断章 式典編

四国友好条約

第4章 土くれと閃光

 

 首都アディールの中心に位置する“評議会”。崩壊したそれを基礎に作り上げた壇上から、冠をかぶった少女、アンリエッタ・ド・トリステインは人々を見下ろしていた。

 人とエルフが織り成す雑多な喧噪が、この場にいる者たちの多さを物語る。数千、いや、数万だろうか。種族という名の亀裂を越え人々が集ったことそれ自体が、壮観の一言に尽きる。

・・・・・・もちろんそのほとんどはこの戦いを乗り越えてきた兵士たちだが、自由都市エウメネスからの来訪者もいる。人と親しくなったことにより迫害を受けてきた彼らはこの式典を喜び、駆けつけてくれたのだ。他にも、仕事の小休止に立ち寄ったのだろう、肩に石材を担いだ人間の大工や、興味本位に見物にやって来たらしきエルフもいる。

 「はいそこ、そこの線から先に入ってこない! 浮かれる気持ちは分かるが、祝いの場だからこそ礼儀はしっかりしないとな!」

 「ったく、見学の整理なんてアクイレイア以来だな。・・・・・・サイトがいないのも、あの時と同じか・・・・・・」

 「なに、結局あいつは帰ってきたじゃないか! ぼくらはぼくらの仕事に集中すればいいんだよ。・・・・・・おい、そっち行ったぞカジミール!」

 出来るだけ式典を間近で見ようと前へ前へと出るエウメネスの子供たち。相手取る水精霊騎士隊たちが声を張り上げ、はしゃぎまわる子供たちを手で制している。

 (彼らは全員無事に還ってきました。あなたはいま、どうしているのですか。サイト殿・・・・・・)

 眼下の親衛隊を見つめて、アンリエッタはここにはいない少年へ思いを馳せる。“大災厄”が起こってから今日でもう十日になるが、未だに彼は見つからない。爆心地を中心に兵士たちに“聖地”をくまなく探させたが、草の根を分けても手がかり一つ残っていなかった。

 ・・・・・・しかし三日が経ち、探すあてもなく途方に暮れていたその時、目覚めたルイズが頼みに来た。

 “陛下。兵を東方へ、ロバ・アル・カリイエに向かわせて下さい。・・・・・・あそこに、サイトがいるんです”

 なんでもロマリアから教えてもらったらしい。話を聞いた最初は当然訝しんだが、偵察隊を向かわせると、驚いたことにおびただしい数の空間の歪みが確認された。

 歪みを覗き込んだ兵士によると、その光景は明らかにこの世界とは違っていたという。ということは、“歪み”の数だけ異世界があり、その世界のどこかにあの少年はいるというのだろうか・・・・・・。

 おぼろげな思考に身を委ねていると、隣に佇み、自分と同様に眼下を眺めていた老エルフと目が合った。

 「・・・・・・女王殿、どうかされましたかな?」

 「いえ、なんでもありません。何かご用でも?」

「なに。今日はかくもめでたき日であるというのに、この老いぼれには女王殿が物憂げなご様子であるように見えましてな」

「・・・・・・この光景を見るたびに、申し訳なく思ってしまうのです。わたしたちはあなたたちと杖を交え、その結果として、多くのものを失わせたのですから・・・・・・」

 テュリュークの言葉に応じつつ、アンリエッタは遠くに目を送る。舞台の高さはおよそ2メイルほどあり、アディールの景色が一望できた。

 人間とエルフ、二種族が協力し合った成果だろう。復旧にも目処が立ちつつあり、目の前に広がる街はハルケギニアでも名高い大都市としての威厳を少しづつ取り戻している。

 しかし、もし“大災厄”が起こらなければどうだったのだろうか。今回の戦いで戦死した者は、人もエルフも決して少なくない。

 ・・・・・・もっと上手く立ち回れなかったのだろうか。考えるが、そんなこと分かる訳がない。なにせアンリエッタは、この戦争が一体どこから始まったのか知らないのだから。

 自分に限った話ではない。人もエルフも、自分の隣にいるネフテス統領でさえ、引き金となったきっかけを知らないのだ。

(自分たちは聖地で行う儀式の時間を稼ぐ足止め、彼らは“大災厄”を阻止するため・・・・・・)

 エルフと自分たち、戦いの目的はハッキリしている。だというのに、アディールへ行軍して以降の経緯がすっぽりと抜け落ちていて、気付いたときには戦は始まっていたのだ。

 ・・・・・・アンリエッタは自分の記憶をなぞり、首を振る。どうして思い出せないのだろう? そしてなぜ、こうもおかしな話が成立しているのだろうか?

 ・・・・・・もちろんその記憶の損失が、とある男の歴史が消滅した事による弊害だということをアンリエッタ・ド・トリステインが知る由もない。虚無に溶かされた“彼”の“歴史”・・・・・・“彼”の行動やそれが周囲に及ぼした影響は、すべて“なかったこと”にされている。その結果生じた空白が、“彼”の関わったもの全てを白く塗りつぶしてしまっていた。

 「閣下、もうそろそろ時間です」

 ビターシャルが懐から懐中時計を取り出す。老エルフは頷くと後方の台座に腰を下ろし、アンリエッタもそれに倣う。今回儀式を執り行うのは、自分たちではないからだ。

 「時は満ちた、これよりトリステイン、ゲルマニア、ガリア、ネフテスの四国友好条約を締結する!」

 魔道具からアニエスの良く通る声が響き、場が湧く。それにしても四国友好条約とはよく言ったものだ、とアンリエッタは心中でひとりごちる。

 ちなみに、この式典にガリア、ゲルマニアの二国は参加していない。聖地回復連合会議直後に“生命”の下準備と称して、ガリア女王ジョゼットはサハラへと飛んだ。そしてそのことを訝しんだゲルマニア皇帝アルブレヒト三世は、ゲルマニア軍をアンリエッタに貸し付けて物見に走ったのだ。

 (きっと、口約束していたガリアの半分を得られれば満足なのでしょうね・・・・・・)

 満足する訳がないと、あの男が難癖をつける姿が目に見えるかのように容易に想像できる。ただ野心家で剛胆な男というだけで、皇帝という立場まで登り詰められる訳がない。兄の留守に暴動を起こして国を乗っ取り、政敵を幽閉するような姑息さも、また彼の持つ一面なのだ。

 勝手なのはゲルマニアだけではなく、ガリアもまた同じ。“聖地”を脱出した後のジュリオとジョゼットの行方は分からず、その姉のタバサもまた行方が知れない。恐らく消えた少年を捜して歪みを転々としているのだろう。この状況での私事はあまり褒められたことではないが、かといって責める訳にもいかない。

 ・・・・・・とはいえ、この式典を行おうと提案したのはアンリエッタ自身である。格式だけの調印や握手、口約束だけでは心許ない。本当の意味での“友好”を築くため、その絆を固く強くするための象徴的な「何か」が必要だったのだ。

 そんなことを考えている間にも、厳かに式典は進められていく。

「ファーティマ・ハッダード殿。ご登壇願います」

 やがてアニエスの声と共に、壇上の右方からエルフの少女が現れた。

 

 誰もが固唾を呑んで見守るなか、エルフは壇上に立つ。その姿は水軍の青と黄を誇張した士官服ではなく、ネフテスの砂漠をイメージした黄金色のドレスに身を包んでいた。・・・・・・しかし、その佇まいは無骨な軍人そのものだった。 

 歩くたびにドレスの裾に躓きながら、しかし毅然と壇の中央に向けてファーティマは歩く。服を着たというより服に着られた、という感じの彼女の姿を見て、エウメネスの子供たちが無邪気に笑い、ネフテス軍、聖地連合軍の双方からも忍び笑いが漏れる。

 “以前のわたしだったら、こんな些細なことでも怒り狂っていたのだろうな・・・・・・” 

 先日エルフ水軍本部でエスマーイルと会い自分の気持ちにけじめをつけたからだろうか。“鉄血団結党”で植え付けられてきた過剰なプライドや自尊心はいまではカケラも残っていない。

 そのおかげか、彼らの瞳に、声にカケラの害意も悪意もないことがよく分かり、ファーティマは自分でも驚くほど冷静に、過去の自分を客観的に見ることができていた。

 “それにしても人間とエルフの仲を、あれほど彼らを蛮人蛮人と憎み、同族から散々蔑視されていたわたしが取り持つことになるとは皮肉なものだな”

(・・・・・・それはそうとして、本当に大丈夫なのだろうか?)

ファーティマはふと思い出す。水軍基地を後にした自分はまっすぐ“評議会”に向かい、あろうことかネフテス統領に直談判を申し込んだのだ。

 人づてに伝える事も考えたが、自分の持つものは一歩間違えれば間違いなく混乱を招く凶報だ。誰かに預け、頼み、託すことなどあってはならない。

 たとえ何度拒まれようとも、と意気込んでいた。・・・・・・のだが、エルフの長はもはやしがない一兵卒でしかない自分との対談に、あっさりと応じてくれた。

 ・・・・・・エスマーイルとのやりとりから得た情報を提供し、自分は脱走に対する処罰を求めた。捕らえられ虜となった者があまつさえ逃亡する。理知と誇りを重んじるエルフにとっては、恥に恥を上塗りするもっとも忌むべき行為である。 

 ・・・・・・だというのに、ネフテス統領が自分に課したのは、処刑でも永遠に続く責め苦でもなく、この式典に参加し、儀式を執り行うという責務であった。

 最初は何の冗談かと訝しんだが、話を聞くともっともな事だと思った。なるほど確かに、自分と彼女――ティファニア・ウエストウッドの生い立ちは、民衆からこの和平に対する同意を引き出すには絶好の話だ。

 そのことに関しては納得している。だがしかし・・・・・・

 (標的にされている当の女王に知らせずにおいていて、本当に良いのだろうか?)

 “これ以上彼らに手を掛ける訳にはいかぬ。身内の恥は身内で処理するべきじゃ”

 確かにネフテス統領の言には筋は通っていたが、ファーティマは自分の言葉が彼に届いていないように感じた。

 ちゃんと自分はエスマーイルの恐ろしいあの狂気を、恐ろしい計画の全容を事細かく伝えたはずなのだが、「そんな体面にこだわっている暇はない」という危機感を彼から引き出すことは叶わなかった。・・・・・・実際問題として、自分を監視していた目付役のイドリスの存在があったにもかかわらず。

 彼を目撃した民衆の話によると、最後に見たのは水軍基地に向かった自分を捜し、大通りを走り回る彼の姿だったという。それから彼は消息を絶ち、今日でもう一週間が経とうとしている。彼の捜索は彼が所属するファーリス・アリィー率いる小隊が懸命に行っているが、未だに彼の行方は知れない。

 ・・・・・・警戒を怠っている、と言うつもりはない。アディールではテュリューク以外はもう誰も“大いなる意思”の行使は行えないし、それに壇の周囲には“意思剣”などの“大いなる意思”に影響されない武器を身に纏う衛士の気配が感じられる。

これでも腕には自信がある方だが、そんな自分に気配しか悟らせないとは余程の手練れだろう。しかも、その数は実に三十を超えている。

 申し分ない体勢。しかし、それでもファーティマの心に不安の影は迫る。何度振り払っても突き放しても無駄と言わんばかりに追いかけてきて、ファーティマの心に恐怖を塗りつけ、擦り込んでくる。

 冷たく、それでいてどろっとしたその感触。ファーティマはとっさに激しい忌避の衝動を覚えたが、顔に出してなるものか、と必死に抑える。

 ・・・・・・もうここまでにしよう。これ以上の思考は、儀式に支障が出かねない。

 それにいくら自分が心配したとしても、何かが変わる訳もない。

 とりあえず今は、目の前の儀式が最優先である。ファーティマはそう自身を納得させると、意識を民衆へと引き戻した。 

 「彼女は幼少の頃に両親を民族異端の疑いで失い、叔父、セルゲン・ハッダードに引き取られた。セルゲン殿は評議会の重職に就いており・・・・・・」

 アニエスの通る朗々とした声に、閑寂となる人々をファーティマは見渡し思う。

 (よくこれだけの人数が集まったものだ・・・・・・)

 いままで誰も見ていなかっただけで、エルフと人間との交流を望む者はこんなにいた。幸か不幸かそれは“大災厄”のお陰で露わになり、その復興の中で、彼らは互いを知ることができたのだ。

 (きっと、民族としての意識も少しずつ変わってきているのかもしれないな) 

 先日、一族の墓へ参りに行ってきた事を思い出す。周囲の目を恐れ、親しき知古ですら寄り付くことができなかった叔父の墓には、叔父の友人たちが続々と集って楽しげに話を交わしていた。

 ・・・・・・来るたびに泥がかけられていた両親の墓石も綺麗に拭き上げてあり、花が捧げてあった。裏切り者と蔑まれていても慕ってくれる者はいたのだろう。顔も声も何一つ知らない名前だけの存在だったが、あの時自分の胸は、不思議と温かい気持ちになった。

 きっとあの時が、自分の心にこびり付いていた最後の憎しみが剥がれ落ちた瞬間のように、ファーティマは感じていた。

 「・・・・・・その後、ネフテスを出たシャジャル殿の責を被り、セルゲン殿は異端の名の下に処刑され、彼女はシャジャル殿に復讐を誓った。・・・・・・ここまで異存はありませんな、ファーティマ殿?」

いままでの紹介を確認するアニエスの言葉に、ファーティマはしっかりと頷き応えた。

 「はい。わたしはずっと、叔父が死ぬ理由となったシャジャルを憎んできました。無力な自分を怨み、呪い、誰よりも力を、強さを欲して“鉄血団結党”に入党しました。あの雨、処刑台、おびただしい量の血。・・・・・・一時も、忘れたことはありません・・・・・・」


 ゆっくりと、しかし確かな声でファーティマが言葉を紡ぎ始めると、どよめいていた民衆は水を打ったように静かになった。その口から放たれたのはエルフ語だったが、ここら一帯の空気をテュリュークが操っているため、人もエルフも意思疎通には困らない。皆ただ、ただ、壇上の少女の身を切るような独白に聞き入っている。

 その小さな背中を、座したアンリエッタは見つめ続けていた。

 従姉妹であるティファニアの、そのまた従姉妹。血縁的には他人も同然だが、彼女もまた確かにアンリエッタの親戚なのだ、気を配らない理由は存在しなかった。

そもそもティファニアと彼女をこの場に立つ者として選んだのは、何もその悲境だけではない。彼女たちの親がそれなりに名を知られていることも、理由の一つであった。

 例えばファーティマ。彼女の叔父のセルゲンは、優秀な学者でもあり、数々の発見をしてきたこともあってネフテスに対する彼の貢献は甚大だったと聞く。人々は皆、なぜそんな彼が民族異端で断罪されたのか不思議には思いつつも、それを口にすることは当時の“評議会”が黙っていなかったのだろう。そのため彼らは疑問を丸呑みし、極力関わらないようにせざるを得なかったのだ。

 アンリエッタはそう当たりをつけ、民衆の関心を高めるためにファーティマに、話の中で彼女の叔父を引き合いに出すよう頼んだ。

 彼女が彼を父同然に慕っていたことは聞いている。そんな思いを踏みにじるかのように、自分は死んだ彼すら働かせようとしているのだ。

 断られても仕方がないと思っていた。しかし、ファーティマは了承してくれた。国のために己を曲げ、自らの過去を痛みと苦しみを伴いながらも振り返り、滔々と語り続けている。

 そのお陰で短くない時を経た今でも、彼の名前を出すだけでこれだけの民衆の心が動き、その姪の言葉に静寂をもって聞き入っているのだ。セルゲン・ハッダードという人物の人望はさぞ厚かったに違いない。

 (本当に、感謝の言葉も、・・・・・・謝罪の言葉もありません)

 呟きつつ、アンリエッタは複雑な心境で壇上を見つめる。ファーティマの話は終盤に差し掛かっており、そう経たない内にティファニアの番がやって来る。

 (それにしても、大丈夫かしら・・・・・・)

 アンリエッタは思い出す。起こったありったけの不幸を、その身一つに背負い込んでしまっていた従姉妹の事を。 

 “才人もルイズも命を懸けて、“大陸隆起”を、“生命”を止めたのに、わたしは何もしてない。それどころか、足を引っ張ってばっかりだったわ。

 わたしが才人を使い魔にしなかったら、こんな事にはならなかったのに。

 ルイズが“虚無”に身体を溶かしながら“生命”を解除しようとしている時だって、ただ、わたしは見ていることしかできなかった・・・・・・

 儀式を行う自分たちの足止めというだけで、戦争があったのに。たくさんの人が、エルフが、死んだのに、わたしは・・・・・・、何もッ・・・・・・! 全部、わたしの、わたしのせいでッ・・・・・・!”

 どれだけ諭そうと慰めようと、ティファニアはそう自分を責め続けていた。

 式典に出なくてはいけない、と分かっていても悲しみは収まることはなく彼女の心を散り散りに乱し、それに対する情けないと思う気持ちがまた一層彼女を傷つける。

苦しみが苦しみを呼ぶ負の連鎖。ティファニア自身がいくら断ち切ろうとしても、彼女の優しさがそれをさせてくれない。

 こんな状態で式典に出たら、きっと罪の意識で潰れてしまう。儀式なんて執り行えるはずがない・・・・・・。

 ファーティマと一緒にどうしたものかと考えていると、タバサが一枚の紙を差し出してくれた。書かれているのは古代のルーン文字。・・・・・・人の心を操る禁忌の水魔法、“制約”だった。

王族が禁術を覚える。一瞬の躊躇いは会ったが、なりふり構っていられる余裕はなかった。アンリエッタは暇を縫っては練習を行い、ついさっき、ほんの少しではあるがその詠唱を習得したのだった。

 “魔法で心を縛り付ける。そうすれば滞りなく、あなたは儀式を行える”

 傷つき嘆く彼女の苦しみを楽にしてあげたかった。こんな“禁術もの”でも、彼女の心に巣くう闇を払えるのならと、アンリエッタは従姉妹を案じていたつもりだったのだ。

 しかし“制約”の話をした瞬間、アンリエッタは自分の選択が間違いだったことを思い知った。 

 ティファニアは嘆願した。お願いだから、自分にその魔法をかけて、と。

 涙に腫れたその蒼い双眸を、揺らしながら。

 嗚咽に濁った、その柔らかい声を震わせながら。 

 アンリエッタの目に映る従姉妹。その姿すべてが苦しみを訴えていた。辛い、助けて、と。その身に溢れんばかりの、負の感情を滲ませて。

 ・・・・・・出すべきではなかったのだろう。

 アクイレイアで“虚無”に記憶を溶かしたルイズを見ていた。自分自身でも、痛い程に理解している。閉じこめれば閉じこめた分だけ、抑えつければつけるほどに、思いは膨れあがり、そして、破裂することを。

 ウェールズを失った時に、自分は彼が生きているかもしれない、という“希望”に蓋をしてしまった。その結果思いは膨れあがり、彼が目の前に現れたとき、既にこの世の者ではないかもしれないと半ば分かっていながらも、自分はついて行ってしまった。

 ・・・・・・たとえいまその場しのぎの痛み止めになろうとも、それはかえって彼女を苦しめる。しかし、それでもこの式典は成功させなけばならない。

 アンリエッタは何度も何度も自分にそう言い聞かせ、呪文を詠唱し―――

 

 ――――――、そして、今に至る。

 「・・・・・・」

 トリステイン女王は縋るような気持ちで、呪文をかけた愛杖の水晶をさする。

 アンリエッタがかけた“制約”はただ一つ。“壇上から降りるまでは、自分のことを責めない”それだけだった。

 アンリエッタは水を得意とする“トライアングル”のメイジではあるが、魔法というのはそう簡単なものではない。どれだけ高位のメイジだろうと、一つの呪文を極めることにはそれなりの時間と労力を要する。

 “ドッド”メイジが“ライン”、“トライアングル”、果ては“スクウェア”も打ち破り得ると言われるのは、これが理由であった。高位のメイジは精神力が多く、様々な強力な魔法を扱うことは出来るが、磨き抜かれた魔法の精度と威力には敵わない。

 だからアンリエッタのかけた“制約”はあくまで付け焼き刃であり、かけられた本人が“制約”を受け入れ身を委ねなければ、保つことですら難しいというほどに脆いものであった。 

 (気を強く持つのです。絶対に観衆に呑まれてはなりません・・・・・・)

 控える従姉妹へと静かに念じ続けるその背中に、気取られぬよう静かに影が忍び寄る。

 「陛下、少しお耳に入れたいことが・・・・・・」

 やって来た影・・・・・・レイナールが耳打ちした情報は、アンリエッタの瞳を大きく見開かせた。

 「・・・・・・なんですって?」

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