三十

 サマルスキの作った壁が消えて後、全生徒に自習時間が与えられた。和久田のクラスを含め体育の時間だった生徒にも自習が言い渡され、教師たちは全員職員室だか校長室だかに集められた。風の噂では、あの黒い箱状の壁が現れていた間は、携帯電話の電波や学校の固定電話用の電話線に至るまでありとあらゆる外部との連絡手段が封じられていたらしい。一方でダヴィドのあのスピーチは敷地の外まで届いており、和久田の周りのツイッターはじめSNSはパルタイの話題でもちきりだった。

 パルタイや超人のことで騒がしいクラスの中で、和久田はいたって落ち着いていた。それが少し意外だった。自分が深くかかわっていて、そのことをずっと秘密にしていたものがこうも注目を集めたら、少しは自分もそわそわしてしまうのではないかと考えていたのだが。

 簀巻きになっていたクラスメイトは全員何事もなく簀巻きから解放された。皆ダヴィドのスピーチと、敷地中に響いた金属音と、獣の咆哮に似た「カフカ」を名乗り「アリス」の名を呼ぶ叫び声を聞いていた。ただ一度和久田が肝を冷やしたのは、そのカフカの名前が俎上にのぼった時である。パルタイもケルペルを起動させたりあの黒服の姿になると声を変えるが、その意味がようやく身に染みてわかった気がした。

 武藤はいつもと変わらず本を広げていた。『ツルゲーネフ全集』第二巻。涙の跡はきれいさっぱり消えていた。

 結局ゲオルギーはあれだけのことになっても死んでおらず、肩から上を無くした体が地面に崩れ落ちるやサマルスキの力によって回収された。曰く心臓を破壊しない限り即死はしないそうだ。それきり和久田は彼女の行方を知らない。彼はひそかに顔も知らないサマルスキなるパルタイに感謝した。武藤以外の人間や人間の姿をしたものを殺すような真似はしたくなかったから。

 和久田が武器として使ったゴム製バットはところにより焦げ、ところにより溶けて、二度とバットとしては使えない有様になっていたので、いったい何があったらこんなことになるのかと皆疑問に思いながら処分された。


 その日は会議やら何やらが長引いたことで授業が後ろ倒しになり、校舎を出る頃には日はだいぶ傾いていた。白っぽい春の光の中で西門はじめ男子連と自転車を取りに駐輪場へ行く道すがら、和久田は頬に触れる風に、得体の知れないものが混ざり込んだ。

 しょう――。

 敷地外からの目隠しである茂みの奥から、湿った灰色の顔の男が現れる。

 和久田はその顔に釘付けになった。足を止める。他の面々は都村など気にもしないで前へ進む。

 都村は植木をかきわけてコンクリートの地面に降り立つ。木漏れ日や光の反射の色がひどく鮮やかなまま固定され、カラーの世界で唯一、その炎のような瞳を除いて一切モノクロームの色彩がその場所に立つまで、草をかき分ける時にさえ、ほんの少しの音も聞こえなかった。

 男子連は和久田が足を止めたことにすら気付いていないようだった。そのまま前へ前へ進んでいき、和久田だけが残される。なぜおれは足を止めているのだろう? なぜおれはわざわざこの男の前に立とうとしているのだろう? パルタイとも異なる《超常》のありようがそこにあった。

「君の戦いぶり、見せてもらったよ。おめでとう。初陣としては上出来だったんじゃないかな」

 都村の表情もよくわからなかった。角ばった顔のこの人物は、その顔の奥底で何を考えているのだろう。感情や思索の類が読み取れない顔をしていると和久田は思った。

「あなたは、それでいいんですか」

「それでいい、とはどういう意味かね?」

「僕の願いは喜ばしいものなんですか、あなたにとっては。武藤の願いを叶えて、彼女の魂か何かを貰っていくつもりなんでしょう」

 あぜは無言だった。赤い瞳の色が揺らめいた。

「他の願いを叶えるのがあぜの、何だろうね、習慣というのも習性というのも違うし、使命なんて大それたものでもないし、かといって役目と表現できそうにもない」

 習慣、習性、使命、役目……都村は急に話題を切り換えた。

「武藤くんは息災かね」

 和久田は耳を疑った。

「なんですって?」

「彼女は息災かと、変わりないかと聞いているんだよ」

 何を言っているんだ、この男は。

 眉根を寄せる和久田を見て、あぜはおもむろに手を掲げ、自らの手のひらを和久田に晒す。

 何か大事なことが、あぜに問わねばならないことがあったような気がした。しかし、気がしただけだ。和久田は既にその内容を忘れていた。問わねばならないことを忘れているという感覚だけがあった。

「大差ないようでよかった」

 じゃあ私はこれで、と言い残して、あぜは植木をかきわけて、ふたたび茂みの向こうへ歩いていった。


 何日かぶりに男子連とカラオケに行き、井坂共々やれワンオクの『The beginning』だエヴァの『残酷な天使のテーゼ』だを歌い、沼田に誘われて離脱、ラーメン屋をはしごしたあげくマクドナルドに深夜二時までたむろした。

 深夜に飲むコーヒーほど脳への刺激になるものはない。Mサイズのホットコーヒーを啜っていると、沼田がぐいと顔を近付けて聞いた。

「T、髪切った?」

「いや、べつに」

「そう」

 平木と西門が「TはタモリのT」「ウケる」と口走る。

「イメチェンでもしたのかと思った」

「気のせい気のせい」

 翌日登校の準備をしていると、ここ数日はやって来なかったフェルミが、少し前までのようにインターホンのベルを鳴らしに来た。

『おはようござまーす!』

 仕事の都合で普段より早起きしていた彼の父が、あぁフェルミちゃんかと呟く。和久田家の両親に見送られて彼は家を出た。

 フェルミはなぜか自転車に乗らず手で押して歩いたので、和久田もなんとなくそれにならって跨りはしなかった。フェルミは体の右に、和久田は左に自転車を配して進んだ。道路の右側を和久田が車道寄りになって歩くので、自然と二人の体の距離が近くなる。その状況を楽しみ、もっと近寄ろうとしてくるフェルミを和久田が気持ち道の端に寄らせながら歩く。

 朝の住宅街は人通りこそ多くないが常に誰かしらがせわしないあるいはのんびりとした様子で道を歩いている。しかし偶然その流れが途切れ、鳥も飛ばず、二人以外には影一つ見えないようになった。

 フェルミが足を止め和久田を呼び止める。

「ねえ、和久田さん」

 なんだ、と和久田。フェルミは自転車のスタンドを下ろし、和久田の方を向き小さく踏み出した。思っていたよりもずっと近くに彼女の異人を思わせる目や手入れのおかげでわずかに潤んだふっくらとした唇が見えて、和久田の目は送られる視線に縛られながら流麗な鼻筋や血色の良い滑らかな頬を泳いだ。

 数秒そうした後、彼女はぱっと顔を離してためらうことなくがっと脚を開いて自転車に跨った。

「何だったんだ?」

 フェルミは照れ隠しのようにただくすくすと笑って言った。

「ご褒美のちゅう、しようと思ったけど、やめました」


 教室に入る前から何やらざわついている様子はあった。「カフカ」という名の「怪人」が、パルタイを撃退したのだ。そんな話がもうそこかしこにはびこっていた。

「お、和久田! いたいた!」

 どたどたと走ってきた井坂が和久田の肩をつかまえた。目をきらきら輝かせている。

「カフカがお前だってマジ?」

「ははは」

 どう答えるべきか真剣に考えた。時間稼ぎのために乾いた笑い声をあげていると、別の四五人がつめかけてくる。

「お、和久田じゃんおはよー!」

「そういえば昨日体育のとき最初いなかったよな」

「ああ、一人で飯食ってたらうっかりして」

「実際カフカとワクタって似てないでもないけどどう思う?」

「あ、そういえばフェルミちゃんもいなかったよ」

「いやフェルミはいたよ、途中からどっか行ったけど」

「昼は一緒にいた」

「誰か奴の写真持ってないかなあ」

「無理でしょ、窓もなんか塞がれてるかしたらしいし」

 和久田に何か話を持ってきたはずの彼らは、いつの間にやら各々で勝手にしゃべりを始めてしまった。

 パルタイは、あるいは《超常》一般は、人間に認識されることで初めて確固たる存在を維持できるという。この人外は噂の通りに人の命を《生命への意志》という形で願いを叶える契約を通じて収集している。そして今、和久田徹とその名前において共通点を持った新たな怪人の噂が流布し始めた。

 あるいはこれも計画の一環か? 片目でフェルミを見るが、彼女は和久田など気にも留めずにクラスメイトと戯れていた。

 皆パルタイとカフカについて話している。しかし皆それをあくまで噂、話半分として語っており、本気で和久田がパルタイの仲間だと思っている者は一人としていない。あえて本当のことを単なる噂話として流布させ、追求を回避する。

 あるいは、そう、あるいは……。

 しかし和久田にとってはこれまで通りの生活を送れるならば別段何の不満もない。噂話に花を咲かせる同級の面々を尻目に鞄の中のものを机にしまうべく和久田は窓際の自分の席へ向かう。

 教室の一番後ろ、葉桜の見える窓に最も近い席。その一つ手前、最後尾窓際から二番目の席には、いつもと変わらず背筋を伸ばして本を広げる武藤の姿があった。

 椅子の後ろを通って自分の席に向かう。昨日の今日のことや武藤の発言もあって、言葉一つとして交わさない。それでよかった。言葉はいらなかった。ただ五体満足で学校の教室に来ているという事実があれば、互いの安全を知るには十分だ。

 和久田は机の上に鞄を置き、金具を外した。

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