二十九
陽炎を纏った怪人が揺らぎの中で半ば身を低くして今にも獲物に襲い掛からんとする黒い獣のごとくあるのを目にして、ゲオルギーは心の中にある
――プロメテウス。……
その姿は人外の超常にとってすら悍ましく、また恐ろしかった。この年若い男の肉には深々と超常が食い込んでいる。今やあの男は超常の力と一体になっているも同然だ、一つの体の中にああも深くパルタイの力が入り込むなんて、ごく短いパルタイの時間の中で一度として無かった。
なんて、なんて唾棄すべき冒涜的なものをあの女は作ってくれたことか!
怪物を縛る鎖は今や全て解き放たれていた。臓腑は詰め替えられたか、あるいはすべて失ったかのように軽かった。なんと軽やかな体! 細い体の関節から漏れ出る熱と陽炎を身に纏って、怪人は薄汚れた金色の瞳で緑のパルタイを
疾走。
陽炎を振り払い、地面近くを低く、
和久田の手に宿っていたディング《流転》はそのままになっているし、ザイン由来の《流転》の力も持ち合わせている。今の和久田はその気になれば壁を垂直に駆け上がることも、天井に日本の足でへばりつくこともできた。和久田個人に由来する《熱》を含め、自分の体の一部のようにその身に宿る超常の力を行使できるようになっていた。それだけでなく形而下的な非超こともできた。常の肉体についても一時的には自由に操り、いわゆる火事場の馬鹿力を行使することもできた。
しかし、ザイン七星瓢虫それ自体には、虫部分にも展開された鎧部分にも遠隔攻撃能力はない。ゆえに、ゲオルギーがとった近接戦闘の回避という作戦はまさしく彼を相手取る者としては最適解だった。
鞘を抜かないままに鋏を前に構え、手に触れる部分を基準点に爆発的な速度で膨張させる。鞘に収まった刃の丸い先端が砲弾のように和久田の正中線めがけて迫り、腕を交差させてこれを防いだ和久田の体は四五メートル後方へと飛ばされる。着地する頃には上腕の装甲に入ったひびは塞がり始めていた。クラッシャーの奥で和久田は青白い歯を剥き出しにして静かに笑った。これまでにない狂奔の感覚が和久田を支配していた。
ゲオルギーは撃ち出した鋏を再び小さくしてその場に捨て置き、足元に転がる簀巻きにされた生徒達に足を取られないよう避けながら運動場の西へと進んでいき、二十メートルほど距離をとったところで再び鋏を取り出した。モニュメントかと見紛うばかりの大きさに巨大化させた鋏を水平に構え、まっすぐ和久田めがけて鋏を閉じる。
鋏のちょうど先端で装甲ごと両断する目論見だった。それを察知した和久田もまた駆け出した。鋏は根元よりも先端に近い部分の方が少ない力で簡単にものを切ることができる、逆も然り。
鋏の七割ほどの地点で、和久田は両側から迫る刃を掴み込む。ざりざりざり、じゃりじゃりじゃり、手のひらの奥で小さな音が立ち、鷲掴みにされた鋏が表面からぼろぼろになっていく。渾身の力を込めて手首をひねるといとも容易く刃は砕け、その断面は和久田にふ菓子を連想させた。
どうやら、おれの手には他の超常を食うという性質が備わっているらしい。彼は自分の心の中でそう結論付けた。
ゲオルギーは要ネジを基準点に鋏を縮小させると今度は両手に五丁ずつ合計十丁の鋏を携えて敷地の北へ走った。走りながら次々鋏をばらまいていく。鞘を除かれた鋏が地面に転がり、まれに突き立つものもあった。
超常的な力をもつパルタイと雖も、決して超人的であるわけではない。パルタイは皆文句のつけようのないほどの健康体でこそあれ、その身体能力、筋肉の瞬間的及び持続的に出せる力の総量、継走能力、肺活量といったものに限っていえば、日常的に体を鍛えている類の人間にはまるで敵わないのである。平均以上の身体能力を持ち、無意識の限界値を一時的とはいえ突破している和久田に追いつかれるのも時間の問題だった。
射出される鋏の刃をL字に交差させた腕でいなし、虹色の火花を散らしながら和久田は一歩走る足を前に出すごとにじわじわとゲオルギーに近付いていく。握りしめた左の拳、人差し指から小指まで四本の基節骨の根元の円錐形の先端が濁った金色に輝き、手を覆う装甲にも一部にひびが入り、肌を焼く高温が陽炎を伴って噴きあがった。
あと数歩前に出れば拳を叩き込める間合いにまで距離は詰まっていた。接地した母指球に力を込め、やや前のめりに踏み出す。
前に運ばれると思っていた体が、不意に横からの衝撃を受けて、左に飛ぶ。体育館のすぐそばまで飛ばされた和久田はコンクリートの薄い灰色の地面に左半身を打ちつける形で着地し、転がった。転がった先で脇の体育倉庫から持ち出されていたゴム製バット、グラブの入ったプラスチックの四角い箱、ボールケースの内バットに体をぶつけ、整列していた色とりどりのバットの並びが乱れた。
広い面の打撲だった。側頭部と、それから右肘に強い衝撃が加わり、後者は感覚がない。見れば巨大な鋏が地面から斜めに突き出している。地面に突き刺さっていた鋏の一つが立ちどころに膨張して和久田を襲ったようだった。
利き腕が無事だったのは不幸中の幸いとはいえ腕の負傷は運動能力を大きく低下させる。痛みを感じないのは大量の、それこそまともな状態では絶対に出ないような量のアドレナリンによるもので、痛くないから動かしていいという状況では決してないことは想像できた。
ゲオルギーはまたも巨大な鋏を手に、どのように鋏を入れれば和久田の体を動かない内に素早く、効率よく、また確実に切り刻めるか、それらを見極めるように刃の先端を揺らしていた。平素と比べてそれほど表情は変わらないが、それでも興奮していて、彼女としてはかなりの笑顔なのだろう、口の端はわずかに上がっていた。
してやったり、と思っているに違いない。実際和久田は見事にはめられたのだ。そしてゲオルギーは目の前の規格外の怪物に集中するあまり、もう一人のあまりに危険なものの存在をほとんど失念していた。
水兵服を裁ち、背中から腹までを黒い三本の爪が貫いた。爪? ゲオルギーにも和久田にも見覚えがあった。峰にあたる部分は指の輪郭に沿って軽く湾曲し、腹側に備わった刃は指の先端で一点に収束し、刺突も可能な拵えになっている。
「12」「11」「10」「9」「8」「7」「6」「5」、瞬く間にゲオルギーの左肩の数字が小さくなっていく。数字が「3」にまで減少してようやく彼女の体は黒い粘液の形に変わり、武藤の爪を脱すると、よろめきながら和久田の方へ、即ち武藤から離れる方向に歩を進め、次いで、奇妙なことに、正中線を武藤に晒すかのように和久田に背を向けた。
腹部の傷口からは滝のような鮮やかな緑色の液体が流れ出し口からも半透明な緑色の泡をこぼしながら体を少しばかり縮こませて傷を押えていたゲオルギーは、数秒の内に完全に憔悴しきった目に、それでもふたたび激しい意志の燐光を灯して、今にも頭からずり落ちそうな水平帽をまっすぐ被りなおした。そして胸を張り腕を広げ、自らの正中線を最大限敵に見せつける姿勢をとる。
行動の意図が読めず、和久田も武藤も対応が遅れた。変化はその間に起こった。彼女の水兵服の前面、胸も、腹も、腕も、あらゆる箇所が内側から無数のものによって押し広げられ、無残にも細切れに破れる。布地を引き裂いた無数の、彼女が前面に隠し持っていた鋏のすべてが、目の前の敵を押し潰そうと人間の反射をはるかに超えた速度で膨れ上がった。
しかし、しかし、決死の策は失敗に終わった。巨大化した鋏の内武藤に直撃する軌道にあったものだけが、彼女に触れる寸前で極大の金属音と共に停止した。
和久田は《呪い》の完全性を信用していたから一瞬の内に膨張した鋏の群れには驚きはしたものの最初から心配はしていなかったし、あの甲高い音を聞いてなおのこと安心しながら、それでもこの緑のパルタイにまつわる忌まわしい記憶を思い出して、目の前にあったバットの一本を掴んで立ち上がった。
――やっぱり連想するよなあ。青と、金で、
他方ゲオルギーは自らの失念に気付き青ざめたが、もう遅い。金属音を耳にして、震え、要ネジを基準点にすべての鋏を指の先ほどにまで収縮させた。武藤はもはやゲオルギーではなく、その後ろに立つ男の目をまっすぐ見ていた。
泣き腫らした跡のある目をそのままに、半ば無理をしてにこりと笑う。
引導を渡せ。私ではなく、あなたが。
そう伝える微笑みだった。
三つの穴が開いた柔肌を外気に晒し、ほとんど下着姿も同然になったパルタイは、背後で蠢く超常と熱の気配に総毛立ちながらも、それでも振り返らずにはいられなかった。
所々に青と金色の光を放つ
《流転》のフェルミがケルペル展開の時に最初は粘性の高い液体を纏うように、あるいは和久田のザイン七星瓢虫が鎧を展開する際に瓦斯とも液体ともつかないもので和久田の体を覆うように、このザインの力の一端には、『流動する鎧でもって武具を覆う』というものがあった。
『よくも――』
和久田が《棒》を握る力をいっそう強めると、皮下の血管が脈打ち、それに呼応するように左腕の装甲がわずかに厚みを増し、《棒》を覆う甲殻がひび割れ、薄汚れた金色が現れる。と同時に感覚のなかった右腕の装甲も蠢き、腕自体に力を入れることなく持ち上がった。甲虫は外骨格を持ち、ザイン七星瓢虫はその外骨格を自由に操作できる。とはいえ今のように損傷により筋肉では動かせないというような時でないと、こんな使い方はできないだろうけれど。
『よくも、アリスを、泣かせてくれたな、ゲオルギー!』
ノイズ交じりの叫びと共に振り上げられた《棒》のシルエットは既に元のバットとは似ても似つかないものになっていた。径の均一になった愚者の金色の《棒》が帯びる熱量に、ゲオルギーは考えるより早く水兵服の背面に仕込んでいた鋏を一丁取り出し撃ち出す。だが、怪人の方がわずかに初動が早かった。右上腕の装甲で鞘の一撃をいなして低い姿勢で踏み込む。また鋏の一撃。《棒》を直撃するが触れるどころか近付いた途端に鞘が溶けて刃も寸詰まりにひしゃげ、怪人が一振りすると、軌道上にあった鋏は触れる傍から完全に蒸発した。左から右の一閃の後左に払った《棒》を手放したカフカは空になった左手の内の空間を握り潰し、その拳に小太陽を出現させる。基節骨の中央に濁った金色の亀裂が入り、手の甲から上腕まで広がっていく。放射状に広がるディングの時には青かった文様も一面激烈な金色を呈するに至る。
彼の怒りは義憤ではない。義憤でザインは動かない。徹底した利己の怪物の第一級の
怪人はその左拳を、まっすぐパルタイの顔面に叩き込む。鼻っ柱をへし折りめり込む拳にわずかに遅れてパルタイの顔や首や肩口が黒く変じ、その粘液とも炭ともつかない黒い部分の内側から大小の気泡が発して膨れ上がる。
拳の熱は竜巻のような螺旋を描き貫通してパルタイの顔を吹き飛ばし、緑のパルタイの肉体は彼女の鎖骨の下あたりまで爆散した。爆風とでもいうべきものに乗って舞い上がった水平帽が宙を漂い、コンクリートの上に落ちた。
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