二十四
和久田はその少女の姿にただならぬものを感じ、同時に自らの身の内で内臓が高熱と流動性を持ちにわかに対流するのを知覚した。目の周りが赤くなっているのは明らかに彼女が涙を流した証拠だった。武藤が泣いていたという事実がこれ以上なく腹立たしかった。
その武藤は突然現れた人影に目を丸くしていた……目を丸くというのは比喩であって、実際彼女の細い目は見開かれたところで円を描くような形になりはしない……だが、それが和久田であると気付くと、目元をひくつかせ、唇をわななかせて、何やら言葉を探しているように見えた。
「どうしたんだ、武藤」
喉が普段よりこわばっているようだった。固い声に武藤が身を縮こませた。いよいよ何かがおかしい。
「どうして目をそんな赤く腫らしてるんだ」
武藤は何も言わず逃げるように目を逸らすだけだった。あの武藤が相対していながら目を合わせようとしないどころかそれを避けようとしているということ自体が、和久田に何かしらの疑念を起こさせるには十分な根拠だった。
「誰がやった」
気付かない内に空いている左の五本の指に次第に力が加わって、おごめき、先がスラックスと太腿に食い込んだ。
今度こそ和久田の声は怒りに震えていた。和久田の胸に宿っていたのは義憤と、それからさながらお気に入りのおもちゃを壊された子供の癇癪に似た気持ちだった。
「大丈夫です、目は腫れてるわけじゃなくて少し擦っただけで、それに誰かに何かされたわけじゃありませんから」
武藤は早口で答えた。
「よかった」
和久田の表情から緊張が抜けると、武藤も薄く笑顔を作った。作り笑いは固く、唇の端は震えて、ただ、と呟くと小さくなって顔ごと視線を大きく逸らした。
「じゃあどうした」
図らずも尋問さながらの問いを投げた和久田相手に、武藤は怯えるように身を震わせ、次いで頭を下げた。
「すみません、私のせいでただでさえありもしない噂を立てられていたのに、私は、火に油を注ぐような真似をしてしまいました」
――曰く、こういうことがあったらしい。
和久田が早々に教室を出た後、残った武藤がそのまま自分の席で昼食をとっていると、一階でパンを買ってきた西門以下男子連がどやどやと戻ってきた。一城高校の第一校舎には食堂があり、そのすぐ脇には近所のパン屋が出店の形で構えている。彼らは教室の後ろ廊下側にたまって雑談に興じながら食べ物を広げていたが、時折声をひそめ、同時に武藤を横目に見ているのが特別意識しなくともわかった。
西門はどんな風にしていたのだろう? 少し気になったが武藤は彼について言及しなかったし、和久田もわざわざ聞こうとはしなかった。
そして武藤は思った。あの人たちの誤解を解かなければならない。自分と和久田は決して恋仲にあるわけでもないし、彼即ち和久田は強く自らを律することができる聡明で善良な少年なのだ。
武藤は一度弁当箱をしまって机を空けると、その上に今朝持ってきたツルゲーネフ全集の一冊を置いて、そのすぐ右横を手のひらで打ち据えると共に勢いよく立ち上がった。わざわざ深く腰掛けなおしておいたために椅子が音を立てて後退し、追いうちをかけるように内履きの踵をひっかけ、ひっくり返った椅子は背もたれを激しく打ちつけて大きな音を立てた。
騒々しい昼休みに教室の隅から発された音とはいえ、あまりの物騒さに生徒たちは一斉に談笑を止めて教室後ろ窓際を見た。武藤は全身に力をみなぎらせて背筋をまっすぐと伸ばし、拳を握り、大きく体を開いて教室の反対側にいた男子連を睨みつけた。
塊になっていた全員が自分を向いているのを確認すると、武藤はまっすぐ彼らの方へ、教室を左右で分ける直線上まで歩いていく。こんなことをするのは初めてだった。心臓が早鐘を打つ。こういう時一般的にはどうすればいいのか武藤はわからない。しかしどうにかして言わんとするところを伝えなければならない。これは和久田の名誉の問題なのだ、他ならぬ自分がどうにかしなければならない問題なのだ。口の中に溜まっていた唾を飲み込んで、もう一度全員の顔を順にねめつけた。
……フェルミが人殺しの化け物の仲間であることも暴露したかった。しかし彼女は事実このクラスにうまいこと溶け込んでいる上クラスメイトには何ら危害を加えていないようだし、何より和久田がフェルミに対する干渉をきらっている。それだけは隠し通さなければならない……。
一通り言うべきことは言い尽くした、はずだった。どこか視界が回っているようにも感じながら言葉を終えて、また男子連をにらみ、ついでに武藤を見ていた教室中の人間にもきつい視線を投げつけ、また男子連を見たとき、具合の悪いことに気付いた。
それは言語で表現するのが少しばかり難しいもので、あえて一言で指し示すなら、薄い、というものだ。何が薄いのか? 周囲の反応がである。
――なんですかその間は。何か言ったらどうなんです。
なぜだ、もっとこう、掴みかかってくるような反駁が来るものではないのか? 目の前の男子連も、クラスメイトも、決して怒りとは言えない感情をその視線に込めていることは武藤にも理解できた。
言ってしまえば、武藤は冗談の通じない人間だったのだ。彼女は大多数の人間の社会に馴染めないほど真面目で、自らの言葉から噓偽りを退け、誇張も絶えてしない性分だったが、その真面目さは今回ばかりは裏目にしか出ようがなかった。
クラスの連中は、冗談半分で和久田と武藤の、あるいは和久田とフェルミの仲を面白おかしく喋っていたのであって、その実誰も本気で三人が何かしら爛れた関係にあるなどとは思っていなかった。和久田でさえ本気にはしていなかった。一から十まで大真面目に受け取っていたのは、武藤ただ一人だったのだ。
武藤は次の一手を完全に見失った。反論してくる彼らにより強く言葉を返していくつもりだったのに、見事に肩透かしを食らった。武藤は即座に別のやり方を思いつくだけの能力を持ち合わせておらず、この場ではそれは致命的だった。
なまじ注目を集めてしまっただけに教室中の視線が武藤を向いて、その全員が彼女の次の言葉を待っていた。握った拳の内側と両腋と内腿が熱を帯び粘性の汗でぬめる。寒さなど感じない気温の中で膝ががくがく震えて、体が今にも宙にふわりと浮かんでしまいそうに感じ、恐怖に駆られて走り出した。第三校舎の最上階にたどり着いたのは、人目を避けに避けた結果だという。
それきり武藤はふたたび押し黙った。話が終わったことを察して、和久田は「そうか」とだけ言った。
「本当すみません、和久田さん」
「いいよ、別に」
和久田はすっかりなげやりになっていた。なにが惚れた腫れたの噂だ、そんなこと、武藤に比べればないも同然の事柄に過ぎない。
「気に病むようなことじゃない、おれはそんなこと全然どうでもいいんだ」
彼は武藤以外が相手であればともすれば失礼にあたるかもしれない事を言った。しかし和久田はこの言葉に一切の問題がないことを理解していたし、武藤もそれは了解しているだろうと彼は踏んでいた。
和久田の集団における処遇などという下らないことに武藤が思い悩んでいること自体が問題だし、こんな埃っぽい場所で今のように小さくなっているのは武藤陽子とは言えない。彼女はもっと高潔で、気付けば和久田は、ひどく意気消沈した武藤本人への怒りを抱いていた。力を緩めていた左手がふたたびこわばっていく。
だが、今更怒ったところで何になるのだろう、とも同時に思った。一度は握りしめていた拳を大きく開き第一第二関節を二三度曲げると、じゃあ、と言って武藤に背を向けた。
「どちらへ?」
「どちらへって、教室だよ」
戻るべき場所に戻るだけだ。こんな黴臭い場所では水筒の蓋を開ける気にもなれない。
どうせ井坂や西門あたりからまたその話を聞かされることになるのだろう、とぼんやり考えていると、後ろでたん、たんと少し乱暴な音が聞こえて、武藤が叫んだ。
「待ってください!」
足を止め振り返ろうとすると、脇から胸へと腕が回され、抱きしめられると同時に和久田の体は後ろ向きに引っ張られた。
背に顔をうずめるようにして、武藤は背後から和久田を抱きしめていた。
顔をうずめるように、とはいっても、実際には武藤はやや前のめりになった体勢で額を和久田の背に付け、両腕を和久田の胴体の前に回してかき抱くようにして彼の体を押さえつけていた。
「何か、私にできることはないんですか」
「無い」
武藤は顔を上げて、今にもまた泣き出しそうな顔をして、すがるような目つきで和久田を見た。
「何かしてもらおうなんて思わないし、そうだ、そうやって目の周りを腫らしてる方が、おれはよほど嫌だ。
「おれは別に、関谷さんやらあぜやらのことに首を突っ込む気なんて毛頭ない。フェルミ、パルタイのことだって、おれ本人はどうなったっていいんだ。つまり、あいつらが好き勝手したところでおれはどう思いもしないってことだ。
「薄情だろうけど、よく知りもしない人が事故で死んだところで、よくあることだ。そうだろう? 事故や災害で人が死んでも、まったく関係ない人だったら、あまり深く感情移入できる人は多くない」
和久田が言うと、武藤は薄く笑った。改めて見てみると、喋っている間に消えたのだろう、すっかり目の周りの赤味は取れていた。
まだ肩口を掴んでいた武藤の手を取り、引き離す。右手を掴まれた武藤は観念した様子で左手の拘束も解いて、ゆるりと和久田から一二歩離れる。下からのぞき込むように和久田を見るその目はいまだに震え、戦慄き、とてもではないが平素の彼女の孤高の色はそこには見えなかった。
和久田は指を折り畳み、拳を作って、武藤の鳩尾を射抜いていた。
恐らくは痛みを覚えることなど本当に久しぶりなのだろう、少女は反射的に胴体を後ろ向きに跳ねさせて、和久田に向ける両の目を白黒させながら、鳩尾をおさえて膝から崩れ落ちた。
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