二十六

 何が起こったのか、吹き飛ばされて空中にいる間はわからなかった。しかし階段を転げ落ちている間には、自分を襲った衝撃がなんであるか彼は既に把握していた。

 和久田は武藤の言葉を思い出した。ずっと前のようで、しかしほんの二日前のことだ。彼女の家で、武藤が自らの《呪い》についてこう言っていたじゃないか。

『あの人は、何があっても私が生きながらえるように、寿命以外で絶対に私が死なないように、私を――私を、改造したんです』

 聞き流していた。

 関谷の《呪い》は完璧だった。蟻の這出る隙もない。パルタイら《超常》でも、人間である和久田がディングの力を利用しても、あぜが武藤にかけた呪いは絶対にそれらすべてを弾き返し、武藤を守る。この人間の魂は自分のものだと宣言せんばかりに。己の命を引き換えに尋常の世界を与えた人間に最大の幸福を与えるために。

 踊り場まで落ちていき、階段の向かいの壁まで転がって、和久田は一度頭をしたたかに床に打ちつけていた。ひどい痛みだ。頭のみならず全身が打ち身からくる痛みを発していた。だがそんな痛みはどうでもよかった。彼はその痛みにかかずらってはいられなかった。内臓をひとつかみにされ、雑巾のようにしぼり上げられるような激烈な痛みが暴れ回っている。和久田の良心と忠誠心があげる痛みだった。体中が震えている。歯の根が合わない。罪の意識が形を成した大蛇に己を内側から食い尽くされてしまいそうだった。

 震えながら酸素を取り込み呼吸を整えるまで回復した武藤は、いわゆる四つん這いの動きでおずおずと吹き飛んでいった和久田の様子を覗き込んでいたが、その目にはやはり怯えが見え隠れしていた。和久田はその武藤と目が合うと、ここに来た時持っていたものを一顧だにせず一目散に階段を駆け下りていく。

 吐き気がした。視界が歪み、揺らぎ、今にも倒れそうなのを速度を保つことで自立し続けようとするかのように走った。いつの間にか内履きになっていたがそんなことには構うこともできず屋外に飛び出し、ふらつく脚がさすままに校舎の北端へ向かっていった。そしてその角を……おそらく習慣を無意識になぞったのだろう……駐輪場がある東の幹線道路側へ曲がろうとしたところで、足を何かに引っ掛けけつまずき、顔といわず胸といわずコンクリートの地面にしたたかに打ちつけた。

 和久田がひっかけたのは人の足だった。その人物は身長百七十センチに届く女子としては長身の部類に入る《超常》で、和久田より頭一つ高い背の頂点にある二つの色素の薄い目が、今は影の落ちた顔の中で炯と輝きながらあなどりを含み和久田を見下ろしていた。

「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな」

 和久田はその文句を知っている、よく知っている。中学の授業で扱ってから思い返す旅何度も何度も読み返した、ヘルマン・ヘッセの短編の中の言葉だった。ヘルマン・ヘッセの短編の文句をさながら芝居の台本に書かれた台詞を適当に読み上げるように声を発したこの女生徒のこともよく知っている。彼女は和久田のすぐ隣のアパートに住んでいる、イタリア系アメリカ人と日本人の間に生まれたと自称する人外の輩なのだ。

「少年の日の思い出か」

 和久田はその話の中の少年にempathyを感じていた。きっとだからなのだろう、彼が何度もその短編を読み返したのは。

「懐かしいな」

 コンクリートに手をつき起き上がって見上げる和久田を、フェルミは腕を組んだまま無言で見下ろしていた。


「和久田さん、何があったんです?」

 フェルミは和久田に貸与しているディングから発される電波のようなものを拾ってそのディングが、ひいては和久田がどこにいるのかおおまかに把握することができた。貸与されたディングと貸与したパルタイとの距離が近いほどその精度は正確になる。フェルミはそのようにして和久田がその都度どこにいたのかは把握していたが、しかしその場所で和久田が何をしていたのかまではわからなかった。

 ただ手掛かりになるのは、第三校舎の屋上へつながる階段で一度ディングの力が行使され、その証拠にフェルミの持っていたタブレット上のアイコンが激しく光り輝いたということだ。

 問われた和久田は顔を背けるように俯かせて、打ち震えた。

 もうこの時には和久田はすべて理解していた。ずっと自分の心に巣食っていた怪物が何であり、どこに起源を持っているかも。なぜ一瞬首を絞める手を緩めたのか、その理由も。カトリックの祭司風に、あるいはツァラトゥストラに理想を仮託した哲学者風に言うならこうだ、「悪徳はある、しかしそれはあなたに属している」。

 悪徳はフェルミが持ち込んだのではなかった。ずっと昔から和久田の中にあって、その存在に気付いていなかっただけなのだ。

「ずっと、クウガになりたいと思っていた」

 あの怪物はフェルミが植え付けたようなものではなかった。既に鎖は打ち砕かれていた。その鎖を砕いたのでさえフェルミではないのだ。

「ああそうさ、早々に諦めたよ。でも似たようなことはずっと考えてたんだろうな。おれは、まさか自分が望んでいたものの反対の位置に生まれた時からずっといただなんてかけらも考えもしなかったさ。フェルミ、前おれが、おまえがおれの頭に植え付けた云々言ったよな、あれはおまえのせいじゃない」

 和久田は今話している自分がどちらであるのか、何であるのか、わからなかった。今や主従が逆転している。今や? 否、最初から逆転しているのだ、ずっとそれに気付かず、自分は何もできないが普通なまっとうな人間だと思い込んでいたにすぎない。

「おれは武藤をレイプして殺したいと思ってる。心の底から」

 怪物は和久田だった。和久田徹は怪物だったのだ。

 そして和久田は、自らの内の武藤陽子を崇拝する部分と凌辱する部分とが根本の部分で極めて密に絡み合っていること、ほとんど同根であることも理解した。

 無論ある時点までは怪物はなりをひそめて、いわゆる《和久田徹》の社会的に健全な人格が表に出ていた。武藤の鳩尾に拳を叩きこむ前後に起こった思考のざわめきを合図に、表と裏が逆転し、夢の中の順序を跳び越して歪んだ《再現》が行われたのだ。表と裏……あるいはほとんど同根にある崇敬と下卑た欲望もまた、コインの表と裏のような関係性にあるのかもしれなかった。

 ひっくり返ったさらに後、現在の和久田の人格は、いったいどうなっているのだろう? 彼はひどく罪を感じているが、同時に武藤にかけられた《呪い》を破れなかったことに自らの喉笛を爪で掻き切ってしまいそうなほどの悔しさと怒りを覚え、臓腑を駆け巡る痛みに脂汗をかき、痛みのあまり今にも身悶えしそうなのを必死にこらえながら、それらすべてを俯瞰するようなひどくさめた感覚も持ち合わせていた。

 フェルミに告白できるのは、犯し、殺すところまでだった。食人の願いなど、本人以外の誰に向かって告白できようか。

 和久田を見下ろしていたフェルミは表情のない顔から一転、妖艶という形容の似合う薄笑いを浮かべて言った。

「ちゃんと言えたじゃないですか」


 和久田が去った後、武藤は大方ボタンの取れてしまったワイシャツを隠すようにブレザーを羽織り前をおさえると、階段を下り、一番近いトイレの鏡で首に鬱血がないか確認した。予想通り鬱血はなかった。

 それから、それぞれの校舎の間に渡された渡り廊下を通って教室までたどり着いた。午後一番の授業は体育、種目はソフトボールで、時節柄もありジャージが必要だった。そして教室を飛び出した武藤の手元には上下どちらのジャージもなかった。彼女は自分は面の皮が厚い方だと自負していたが、少しばかり気恥ずかしかった。

 着替えを済ませて校庭に出る。左手には備品の合成皮革のグローブをはめ、右手はだぼついた袖に指の先まで収める。数年来の癖だった。意識的にまた無意識に光、あるいは砂を避ける。本鈴が鳴り、整列、点呼の後ウォーミングアップに入る。視線だけで見回しても、やはり和久田の姿はなかった。

 三つの校舎を隔てたはるか先、幹線道路沿いの正門の辺りに二つの《超常》の気配を感じたのは、その時のことだった。

 ブゥゥゥゥ―――――――――――ン、と低く響くのは、これまで武藤が経験したどの《超常》とも違う、しかしながらやはり彼らに独特の気配。気配、というべきなのだろうか? より適切な語彙があるような気がしたが、そのような語彙を武藤は持たなかった。低く振動する器械が小刻みに肌を叩くような新手のパルタイの気配を感じ取って身構えようとするより早く、敷地中を巻き込む規模で劇的な変化が起こった。

 まず、視界いっぱいに超常の気配が充満し、瞬く間に周囲が黒い色に染まった。その黒は皆超常の黒で、所々には鮮やかな橙色の甲骨文字以下様々な書体の漢字とラテン文字、ギリシア文字、ヘブライ文字、アラビア文字、より古い時代のものと思われる簡素な線でできた文字やより具象的な絵文字が刻まれている。校舎の窓ガラスのある所からも同様の気配を感じた。どうやら目隠しのような役割を果たす隔壁が敷地を囲う形で現れたらしい。その場にいた武藤以外の全員が多かれ少なかれ動揺する中、武藤もしきりに四方を見回していたが、頭はいたって冷静だった。

 橙色。即ちフェルミでもダヴィドでもゲオルギーでもなかった。何を狙っているかはわからないが、恐らくはかつてないほど大規模な力の行使を行ったパルタイがいる。そしてもう一人いたパルタイが徐々に三つの校舎を通って運動場に近付いてきているのがわかった。

 この時生徒たちはトラックを回った後各々運動場全体に散らばって準備運動をしており、武藤は南の端の体育倉庫に近い場所から後者の方を見ていたが、橙色のパルタイの気配が空間全体に満ちていたのと、もう一人の肌に覚えのあるパルタイの気配に集中していたために、ちょうどトラックの中央にいた体育教師のすぐ隣に現れたもう一つの文字に気付くのが遅れた。

 楷書で、「門」。

 走ってきていたはずの気配が消え、その文字が浮かぶ空間が観音開きの戸棚のように左右に開き、色素の薄いそばかすの浮いた肌と灰色の瞳を持つ長身痩躯の青年が現れた。

 突然現れたその青年は、運動場に向かっていた気配が消えていることからダヴィドであることは明白なはずなのだが、しかしそこにいる青年からは一切《超常》の気配が感じられなかった。普段フェルミが人間に化けているように人間としての姿をとっているのだろうと気付くまでには多少の時間がかかった。もう一つの橙色の気配の中心は第一校舎の屋上に移動していた。今のような瞬間移動を使ったのだろう。

 ともあれこの侵入者は、外形はただの西欧人でしかない。ちょうど隣にいたバレーボール部顧問でもある四十過ぎの体育教師は彼の肩を軽く叩き、ちょっとお兄さん勝手に入ってきちゃああかんでしょう、とややふざけた調子で言う。生徒たちの視線も二人に集まる。

 青年はその声にただにっこりと人のよさそうな笑みを浮かべるだけで、一言も返そうとしない。代わりに体育教師に背を向けて一二歩歩き、またそこで止まると、肩越しにあなどるようなにやついた笑いを教師に向けた。

 青年の顔が、あえてグロテスクな印象を与えるように緻密に編集されたCGのように、妙に角張った部分を持って流動的に変形し、急激に細まったその超常の黒い色をした先端が教師の口の中に入っていくまでに、一秒の二十分の一とかからなかった。

 青年の上半身が一気に流動し、宝石のような紫色の輝きを伴い黒変し、周囲に見せつけるように激しい動きをつけて体育教師の口から体内へ入っていく。腰から下はまだ人間の形を保っていた。うわ、だの、きゃあ、だの、そこかしこで声が上がる。

 食道に入ったのか気道に入ったのか外からではわからないが、侵入していくパルタイ・ダヴィドに大の大人が必死に流体を掴もうとし、後ろに倒れ脚をばたつかせながら転げまわる。そこかしこから悲鳴が上がった。抵抗むなしく青年の全身が教師の体内に収まり十秒もすると……その時間は人によって長くも短くも感じられた……その動きは突然止まり、太い腕の先で固く握り込まれた拳が一発彼自身の鳩尾めがけて落ち、また少しの間動かなくなったが、やがてゆっくりと、あたかも体の動作を確認するように、立ち上がった。

「……ふむ」

 その声それ自体はあくまでいつもと変わらぬ中年の体育教師のものだった。しかしその話し方は端々から普段の彼との違いを匂わせていたし、両の瞳は紫色に輝き、勘のいい生徒であるならあのパルタイのみならず《超常》に共通のあの気配をも感じることができるはずだった。教師の中に入ったパルタイはぐるりと運動場に出ている生徒たちを見回すと、あるところで視線を止めた。その生徒も、教師に視線を合わせ、武藤はその男子がわずかに眉をひそめたように見えた。

「矢張りせい高く歳若き男子おのこぞあらまほしきものですな」

 次の瞬間教師の口から黒い影が飛び出し、視線の先にいた男子生徒に乗り移った。

 武藤は息を呑んだ。あれは、そう、昨日にも会い、ついさっきも顔を合わせたばかりの西門光生だったのだ。

 ダヴィドは西門にも同じように侵入したが、今度は続きがあった。黒の流体と紫の流体が束になって彼の体の外側にも巻き付いていく。その様子を見た周りにいた生徒たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、他の生徒もみな多かれ少なかれ距離を取った。超常の流体が少年の全身を覆うと、その時にはすでにその流体は人間の形をとっていた。

 その肉体は超常の闇の中に溶け込むような濃く暗い色をしていたが、一方でその黒は超常の黒ではなかった。細身でありながら筋肉質で、メタリックな紫色の光を放つブーメラン型の競泳水着を履き拳に黒いバンデージを巻いている以外何も纏っていない肉体は、黒水晶を思わせる深い黒色を呈していた。

 つまるところ、武藤の逆なのだ。メラニンを過剰に少ない量持つ個体があるならば、メラニンを過剰に多い量持つ個体があるというのも当然のことだった。

 パルタイ【2】紫《寄生》ダヴィドは、黒化個体メラノイドの目蓋を開けて綺羅と輝く瞳を曝し顕現した。

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