二十五

 崩れ落ち、床に膝をついて蹲る武藤が見たのは、すぐ隣に座る同級生の顔だった。しかしその表情は未だかつて彼女がどんな人間を相手にしても見たことのないもので、仄暗いこの場所で両の目は奥から青く光り輝いているように見えた。

 彼は今や自らの望むまさにそのものを目の前にして、視界を明滅させるほどの今までにない歓喜に打ち震えていた。充血のとれて生白くなった白目は暗がりでわずかに青みがかって、瞳の奥には尋常ならざれど超常のものですらない光が一点爛爛と輝いている。

 武藤は何か言おうとしていたようだったが、その弱弱しい提案の意志は消え、目には戸惑いと、危機を察知し鋭く輝く迎撃の意志があった。和久田はそこに金剛のように堅固で城砦のように堅牢な峻厳を見た。

「和久田、さっ……」

 半ば蹲ったまま横に這おうとする武藤の肩を掴み、跳ね上げる。正中線を曝して冷たい床にあおむけに転がる武藤に馬乗りになると、右手を彼女の首にあてがい左手でブレザーのボタンを外していく。

 もう一度だ、もう一度はっきりと見たい、拳で鳩尾を打ち据えられた時の顔を、もう一度。

 どうも「脱がされている」らしいと気付いた武藤がにわかに色を変えるが、違う。そんなものは望んでいない。いやまったく望んでいないといえばそれはそれで嘘になるかもしれないが、少なくとも優先順位の第一位はそんなものではない……。

 右の手指に触れる首は柔らかく、熱を持っていた。起き上がらないよう押さえつけると左右の腱と喉笛の感触が伝わり、とりわけ熱い血管の熱が指先に触れた。

 指が煙や炎を上げて今にも炭化しそうだった。自分は今聖の領域にあるものを貶めている。

 ブレザーのボタンを外し終えると、ワイシャツのボタンは一々外す手間をかけずに、ただボタンとボタンの隙間に指をかけて左に乱暴に引っ張った。細い糸で止められていたボタンがはじけ飛び、生白い胴体と、胸を保護するための薄い空色の下着が露になる。

「ごめん、武藤」

 気付けば和久田は口から贖罪の言葉を連ねていた。何度も何度も嘘をついた。彼女を騙しさえした。今でさえ武藤は何かまったく別の狙いが和久田にあると思っている、誤解を生んだのは和久田の怠慢に他ならない。そのことすべて本来なら彼には耐えられるものではなかった。だからこそ今ここに至って彼の口から溢れるのは他ならぬ謝罪の言葉以外の何物でもないのだ。

 剥き出しになった鳩尾に一発拳を落とすと、武藤は体を一度くの字に折ろうとしたところを押さえつけていた左手に首を圧迫されたことで激しく咳き込み、押さえつけるもののない脚は大きく跳ね上がる。左右の眦から涙が零れるのを和久田は見逃さなかった。拘束を解こうと体をねじる武藤の荒い呼吸が喉を通っていく時の熱や振動、速まっていく鼓動に押された血が血管内を巡るその動きまでもが掴んでいる首から感じ取れた。抵抗する武藤は、一度などは腰を跳ね上げさえしたものの無駄だった。

 冷えた空気の中に露出した柔肌はじんわりと熱を放ち、胸は不規則に上下していた。和久田は武藤の腰の上にまたがるような姿勢でいながら、細く引き締まった白い腹が伝える熱を空気を通して感じることができた。

「ずっと嘘をついていた。もちろんMだなんてのは大嘘だけど、人を殺したいだなんていうのも、真っ赤な嘘なんだ。誰彼構わず殺したいだなんて、そんな風に思っていたわけじゃない。誓ってそうだ。おれはシリアルキラーなんかじゃない。

「おれが殺したいと思ってたのはいつだってたった一人だけだ。武藤を措いて他の誰かを犯して、殺して、食べたいだなんて、ただの一度も思ったことなんてない。ごめん、武藤。ずっとずっと嘘ばかりついてきた、でもようやく本当のことが言えるんだ、おれが殺したいのは武藤だけだ、武藤だけなんだ。誰かを殺したいだなんて、武藤、お前を措いて未来永劫そんな人間いるはずがないじゃないか。誰よりも美しい、きっと誰よりもイデアに近い美貌の、お前を除いてはさ……」

 抵抗むなしくされるがままの武藤に依然馬乗りになり、和久田はさらに二度裸の鳩尾を拳で圧迫したところで止めた。拳を落とすのではなく、圧迫するというのは、つまり内出血の可能性をできる限り減らすための考えだった。いや、彼としては特段考えもせず、無意識の行為だったかもしれない。少なくとも予め拳を鳩尾に据えて決して離さないことで、武藤がその拳による〈攻撃〉を回避できなくなったことは事実だった。

 最初に拳でもって鳩尾を打ち据えた時から、武藤の目には恐怖の色があった。三度目の前、拳を鳩尾にあてがいそのままにされた武藤の顔に見えた恐怖は、いつかの淫夢の中の彼女を思い起こさせて、体がかっと熱くなった。

 和久田はついに両手を武藤の首にかけた。青いモザイク模様のディングを展開し、指を喉笛と腱の後ろにめり込ませた。


 ……なるほど確かに武藤を縛る呪いは彼女を傷付ける可能性があるものを徹底して排除しようとするかもしれない。しかし、どうだ? フェルミの蹴りに対してだけは、あの〈呪い〉は弾きはせず、代わりに逸らした。弾くことはできなかったのだ。ゲオルギーの鋏はちょうど真正面から向かってきたために、ただその運動が停止するだけに終わった。ここでもやはり別の方向へ攻撃を逸らすことには失敗している。

 つまり、超常をもってすれば、〈呪い〉の網をすり抜けることも不可能ではない。

 殺せる! ディングを展開した手でなら、きっと武藤を絞め殺せる!


「食うのは、後だ。まず絞め殺しす、縊り殺して、死体を犯して、それから肉を食う。一度死ねば呪いだって関係なくなる、歯を立てられる」

 それにもしかすると、破瓜の出血さえも彼女の〈呪い〉は受け付けないかもしれない……和久田はそこまでは言わなかった。ただ目の前の体を、少なくとも骨になるまで食い尽くすということだけは決めていた。曲線を描く肋骨に付いた肉を血と諸共にしゃぶるのを想像するだけで、全身を稲妻のように貫くものを和久田は感じることができた。

「パルタイになんか殺させるか、ゲオルギーなんて、あんな能面みたいな面した奴に殺されてたまるか……」

 和久田は体全体で武藤の首筋を圧迫していた。ディングの持つフェルミの〈流転〉の力で力のベクトルを絶えず下方向に限定し、浮かせた腰を落とすことで痙攣する体を押さえつけ、同時に何度も何度も腰を擦りつけた。

 首を絞められた武藤はというと、やはり身をよじり和久田の腕をつかんで引き剝がそうとするけれども力が足りず、顎を上げ大きく口を開けて酸素を求めていた。ぬらぬらとした桃色の口腔と舌を見ると、和久田の体内の炎はいっそう激しく燃え盛った。渾身の力でもってか細い少女の鶴首を絞め上げる。こりこりと喉笛が音を立て和久田は一瞬意識を飛ばしそうだった。

 赤くなり青紫色になりと顔の色が変化していく。手を緩める。深く息を吸って胸部が膨らみ、吐くと萎んでいく。二三度して言葉を発しそうになったところでまた絞め上げる。手も腕も、体中何もかもが熱くなっていた。しかし緩めて絞めてを三回ほど続けただろうか、武藤顔を見て、ふと違和感のような何かを感じ、和久田は一瞬、ほんの少し、首を絞める力を緩めた。

 和久田の腕をつかむ手の力も弱弱しく、彼女は今や抵抗を諦めているようにも見えた。白くか細い指が所々鬱血して赤くなり、一歩引いた心持でそれを見た和久田は自分がとてもひどいことをしたような気がした。彼の中の武藤を崇拝する気持ちがそうさせたのだろう。白い首もまた鬱血しているのだろうか、和久田はそれを見ようとはしなかった。彼の視線はもっぱら武藤の顔に注がれた。

 死を覚悟した彼女は、本当に薄く、満ち足りた笑顔を浮かべていたのだ。

 強烈な違和感を覚えて、手の甲に浮かぶモザイク模様の青は薄く揺らぎ、和久田はほんの一瞬だけ首を絞めるその手を緩めた。そしてその隙を狙うかのように、彼の両腕を電撃に似た激しい衝撃が襲い、次いで面の衝撃が正面から胴を打ち、和久田の体は一メートル半ほどある短い階段を転げ落ちた。


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