教皇の最期


「・・・・・・」

 閉じられたドアの向こうから、風竜が鳴く声が聞こえた。翼を羽ばたかせているのだろう、その風圧に小屋が震わされ、・・・・・・そしてすぐに、静寂が戻ってくる。

「・・・・・・行ってしまった、ようですね」

「ええ。これからが、彼女にとっての試練となるでしょう。いかに真実を語ろうとも、我々はそれを信じさせるに至らない程の嘘を今までついてきました。我々の言葉を信じた彼女が、周囲の反発に遭うことは想像に難くありません」

「しかも、聖下の“存在”が消えたとあらば、その言葉すらも彼女の中で次第に薄れていく。失われていく確信に抱く不安と、定められた時間に逸る焦燥の中、彼女は・・・・・・」

 使い魔の言葉は、そこで途切れた。恋人が支えていた背中が唐突に消滅し、支えを失った主の身体がベッドに投げ出されたからだった。

「聖下!」

「どうやら、ここまでのようです・・・・・・」  

 起こし上げられたヴィットーリオは、死に対する怯えも、生に対する未練もない瞳で、使い魔を悲しげに見つめていた。自分の最期を悟ってしまったいま、この少年を残してこの世界を旅立たなければならない事が、名残惜しくてたまらなくなった。

 懐かしい記憶が蘇る。ふと初めて孤児院で会った時の幼い姿が、成長した目の前の姿と重なった。この世の全てに絶望し、昏い目から憎悪を振りまいていた少年は、今では愛することを知り、立派な一人の若者に成長していた。

 “・・・・・・どうして、僕を選んだんです? どうしてこんな目をしている僕を、あなたは救ってくれたのですか?”

 孤児院から連れ出す際に、幼かったジュリオがそう質問した事を思い出す。率直に答えれば一番元気そうだったからという単純な理由なのだが、考えてみるとそれは月目であることに基因している。

 月目は畏怖の、嫌悪の対象。恐らく自分の使い魔はそれが理由で親に捨てられ、同年代の子供にすら気味悪がられ、いじめ抜かれた。しかし、その中で自分の力を周囲に見せつけ、孤児院の中でガキ大将としての地位を築いたのだろう。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 こうなることは分かっていたから、死に際に話すことはもう既に済ませてある。身体が失われていく感覚と共に、ヴィットーリオは使い魔との記憶を振り返る。

 (思えば、不思議なものですね・・・・・・)

 フォルサテの虚無の担い手は、使い魔を任意に決めることができる。

 担い手の存在が抹消された場合でも、その使い魔だけは主を認識することができる。そこで信頼できる者を使い魔としておくことで、己の身体が虚無に消えても、始祖の遺産や知識を誤ることなく次の教皇に継がせられるのだ。・・・・・・これがその理由だが、ヴィットーリオはそれを逆さに取り、ジュリオを選んだ。自分の代で全てを終わらせるために、使える手駒を増やす。そんなつもりで、少年を救ったのだ。

 ・・・・・・だが、救われたのは自分の方だった。

 ハルケギニアの現状を、“生命”を唱えることを余儀ないと知ったとき、迷いや不安、そして恐れを自分は抱えていた。

 この世界を救うため、他の世界を犠牲にする? そんな決断を、自分は下さねばならないのか。出来る訳がない、やはり、わたしから火のルビーを遠ざけた母は正しかったのではないか・・・・・・。

 どれだけ悩もうとも、教皇という立場はそれを誰かに打ち明けることを許さない。そんな自分を、使い魔は支えてくれた。励ましてくれた。・・・・・・苦しみを、分かち合ってくれた。

「・・・・・・聖下、今までありがとうございました。あのとき、自分を救ってくれたご恩は一度も忘れたことはありません」

「どうしたのですジュリオ、もう別れの言葉は済ませてあるではありませんか」

「いえ、いまどうしても言いたいのです。・・・・・・言わせて、ください」

 目の前の少年の瞳は、いつになく真剣だった。ヴィットーリオはそれを見て微笑む。始祖の元へ旅立つというのに、未練がましく話すのはどうかと思っていたが、気が変わった。自分もこの愛しい使い魔に、残したい言葉が出来てしまったのだ。

「それを言うのなら、礼を言わなければいけないのはわたしの方です。人を騙させ、恋心を押し殺させて・・・・・・。あれだけ辛い思いをさせたのに、あなたは文句の一つも言うことなく、わたしに尽くしてくれました・・・・・・」 

 付き巫女であるミケラを選んだのも、歴代の教皇の出来事をまとめたのも、“聖地”からアズーロを使い武器を集めたのも全部一人でやってのけたのだ。圧倒的な仕事量。陽気なその笑顔の裏に、一体どれだけの血の滲むような苦労と努力があったのか計り知れない。

「ジュリオ、あなたは本当に、良くやってくれました・・・・・・」

 そこまで言ったとき、ヴィットーリオの身体に更なる衝撃が走った。じわじわと身体を削り取っていた虚無が、急速に速度を上げる。末期の末期、溜まりきった虚無の毒が溢れ出したのだ。最期の時は、もう目の前に迫っていた。

「・・・・・・もう何に苦しむ必要も、耐える必要もないのです。今まで背負ってきた重荷の分だけ、あなたは自由に生きて下さい。それがわたしの、最後の願いです・・・・・・」

 虚無の胸元に差し掛かる。ジュリオは目を逸らすことなく、その様子を見つめる。

「・・・・・・ああ、もう一つありました。ミケラによろしくと言っておいて下さい」

「・・・・・・わかりました。そう伝えます」

  消えていく、・・・・・・消えていく。自分が自分である、という認識が少しづつ薄れていくのを感じながら、世界に忘れられていく男は使い魔を見つめる。その瞳はもう先程の憂いを落とし、優しい色に彩られていた。

 使い魔の表情は変わらない。きっと死に往く自分を、少しでも悲しませまいとしているのだろう。

 精霊石の説明を、彼らにするときもそうだった。この少年は自らの心の底から湧きあがる感情も、涙すらも、咄嗟に演技として組み込んだ。結果、彼らは話を信じて自分たちは“聖地”に向かうことが出来た。

 ・・・・・・世界のために、人のために、自分を殺す。本当に、本当に強い子だ。

神の右手がヴィンダールヴ。心優しき神の笛・・・・・・。

 始祖の残した歌の一節を、ヴィットーリオは思い出した。ヴィンダールヴが動物の声を聞き、彼らを操ることが出来るのは、心優しき者がヴィンダールヴとなるからだ。動物たちに人と変わらぬように接することができるからこそ、彼らはヴィンダールヴに応えてくれるのだ。

 ・・・・・・ジュリオ。あなたのその優しさは、あなたが自分に与えた一つの使命なのでしょう。・・・・・・自分が背負った苦しみを、痛みを、誰にも味合わせないように。

 でも、あなたはもう一人ではない。あなたの隣には、あなたを愛する人がいる。二人なら、その荷も重くはないはずです・・・・・・

「ミスジョゼット。わたしの大事な使い魔を、頼みましたよ・・・・・・」

 ジョゼットがハッキリと頷くのをみて、ヴィットーリオは微笑む。・・・・・・身体の点滅が治まり、白い光を発し始めた。

「・・・・・・さよならです、ジュリオ・チェザーレ。・・・・・・ありがとう・・・・・・」 

 光は形を取り、ちりぢりになって天井へと昇っていく。かと思うと、空気に薄れ、溶け、消えていく。まるで蝋燭の最期の灯火のように、光は眩く輝き、強さを増していく。部屋の中を埋め尽くし、すべてを優しい白に染め上げる。

 

 ・・・・・・光が治まり、ジュリオは目を開ける。

 ・・・・・・ベットの上には、もう三十二代目のロマリア教皇の姿は無かった。


「ジュリオ」

「・・・・・・行くよジョゼット。もうじきここにも、亜人がやって来るかもしれないからね」

 踵を返し、主人を亡くした使い魔はドアを押し開ける。ジョゼットもそれに続き、外に出た。

「ねえジュリオ」

「・・・・・・」

「クルルル・・・・・・」

 主の機微を感じ取ったのだろう。風竜は主の頬を舐めようとするが、ジュリオはそれを手で制し跨る。

 ジョゼットの手を取り引き上げ、手綱を握り、風竜は空高く舞い上がる。

 小屋がみるみるうちに小さくなっていく。

 ジュリオは、振り返らない。

「ジュリオ」

 再三呼びかけるが、恋人は、使い魔は応じない。それでも構わず、ジョゼットは口を開いた。

「・・・・・・こんな時くらい、泣いていいと思うの」

「・・・・・・」

「あなたがルイズを探しに行ったとき、あの男の人はわたしに伝えてくれたわ。自分が世界に忘れ去られていること、そして、自分を覚えておくことが出来るのは、あなただけだってこと」

「・・・・・・! どうして、それを覚えているんだ・・・・・・」

 ジュリオは驚愕に振り向く。ヴィットーリオ・セレヴァレの存在はこの世から消滅し、自分以外の人間から忘れられた筈なのに。もう先程のやりとりすらも、目の前の少女は覚えていないはずなのに。

「あの人が自分の身体を削って、わたしに魔法をかけてくれたの。“これだけは忘れないようにしてあげます。わたしに出来ることは、これくらいしかありませんから”って・・・・・・」

 そう答えると、少女は悲しげに首を横に振った。

「・・・・・・ごめんなさい、わたしが覚えているのはそれだけなの。あの人があなたにとってどれだけ大切な人だったのか、わたしには分からない。あなたの痛みも、辛さも・・・・・・きっと、分からない」

 言葉を切る。安い同情なんて、したくなかった。好きな男の子の大切な人を、自分の自己満足なんかで、汚したくなかった。

「・・・・・・だけど、もう一人で抱え込まないで。わたしにも話して。じゃないとあなた、こわれちゃう・・・・・・」

 気付けば、ジョゼットは泣いていた。目の前の愛する少年が苦しみに苛まれているのが、見ていて耐えられなかった。・・・・・・しかし、使い魔の口が開くことはない。

 何とかしてあげたい。でも、自分は何も“知らない”・・・・・・。

 悲しくて、でもどうしようもなくて。ジョゼットは心のままに、ジュリオの背中に身を委ねる。

「お願い、お願いだから。・・・・・・せめてわたしと一緒に、あなたも泣いて・・・・・・」

 込み上げてくるもどかしさの分だけ、抱きしめる細い腕には力が籠もる。孤独な少年の背中を、暖かい涙が濡らしていく。

「・・・・・・なんで、だよ」

 ・・・・・・小さく。しかし確かに、ジュリオは呟いた。

「・・・・・・なんで聖下だったんだ。・・・・・・あんなに、あんなにこの世界のことを案じ、人々の幸せを願った人が、どうしてこんな目に遭わなくちゃいけないんだ!」

 一度言い出したら、もう止まらない。虫に食われて穴が空いてしまった酒樽のように、思いは、言葉は溢れ出す。

「俺は聖下に救われた! ジョゼット、きみなら分かるだろう!? 俺がきみを連れ出したように、あの人が俺に世界を見せてくれたから、今の俺があるんだ!」

 次々と飛び出してくる“知らない男”の人柄や思い出。話すジュリオの頬には涙が光り、その怒声には次第に嗚咽が入り混じってくる。そしてついには、はばかることなくボロボロと涙を流し始めた。

 (辛かったら、悲しかったら泣けばいいのよ。そしたらきっとまた、笑えるようになるわ)

 涙は自分の気持ちを整理している証拠だと、修道院に来る世捨て人は口を揃えてそう言ったのをジョゼットは思い出す。実例だってある。あれだけ泣いていたヴァネッサだって立ち直った。そしていまでは、愛する人を強く想って探しているのだ。

 ならばジュリオだって、きっとこの悲しみを乗り越えることができる。

 (・・・・・・ごめんねジュリオ、なにもできなくて。でもあなたが悲しい思いをするのは、もうこれで最後だから・・・・・・)

 ジョゼットは心でそうひとりごちながら、目の前の背中を強く、強く抱きしめた。自分には、それくらいしかできないから。

「・・・・・・ちくしょう、ちくしょうッ・・・・・・!」

 ジュリオの慟哭が響き渡る。悲しみは、静かな空に吸い込まれていった。

 

 ・・・・・・しばらくすると、ジュリオは顔を上げた。そこにあったはずの涙はもう止んでいて、どことなくすっきりした顔をしていた。

「・・・・・・ジュリオ、もういいの?」

「ああ、泣いて死んだ人間が帰ってくる訳じゃないからね。・・・・・・ありがとう。それと、心配かけさせて悪かった」

 ジュリオは頭をかき、恥ずかしそうに笑う。ジョゼットもぐいっと目頭を拭う。そして突然彼の首を手で引き寄せ、唇を、重ねた。

「・・・・・・心配かけさせたんだもの、このくらいのお礼はいいでしょ?」

 いきなりのキスに驚き、唇をなぞり途惑うジュリオを見てジョゼットは微笑む。

 もう二度と、この愛しい人の涙は見たくない。これからたくさん、いろんな思い出を作って楽しく暮らすのだ。辛いことも苦しかったことも忘れるくらい、笑って生きるのだ。

 ・・・・・・きっと、あの男の人もそれを望んでいる筈だ。そうでなければ、自分が彼のことを“忘れた”という事実を、忘れさせないようにしてくれた理由がない。彼はこの世界で唯一、“彼”のことを知るジュリオを孤独にさせないよう、自分が理解出来るようにしてくれたのだろう。そこまで気を回すほど、彼は本当に、ジュリオのことを案じていたのだ。

「ねえジュリオ、これからどこに行くの?」

「・・・・・・そうだね、どこに行こうか? 僕はどこでもいいよ、きみが一緒なら」

「ひどいわ。またそう言ってごまかすのね」

「今度はホントさ! まあ信用してくれ、って言っても無理な話か・・・・・・」

 他愛のない言葉を掛け合い、笑い合う。手綱を握る大きな手のひらに自分の手を重ね、だれに言うでもなくひとり心に誓う。

 (あなたの大事な人は、わたしが絶対に幸せにしてみせます・・・・・・)

 その時、誓いの途中で一陣の風が頬を撫でた。ヴェルサルテイル宮殿を出たときとは違う、優しくて、どこか暖かい風。

 ・・・・・・返事をもらったような気がして、ジョゼットは重ねた手を絡め、優しく握る。

気付いたジュリオもそれに応え、握り返す。クルルル、と風竜が楽しそうに鳴く。

 (だから、安心して見ていて下さい・・・・・・)

 ジョゼットは誓いを続け、終えると同時に空を仰いだ。まだ瞳に残った涙のカケラは、映り込んだどこまでも青く、澄み渡った世界の端で、きらきらと光り輝いていた・・・・・・。

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