二十七
人間に《何か》がとりつき、瞬く間にサバナの獣の如き四肢を持つブラックアフリカンへと
それがパルタイだ。《超常》だ。人を殺し魂をかき集める人外なのだ。こんな派手なことをして何を企んでいるのだと武藤は内心怒りに震えていた。しかし何もできなかった。この場ではあの黒兎の力を展開することもできない。それだけは、するわけにはいかないのだ。あれは人知れず使わなければいけない力だった。武藤は自らの命が終わるまで、誰とも没交渉なだけの普通の高校生としてふるまわねばならないのだ。それが《あぜ》と契約する際に武藤が呑んだ条件だった。
歯噛みする武藤をあざわらうかのような変化が起こったのは、そのすぐ後のことだった。ダヴィドが片手をあげ、振り下ろすと、砲弾の発射のような爆音が響いた。指を鳴らした音だとは誰も思わなかった。そしてそれを合図に、無数の橙色の文字が展開した。
「Bindung」。
運動場に散らばる生徒とまったく同じ数が展開された。そもそもそれら文字列は生徒の体に貼り付くように展開されていたのだ。橙色の文字列から黒い帯が出現し、体を縛り、目を覆い、口を塞いだ。武藤も手足を縛られ、地面に横倒しにされた上で、地面から湧き出た三本の帯に押さえつけるように巻き付かれた。
あたかもこれから起こる出来事を見せず、声をあげさせず、それでいながらこの場に留まらせて、これから起こることを聞かせようとしているかのようだった。武藤にだけは、目隠しはされなかったようだが。
紫色の目をしたパルタイは、いつの間にやらその手に数枚の紙きれを持っていた。うやうやしい手つきでそれらを広げ、滑稽なほどに背筋をぴんと伸ばし、声を発した。
『Sehr geehrte Damen und Herren、紳士淑女の皆さん、はじめまして、われわれはパルタイ、巷を騒がす願いを叶えるものども、超人を目指すものどもであります』
その声は一人の人間が発しているとは思えないほど大きかった。武藤は最初は視線で、それからは首も回して、生徒たち全員が拘束され目隠しをされていることを確認した。
『そうです、われわれは超人、der Übermenschを志向するもの。ツァラトゥストラに続くもの、そして今ここに、大いなる夜明けを宣言するもの。大いなる正午への第一歩、あまりに卑小にして虚無なるも、偉大にして無限なる一歩をここに宣言するもの。此処は大いなる夜明けの時間、Morgenschön眩い美しき曙の刻限、このパルタイ・ダヴィド、手始めにこの場所でひとつ演武を御覧にいれましょう。Mit vorzüglicher Hochachtung, Auf Wiedersehen』
器用に畳まれた紙は空気に溶けていくかのようにいつの間にかダヴィドの手の内から消え去っていた。すると武藤を縛っていた拘束が解け、ダヴィドが紫色の瞳を向ける。
『安心なさいませ、校舎その他建造物すべての窓はサマルスキによって目隠しがなされてありますから、幾ら《力》を展開すれども何人たりともえ知り給はず。ではアリス殿、我がケルペルの真骨頂お見せしましょう。舞いませい、小さき
武藤は何も言わず指の数十倍長の爪を展開した。五歩の助走の後肉食動物のように鮮やかに跳躍したダヴィドは、尋常外の速度で武藤に迫りながら三度目の変化を遂げ、殺意の爪はその肌に触れた先から粉々に砕け散った。
周囲に起きた突然の変化に和久田は二つの気配のうち片方がダヴィドであることを察しながらも戸惑い、他方フェルミはいたって平然としていた。
「おいフェルミ、これは何だ、何が起こってる」
わざわざ問う必要はなかった。解は出ている。親フェルミ派のダヴィドとあともう一人が何らかの作戦行動を開始したのだ。立案計画したのは誰かなど、言うまでもない。
「前言ったようにパルタイは子を産めないので、数を増やすには自然発生に任せるよりほかありません。ところで生殖ができないパルタイがいかに同胞を殖やすのかというのと同じくらいにパルタイが血道をあげて取り組んでる課題があるんですがね、何だかわかりますか、和久田さん」
とフェルミは言った。
沈黙。
「あなたがもう考えてることですよ」
彼女は昨晩のことを言っているのだとすぐわかった。人を殺せないパルタイが、それでも敵対する人間を殺し排除する方法。
「まさか、おまえ」
「いやいや、まさか生徒職員の無差別虐殺なんてしませんよ。パルタイは人間に認識されて初めて存在できるんですから、その場にいる人間を全員殺すなんてことしたら、自分らまで消えかねません」
フェルミはどこからともなくあのタブレット、Maschinechenを取り出した。姿も一瞬の内にブレザーの高校生から背徳的な色のあるゴスパンクの童女へと変わる。立体映像を起動させると、タブレットの上の空間に板状のディスプレイが浮かび上がり、そのディスプレイの画面上には一城高校の運動場が映し出されている。
「サマルスキ撮影の映像です」
異様な光景が広がっていた。黒く細長い繭のようなものがそこら中に点々と倒れており、よく見ればどれもが微妙に動いている。拘束を脱しようとしてもがいているのだとわかった。片方の端には肌色が見える。何らかの手段で目隠しをされ口を塞がれているが、呼吸はできているらしい。激しく動いているのは二人だけで、一人は白い髪の上に黒い兎の耳を載せて、全身を礼服で覆った輝くような白い肌。もう一人は肌髪共に色素が薄く痩せぎすで細い四肢を持ち、纏っているのは学校指定の運動着。そのどちらもが和久田にとっては見知った人物だったので、彼はひどく動揺した。
「武藤、
そして、西門の瞳は濃い紫色に輝いている。その様はあたかも眼球に紫水晶を埋め込まれたかのようだった。
「ダヴィドが操ってるのか」
確かにふたつあった気配の一つが運動場さして走っていき、途中で消えたのは和久田にもわかっていた。サマルスキ、そしてダヴィド。親フェルミ派の二人か。
その時西門の拳が武藤の腹を鋭く抉り、武藤は浮き上がった体を痙攣させながら蹲った。和久田は悲鳴ともつかない声を上げ、顔中の肌は熱くなり、血を被ったように赤くなった。
特に意識することなく、和久田は運動場へ向かおうと走りだした。しかし背後で超常の感覚が膨れ上がり、和久田は両腕を掴まれ、両脚を搦めとられて、なすすべなく宙に浮くよりほかなかった。フェルミがケルペルを起動させたのだ。背負った薄い直方体からは一対の青い光の翼が生え、童女の両腕両脚は光を反射しない滑らかな毛に覆われ禍々しく長大な形に変化していた。
「確かに彼女のバリアーはパルタイにはどうしようもありません。しかしあのバリアーは日常生活を送る上では問題ないように設計されている。人間が多少触れた時にそれらすべてを跳ね返すようではいけない。そして……これは推論ですが……皮膚を傷つけかねない点の圧力や線的な圧力は別として、あのバリアーは面的な圧力は透過する仕組みを持っている。そうでなければたとえば満員電車なんかに乗れなくなってしまいますからね。つまり圧迫は有効。そして人間の体であれば彼女に触れることができる。じわじわとボディーブローのようにダメージを蓄積させていき、最後にはその蓄積されたダメージによって、コロリと……そうなれば、もはやパルタイが殺したことにはなりますまい」
「フェルミ、
和久田はディングを展開してもがくが、どうしようもない。フェルミは大きく深いため息をついて言った。
「そんなディング一つでどうやってパルタイのケルペルに対抗しようっていうんです?」
ディングはケルペルの一部に過ぎない。当然前者の力は後者に劣る。そもそも和久田のディングには直接的な攻撃力は何一つないのだ。どう転んでも今の和久田に勝ちの目はない。フェルミの言うとおりだった。和久田の持つ超常の力が元を辿ればフェルミのものであるという事実に思い至り、抵抗を諦め、項垂れた。頭の中では武藤に拳を向ける西門の体を操るパルタイの姿や、あるいは黒い水兵服姿のゲオルギーに姿の見えない橙色のサマルスキ、黒兎の姿を展開し殺意の爪を振う武藤や、その他種々あれこれのことが渦巻いた。
武藤……。
あの時和久田はなぜ武藤の首を絞める力を緩めたのか? 簡単なことだ、武藤が今わの際にその顔に笑みを浮かべたからに他ならない。早い話が、興ざめしたのだ。その反応が期待と違ったから、その顔に最後まで苦痛と抵抗とを見せなかったから、そこにただただ不満をもって力を緩めたにすぎないのだ。
同時に和久田は死を前にして笑みを浮かべた彼女に少しばかり恐怖を覚えたのも確かだった。それはあくまで和久田が殺すことを指向し殺されることなどみじんも考えない精神性をしているからに相違なかった。だからこそ武藤の何かと自己犠牲的な部分に違和感を持っていたのだろう。そして和久田はその笑顔から、今わの際に見せた笑顔から、その心の底に横たわる、彼にとってはなんともおぞましいものを知った。
沈黙。
「武藤はさ」
と言った。そうなると、次から言葉があふれてきた。
「あれが一番望んでるのは、きっと、殺されて死ぬことなんだ。
「あいつは本当、本当は本当に、普通なんだよな。おれとは違う。普通だと思い込んでて、その実まるでまともじゃなかったおれとは全然だ、真逆と言っていい。あいつは生まれつき体に色素がないとか、とにかくそういう変異があるだけで、きっと読書が好きでちょっと偏屈なごくごく普通の女子なんだろうな。でも《超常》と関わったせいでそれが変わった。《あぜ》と出会わなければ、いや関谷さんと出会わなかったら、今だって肌も髪も白いだけでそれ以外は本当に普通な秀才として生きてたんだろうと思う」
すべてはあくまでも推論だ。だが和久田にはそうとしか思えなかった。
「そうだ、変わったのは関谷さんに会ったところからだ。気の合う仲間ができた、それも十年以上生きてきて初めての仲間だ。その関谷さんが、武藤の髪を黒くするために、日の光の中の世界を見せるために、自分の命を売った。たとえそれが残り少ない望み薄の命だったとしても、関谷さんは武藤のために命を使ったんだ。それは武藤にとっては、関谷さんが自分のために死んだも同じだった……。
「怒りの矛先が向いたのはあぜだった。でも本当は違ったんだ。なあフェルミ、あいつは、武藤は、今朝おれの目の前で、死んだっていいんだって、パルタイに殺されたところで別に構わないんだって言ったんだぞ。
「自分の命なんてどうだっていい、なぜか? 武藤の中じゃ、武藤陽子は人殺しだからだ。自分が関谷さんと出会わなかったら彼は死ななかった。自分がアルビノとして生まれていなかったら彼は死ななかった。自分が生まれてきていなかったとしたら! 人殺しの武藤陽子が、最初から生まれてさえ来なかったなら! あいつは、笑ったんだ。おれに首を絞められて、今にも意識を失いそうで、自分が殺されそうになったまさにその時、武藤は一瞬だけ、本当に安らかな笑顔をして……おれが殺したいのはそんな武藤じゃないのに!
「そうだ、おれが殺したいのはあんな武藤じゃない。でも、たとえどんな風だったとしても、おれ以外の奴に武藤が傷つけられるのは我慢ならない」
「まるでダグバですね」
「ダグバ、ダグバか」
ン・ダグバ・ゼバ。
ここに至って未だに和久田は今この瞬間喋っているのが誰なのかはっきりとは自覚していなかった。おれは怪物だ、だが怪物を外部から見ていた人格が消えたわけでもないはずだ。今おれはどうなっているのだろう?
「こんなもの、ダグバと比べられないくらい、ひどい」
和久田は笑みを浮かべていた。
そしてそこに至って、空中に縛り付けられたままの和久田は気付きを得、笑い声をあげた。
「はは……ははははは、ははは…………」
なるほど、これが計画か。
「おまえ、最初からこうすることが狙いだったんだな」
特別な舞台を用意し、パルタイと武藤を戦わせ、その様を見せつけることで発破とし、和久田に契約を促す。フェルミは和久田に鎧型のザインを埋め込む。《超人》に至るための第二のルートが現れる。
少なくとも武藤について言うならフェルミらの一切の努力は無駄になることを和久田は知っていた。《呪い》は完璧だ。だが、フェルミは別の側面では成功を収めていた。和久田は既に今この状況が本当に我慢ならなくなっていたのだから。
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