、広がっていく。驚愕に固まったアンリエッタは、ただその光景を眺めることしかできない。


 たった一言。それだけですべてが丸く収まる。収めてしまう。

 たった数秒。それだけの時間しかなかったというのに・・・・・・

 あまりにも鮮やかすぎるその手際の良さに、アンリエッタは戦慄を覚えざるを得ない。

 人の二倍の時を生きるエルフたち、その国ネフテスを治める最高権力者。目の前で飄々と佇む老エルフがそうなのだと、アンリエッタは改めて思い知らされる。

(・・・・・・ふう、これでもうしばらく時間は稼げるじゃろうて。・・・・・・ところで、これはどうしたことですかな?)

再び台座に着いたテュリュークが、身を乗り出してひそひそと話しかけてくる。

(助かりました、テュリューク殿。・・・・・・それが実は・・・・・・)

 アンリエッタは謝辞を述べると、簡潔に事情を説明した。ティファニアが自らを責め続けていたこと、そして、自分が“制約”を使って、彼女の心を封じ込めたこと・・・・・・

(・・・・・・ふむ・・・・・・)

 話が終わると、老エルフは白い顎髭を弄り始めた。思考を巡らせる時に、彼がよくやる癖である。

(確かに、彼女の様子の変わりようは異様でしたな。しかしわしには貴殿の魔法が暴走したというよりも、まるでそこに何者かの作為が在ったという考えの方がしっくりくる。 ・・・・・・これは老いぼれの要らぬ心配じゃが、もしかすると、何か良からぬことが起きているのかもしれぬの)

 民衆に視線を戻しつつ付け足した、老エルフの何気ない一言。しかしそれは冠をかぶった少女の心を、瞬時に凍てつかせるには十分だった。


 まさか。まさか、・・・・・・疑われて、いる?


 押し潰された少女は逃げ出し、それによって式典は滞る。民衆の変化は、如実だった。

 先程までは笑い声や楽しげな声、売り歩く商人の威勢のいいかけ声が喧噪の半数を占めていたのに対し、その中に時折、耳をつんざぐ怒声、それに応える罵声が少しずつ入り交じってきた。しかもその勢いは収まらない。隣に座すネフテス統領の言葉を受けてもじわりじわりと、しかし確実に増え続けていく。

 心の内に留めきれずに表へと漏れだした分でも、この有様。彼らの胸中に何がひしめいているのかは、もはや想像するに及ばない。

 発端が分からぬ戦争。さらに、何の前触れもなく唐突に起きた“大災厄”。エルフたちの不満が実際に杖を交えてしまった自分たちに向けられるのも無理はない。多少の衝突はありながらも、今まで安寧を保っていたこと自体が奇跡だったのだ。

 ・・・・・・しかし、それもここまで。

 この式典の段取りを決めたのはこちらである。一度猜疑の念を抱かれては、もう立て直しが効かない。火種は放たれ、枯れた人々の心は干し草のように燃え上がっている。憎悪の、怨嗟の炎は広がり、全てを焼き尽くし焦土に変えていく。

(お待ち下さいテュリューク殿、我々はそのような・・・・・・)

これ以上怪しまれてはならない。動揺する心を抑えつけ、アンリエッタは必死に弁明を試みようとする。しかし彼がこちらに向けた表情は、好々爺とした笑顔だった。

 (ご心配なされるな、我らは貴殿ら人間のことを疑ってなどおらぬよ。もしこの式典が謀られたものだとしても、一体誰が得をするというのじゃ? それに、この和平は“大災厄”という憂き目に会ったこちら側としては願ってもない話、失敗させるつもりなどない。

 ・・・・・・確かに我らは杖を交えた。じゃが、それは双方の事情を鑑みれば致し方ないこと、とも言える。結果として“大災厄”は起きたが、幸いにも失われた命は此度の戦よりかはずっと少ない。それだけでも僥倖というものじゃ。

 ・・・・・・いくら嘆こうとも悲しもうとも過去は過去、失ったものは帰ってこぬ。だから恨みも憎しみも消えぬ。しかしそれでも我々は互いを赦し、悲しみを乗り越えなければならぬ。彼女が民衆に、語ったようにな・・・・・・)

 壇の下に控え、戸惑いに顔を染めているファーティマを見つめて老いたエルフは言う。その表情はどこか優しく、悲しく、・・・・・・そして、何かを諦めているようにも見えた。

(テュリューク殿・・・・・・)

(安心なされい。わし個人で信頼できる護衛を差し向けておくゆえ、そう時間は掛かりますまい)

 老エルフが目配せを送ると、隣のビターシャルがくるりと民衆に背を向け、懐から取り出した水晶に語り始めた。どうやらその“護衛”とやらに指示しているらしいと悟ったアンリエッタは、大きく頷いて全幅の信頼を表意した。

「借り」とはなにも悪いことではない。時には貸しを作っておくことよりも重要な意味を持つ。それが種族同士の談合ならばなおさらだ。

 (・・・・・・分かりました、彼女のことはそちらにお願いします。・・・・・・ところで一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?) 

あまりにも唐突過ぎたからだろうか、テュリュークの柳眉に一瞬険が宿る。

(・・・・・・なにを、ですかな? わしが答えられるもので頼みますぞ?)

 しかしすぐさま元の柔和な表情に戻すと、ネフテス統領はおどけた口調で問い返した。幼い頃から王宮で貴族たちの顔色を窺ってきたアンリエッタだからこそ気づけたが、他の者ではそうはいかないだろう。

 その場その場の様々な状況に応じた立ち振る舞い、豊富なエルフの知識と長い年月で培われた手練と手管。この老エルフが和議に好意的でよかった、とアンリエッタは心から安堵を覚え、質問に入った。

(先程の演説、お見事でした。ですがわざわざ、自分の所行にする必要はあったのでしょうか?)

 ネフテスは“評議会”で統領権限を強大に定めており、誰よりも人民を思うこの老エルフの人望はもちろんすこぶる厚い。

 ・・・・・・しかし、いくらそうだとしても先の突飛な言動は民の心を揺らすのではないだろうか。それがどれだけ、理にかなうものであったとしても。一国の女王として人を率いているからこそ分かるが、人々の心はそう単純ではない。

(テュリューク殿ほどの辣腕ならば、もっと他にやりようがあったはず。ならばどうして・・・・・・?)

 一息ついて、老エルフは疑問に答えた。

(・・・・・・此度の戦も“大災厄”も、わしがもっと適切な判断をしていれば犠牲は抑えられたと思うとやはり、な。償いたい、といえば聞こえはいいじゃろうが、わしらにはそれすら許されぬ。悔いることも、振り返ることも叶わぬ。・・・・・・エルフであろうと人であろうと、率いる者には・・・・・・それがちと、辛いのう・・・・・・)

 アンリエッタは驚いた。自分の何倍もの時を生き、酸いも甘いも噛み分けてきたであろうこの老エルフは、先程自分が考えても仕方がないこと、と割り切ったこの世の者でない人々のことを未だに思い続け、背負って今ここにいるのだ。

 ・・・・・・自分のように切って捨てる訳でも、忘れ置いていく訳でもない。その重さに身を潰されそうになりながらも、その痛みに怯むことなく心に骸を抱え続けているのだ。

 そしてそれを知った時、アンリエッタは女王としての自身の不甲斐なさを思い知らされた。

 思い出すのはウェールズの復讐に燃えアルビオンに出兵し、マザリーニに戦死者の名簿を突きつけられたあの夜。・・・・・・月の双子を見つめながら、自分の私怨に倒れていった者たちの名に一枚、一枚と目を通していった、あの夜。

 今回とあの時の状況は違う。しかし、“ハルケギニアを救うため”という都合の良い言い訳に甘えていたのではないだろうか。“民を守る”という行いの正当さ故に、正義感に溺れ、散っていった者たちの命の重さを自分は軽んじていたのではないだろうか? 

 エルフたちとて自分たちが攻め入ったことで、戦うことを余儀なくされたというのに。そんな自己防衛から始まった戦いに、果たして正当性など見いだせる訳もない。それを知った上で、自分は心のどこかで戦から目を背けていたのだ。

“背負いなさい。重くても、辛くても、放り出してはなりませぬ”

 “死も、罪も、消えることはありませぬ”

かつて赦しを請うた自分に、マザリーニが投げかけた言葉の数々。あの時は理解していたつもりだった。しかし、今となってその言葉の本当の意味が胸を突き刺していく。

(・・・・・・本当に、救われない女王ですこと・・・・・・)

 アンリエッタは自嘲する。しかもあれだけの罪を犯したというのに、今でも自分は私怨を心の隅に燻らせている。これを愚かと言わないのであれば、一体なんと言えばいい?

 ・・・・・・だからこの場に水精霊騎士隊たちは、式典を執り行える最低限の人数しか残っていない。レイナールの口からその男の名を聞いた瞬間、自分の中のその火種はゆらめいてしまった。大きく、明々と燃え盛りたいと訴えてきた。

 火種はみるみるうちに勢いを増し、めらめらと揺れるその先でいたぶるように、少しずつ心を焼き焦がしていった。復讐の炎に炙られた自分は、彼らに男を追わせた。・・・・・・「女王の名の下に」という言葉を添え、ただの飾りでしかない王冠を振りかざして命じたのだ。誰一人として巻き込まないと始祖にまで誓ったというのに、焦燥を募らせた自分は軽率な行動を取ってしまったのだ・・・・・・。

(こんな愚かで卑しいわたくしの魂が、あなたの待つヴェルハラへ誘われることはきっとないでしょうね・・・・・・)

 姿を、形を変えて綿々と連なっていく負の感情。それでもアンリエッタは止めることなく、思考という名の自責を続ける。

 ・・・・・・分かっている、この復讐に何の意味も見いだせないことも。後悔と悲しみが、永遠に続くであろうことも。

 それでも、あの男だけは赦す訳にはいかなかった。やっと見つけたのだ。やっと、やっと。

 自分が好きに使えるお金があれば、“その道”の者に頼んで捜索を依頼していた。しかし相手はトリステイン随一とまで言われていた“風”のスクウェアメイジ、“フェイス・チェンジ”などを使われれば万事が休す。何度も何度も見つけては煙に巻かれ、見つけては煙に巻かれた。 

 依頼した誰からも、返ってくるのは同じ報告。3度目か4度目だろうか、それから男が外に出歩くことはなくなり、捜索は困難を極めた。

 ・・・・・・なんの成果も得られぬままに、一年が過ぎた。それでも、誰にも気付かれぬように、誰にも悟られぬように探し続けた。誰の力も、腹心である銃士隊のアニエスの手すらも借りない、そう決めていた。これはアンリエッタ・ド・トリステイン個人の復讐なのだからと、自身に言い聞かせて。

 しかし心の蓋を開け、中身を広げてみればこの有様だった。揺らめいた火種に翻弄され、自分はことごとく自身の思いを、言葉を覆した。・・・・・・いや、そうなることを心のどこかで望んでいたのだ。

 この上なく情けなく、そして恥ずかしい。そしてそんな自己への嫌悪ですら、あの男への憎しみへと変わってしまう。腹を立てるでもなく、もはや呆れてしまう。

(始祖ブリミルよ、この罪深いわたくしをお許し下さい。・・・・・・しかしこうでもしなければ、わたくしはあの時の自分を許せそうにもないのです・・・・・・)

 何度も何度も、夢に見た。その度に、思わずにはいられなかった。もし自分があの男をアルビオンに送らなければ王子は、愛する人は死なずに済んだのではないか、と。

 何があっても、アルビオンの貴族たちと戦い死ぬつもりだったとは聞いている。それが何を意味していたのかも、・・・・・・分かって、いる。 

 男が殺さなくても、きっと見知らぬ誰かが彼を殺めただろう。しかしそれでもアンリエッタはあの男を、・・・・・・そして、男を信じて送り込んだ過去の自分自身を許せなかった。至らなかった自分のせいで、幼い頃からの親友、そしてその使い魔である異界の少年の命をも危険に晒したのだ。許してはおけない。・・・・・・赦す理由が、存在してくれない。

 ・・・・・・しかし、あれだけ行方をくらましていたというのに、どういう理由があってこんな表の世界に出てきたのだろうか?

 アンリエッタは疑問に思う。しかし、今となってはどうでも良いことだ。そんなことを考える余裕があるならば、男をどう追いつめるか考えるべきだ。

 もう逃がさない。絶対に、・・・・・・絶対に。

 あの時の愚行を、他ならぬ自分の手で裁くのだ。

今の自分と、過去の自分。私怨に駆られて始めたアルビオンとの戦と、紛いなりにも民を守ろうとして始まった今回のネフテスとの戦のような、明確な違いは存在しない。もしかしたら、何も変わらないかもしれない。ただ“あの時の自分とは違う”と思い込んでいるだけで、相も変わらず誰かの手の平で踊らされているのかもしれない。

しかし、それでも・・・・・・

 燃え盛る怒りに身を委ね、とりとめもない自責を続けようとしてアンリエッタは気付いた。なにやら民衆が騒がしい。がやがやとした喧噪の中に、時折悲鳴や叫声が入り交じっている。

 ふらふらと視線を彷徨わせると、どうやら騒ぎの元は民衆の後方にあるとわかった。一人のエルフがなにやら叫んでおり、押し寄せた浜辺の波が引くように人々が退っていく。

 詳細が知りたいが、ここからではよく見えない。いったい何があったのだろう? 

 疑問に思ったその時、冠をかぶった少女を恐怖が襲った。突然だった。理由も意味も分からない。しかしただ背筋を何かが蠢いているかのような、本能的な恐怖と拒絶がそこにはあった。

 (・・・・・・アニエス)

 (はっ)

 (あの騒ぎの方へ、今この場にいる全ての水精霊騎士隊を向かわせてください)

(……分かりましたが、よろしいのですか? 彼らがいなければ・・・・・・)

「いいから早くッ!」

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 唐突な女王の叫びに、彼女の視界に入る人々は静まった。しかし次の瞬間には疑惑や懸念が飛び出し、膨大な視線と言葉の渦にアンリエッタは呑み込まれる。

 (どうかなされたのか? 顔色がよろしくありませぬぞ?)

 (いえ、大丈夫、です・・・・・・。・・・・・・何でも、ありません・・・・・・)

 必死に言葉を絞り出しながら、アンリエッタはそれでも視線をアニエスに送る。はっ、と気付いたアニエスは一礼すると、走り去っていった。彼女の後ろ姿が遠のくにつれ、アンリエッタの恐怖の波も引いていく。連合軍を一手に率いる少女は呼吸を整え、自らの過剰ともいえる反応に驚いた。 

 分からない、分からない。

 一体自分は、何をこんなに怯えている? 何をこんなに、恐れている? 

 疑わずとも問わずとも、既に答えは出ている。自分は感じたのだ、不穏な空気を。おぞましい、「何か」を。

  (この感じ、どこかで・・・・・・)

 漠然と覚えている。しかしそれがどこで感じた何だったかは、思い出せない。

 忘れてしまうほどに昔のこと? ・・・・・・いや、違う。まるで、思い出すのを心が拒んでいるような・・・・・・。

 得体の知れない何かが忍び寄ってきているというのに、その足音は聞こえない。アンリエッタにはそれが不気味でならない。しかし台座に座り式典を見届けなければならないこの身を、動かすことは叶わない。ただその衝動を、不安を抑え、隣に座り沈黙を保つ老エルフのように堪え忍ぶことしか自分にはできないのだ。

 (ティファニア、早く帰ってきてちょうだい・・・・・・)

 瞳を閉じて手を組み、頭を垂れてアンリエッタは祈り始めた。自ら定めた始祖への誓い。それを破った上で、それでも始祖に祈る。都合の良いことだとは分かっている。それでも、この式典だけは成功させなければならない。・・・・・・この世界を救ってくれた、異世界から来た少年のためにも。

 (どうか、どうかこの心配が杞憂であってくれますように・・・・・・) 

 何も出来ない、愚かな王さま。だけど、だけどせめて・・・・・・。

 アンリエッタは祈る。・・・・・・しかしその思いも虚しく、恐れていたその「何か」は形を伴って訪れた。

 直後に彼女は思い出すことになる。かつて自分の心に深い傷を刻み、恐怖という名の種を植え付けた「何か」、その正体を。・・・・・・忘れる訳がなかった。それは―――――――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます