二十三

 午前の授業を終えた和久田は、西門や井坂をはじめとする男子連に混ざる気もなく、かといって四月からこっちよくしていたようにフェルミが誘ってくるわけでもなく……そもそもフェルミは今日も欠席している……、自分の席で弁当箱を開こうとして、やめた。一つには武藤のすぐ隣で食事をするということに抵抗をおぼえたのと、またもう一つには昼休みの教室の喧騒があまりにも耳障りだった。人の声が遠くからしか聞こえない場所に行きたかった。

 だから和久田は包みを持って階段を下り、三棟並ぶ同じ形の校舎の幹線道路側から数えて二番目と三番目、第二普通校舎と特別校舎の間にあるコンクリートうちっぱなしの場所に来た。

 ちょうど校舎の間にある空間の北の端にあるその場所は、すぐ南隣にある倉庫と建物を囲う植え込みによって目隠しがされている。複数人がたむろするには手狭だが、一人でいる分には何の問題もない。入学以来入るべき部活動なりを探しもしないで暇を持て余していた和久田が探しあてたスポットだった。知り合いの誰も教えたことはない。

 日陰になって冷たいコンクリートに尻を着けるとにわかに力が抜けていく。ここ数日張り詰め通しだった神経がようやく緩みきった心地がした。

 教室や廊下から漏れ聞こえてくる声が妙に遠く聞こえる。フェルミの溌溂とした甲高い声も今は聞こえてこない。静かだ、と思った。

 これでいいんだ、これでいい。武藤とはもう何の関係もないただの同級生で、席替えもしてそれからひと月と経てば何のつながりもなくなる。フェルミはどうだろう、彼女の《鎧型のザイン》製造計画の片棒を担ぐ、あるいは母親になるという願いに何らかの形で協力するとしても、高校生フェルミ瑠美との付き合いはこれからも続けていかなければならないものだろうか。

 それもいいのかもしれない。あの童女が笑顔の裏で何を考えているかはいまだに計りかねるところもあるが、少なくとも親しい仲であるとみなされることについて悪く思っているわけでもないようだし、それは和久田も同じ気持ちだった。正体がパルタイであることを抜きに考えればフェルミ瑠美はかなり美人で器量もよい人物であるし、何より今や和久田はその正体や所業を知っていながらなお憎みきれないほどに、あの悪魔の如きパルタイの一角たるフェルミを受け入れてしまっている。

 弁当箱の中身を空にして、水筒から麦茶を蓋を兼ねるコップに注ぎ入れると、一気に飲み干してほうと息をついた。

 さて、これからどうしよう……携帯電話で時間を確認すると、予鈴まではまだ余裕があった。しかし今日は午後一で体育の授業がある。ソフトボールなのでジャージが必要なはずだった。武藤の美しい四肢を覆い包んでしまうジャージを和久田は憎んでさえいた。無論彼女の美しさは衣服で体を覆い隠す程度で変わるようなものではないけれど、それでもという思いがあった。

 本人の弁によれば、現在の武藤はメラニンを得たからといって日焼けするようなことはないようだった。関谷俊介がかくあれかしと望んだ白い肌は、一年と三カ月近い間まったく変わらず保たれているらしい。

 彼女が死ぬその瞬間まで、いやもしかしたら死んで後まで、あの北国の雪か李朝白磁のような肌はそのままなのだ。染み一つなく、黒子一つなく、イデアの化身さえ思わせる純白色。そして絶対に傷つくことのないその下には桜色の肉と暗赤色の血が詰まっている……。

 和久田は両脚を投げ出し、背中を校舎の外壁にゆだねて、首を前に倒して膝と膝の間にあいた空間をぼんやりと見つめていた。前触れなしに革靴とコンクリートの立てる乾いた音が聞こえて、驚いた和久田は視線を前に向ける。

 傍から見れば眠っているかあるいは気絶しているようにも見える体勢をしていたことに気付き、しまった、何か余計なことでも起こらなければいいが、などと考えたが、幸いにもというべきかその心配は全く無用に終わった。

 腥と吹いた風に髪から産毛まで全身の毛が聳った。……固い音が聞こえたのは和久田のすぐ目の前三メートルとない場所からだったのだ。前触れなどなくて当たり前だ、そもそも打ちっぱなしのコンクリートがむき出しになっているのは、倉庫の幅であるおおよそ四メートルに少し余分を足した程度の狭い範囲なのだから。

 目の前に,灰色の紳士服を着た灰色の紳士がいた。つま先の尖った靴は飴色に紫を足したような夢幻的な色彩を帯び、面長で角ばった顔をして、髪は艶めいて黒く、鮮やかな橙と赤の中間のような炎のように揺らめく瞳があり、外から見える顔と両手の肌は……いやきっと被覆で隠された全身も……湿った灰の色をしていた。

 彼は即座に理解した。この灰色の男こそ、武藤との契約により関谷の魂を取引した《あぜ》を追う者、フェルミを人間フェルミ瑠美として戸籍を捏造しパルタイから《インテリジェンス》と呼ばれる者。

「都村、さん?」

 特別意識せずに言葉が口をついて出た。男は物々しく頷いて言った。

「いかにも私が《あぜ》の都村だ。君が和久田くんだね、和久田徹くん」

 彼は外見ではおおよそ三十くらいの顔をしていた。髪はワックスで固められて艶のない黒い色をしている。口調こそ気さくな風だがその声はバスの音域にある重厚なものだったために軽薄な感じは決して与えなかった。

「今日は君の顔を見にこうしてここに来た。武藤くんに、懸想、しているそうじゃないか」

 言葉を選ぶような間がひどく不快だった。

 ――なるほどこいつもフェルミと同様自分の願いの何たるかを知っているわけだ。

「何ですか。武藤がもう一人の、なんだったか、そう空色のあぜを殺す前に、武藤自身が殺されちゃかなわないってわけですか」

 ところが都村の返事はひどく素っ気なかった。

「殺す? 不穏当だね」

 その素っ気なさに和久田は戸惑った。他方都村はそんな様子をまるで意に介さないように首を回して周りを見渡すと、君立てるかいと小さく言って、先の方を持って杖の柄を差し出した。手を前に伸ばすと同時にその杖は和久田の目の前に現れた。持ち手は手指にフィットするように凹凸が加工され表面は合成樹脂で覆われたひどく現代的な代物だった。和久田はあぜの手を借りることなく立ち上がり尻をはたいた。

「少し歩こうか」


 北の端を出発した都村は堂々と敷地内を歩いた。誰かとすれ違うことはなかったし、校舎の窓からこちらを見やる影も一つとして見えなかった。都村は西にある裏門を通って真昼の住宅街に出た。校庭にも、大方方形に土地を切り分ける形に曲がり、また時折曲線を描いて枝分かれする道にも、人はおろか犬猫や鳥の影さえなかった。

「空色のあぜ、と君は呼んだが、名前は武藤くんから聞いていないのかね。胃や名前などどうでもいいか、ともあれ話題はそのもう一人についてなんだ」

 ふと和久田は気付いた。白昼堂々こんな場所をうろついて大丈夫なのだろうか。まごうことなき超常の気配をこんなにもまき散らしている以上きっと武藤は気付いているだろう。

「武藤くんのことなら心配しなくていい。あの力を与えたのは誰だと思っているんだ。多少機能を衰えさせるくらいなら簡単なものだからね」

 最初は光の加減かと思ったが、都村の肌は太陽の光の下で見ても変わらずモノクロームのままだった。ちょうど公道にはみ出した庭の木が垂らした枝が彼の顔の隣にあり、濃い色の葉が灰色のすぐ隣に並んでいた。

「私は武藤くんと、もう一人のあぜを捕まえて彼女の前に突き出すことを約束した。しかし彼女を捕まえるのはこのあぜ都村であっても困難でね、はいどうぞとその場で引っ張ってくることはできそうにもなかったし、時間がかかることが予想された。

 君も少しはパルタイを知っているのだから想像はつくだろうが、あぜの力はあれらよりさらに広く強い。あぜがあぜを捕らえるというのは、不可能とは言わないまでも、一朝一夕にできるようなものじゃあないんだ。そういえば武藤くんは《超常》という便利なタームを作っていたな、今度から借用させてもらおう。ともかく私は彼女、武藤くんと交渉した結果一年の猶予を得た。一年だ」

 強調するように繰り返された言葉を、和久田もまた頭の中で反芻した。一月から一年だから、既におおよそ四分の一が経過している。都村が約束を反故にさえしなければ、あと九ヶ月で二人が交わした契約はその要件を満たすことになる。

「今のところは縄を綯い網を張って向こうが引っかかるのを待ちながらどうにか捕まえられないか色々試していると、そんな段階なんだが、まだ時間がかかる。次彼女に会った時にでも伝えてやってほしい。時間はかかるが、必ず君の友人の仇は捕えて君の前に突き出してやると」

 話している間に都村は武藤の家を通り過ぎ、十字路をいくつか曲がって曲線を描く道を抜けていった。一々道を選ぶ際に迷いがなかったので最初はどこかはっきりとした目的地を目指しているのかと思っていたが、次第にただどこへというでもなく歩き回っていることがわかった。杖はいつの間にか消えてなくなっていた。突然彼は歩みを止めて後ろにいる和久田の方へ振り返った。

「君の学校にいるフェルミだが、潜入後どうなったかな」

 つい昨日あんなことがあったばかりの質問だったので、和久田は身構えた。

「それはパルタイを統率する《インテリジェンス》としての質問ですか」

「インテリジェンス? ああ、ははは」

 彼は和久田の言葉を不穏当だと評した時のように言葉を繰り返した。そして笑ったように見えたがその声は乾ききっており、表情も決して笑っているようには見えなかった。

「あれはパルタイ達が勝手に言っているだけだよ、私はパルタイにはできないことも色々できるから、彼らに種々な便宜を図ってやっているというだけさ。私は彼らの行動や意思決定には一切かかわっていない。フェルミのことを聞こうとしたのも、単なる好奇心、から来たものだと思ってもらえれば幸いだ」

「普通に高校生活を楽しんでますよ。僕の知る範囲では、ですけど」

「そうかね」

 それからまたしばらく都村は無人の住宅街を歩いていたが、ふたたび立ち止まると袖を捲って右の手首の腕時計を見た。和久田も制服のポケットから携帯電話を取り出しホーム画面を開く。

「そろそろ戻らなければならない時間かな」

「そうですね。最後にいいですか」

「何かな」

 和久田はまっすぐ都村の炎のような目を見つめた。おれがのこのこついて来たのは別に決して考えなしでのことじゃあないのだ。

「あなたの目的は何なんですか」

「目的?」

「フェルミは、パルタイの目的は《超人》に至ることだと、そのために人間の《生命への意志》が必要なんだと言っていました。あぜにはそういう目的はあるんですか」

「あぜの使命というか、役割、ということならある。人間の願いを叶えること。いや、パルタイに対しても同じようなことをしているから、より正確を期すなら、他の願いを叶えることか」

「あともう一つ」

 都村は一度視線を腕時計に向けたが、また和久田を見た。

「武藤の願いを叶えたら、やっぱり彼女の魂を持っていくつもりですか」

 都村はしばらく黙っていたが、やがて「だろうね」と言った。


「さて、戻ろうか」

 一体ここはどのあたりなのだろう、と辺りを見回した。背の高い木や二階建て三階建ての建物に遮られて二人のいる場所からは汚れた白い色をした校舎の姿を見ることはできなかった。

「心配しなくていい、すぐに送り届けよう」

 あぜのその言葉と共に、和久田の視界が急速にぼやけ、まったく異なる像が結ばれていき、太陽の光の熱が遠のき、暗く冷たい感覚が全身を包んでいく。

「武藤くんをよろしく頼んだよ。あれは極めて弱い人間だ、人の間で生きていくことが難しいくらいには……それには外的だったり内的だったり、ともかく色々な要因がある」

 都村の声もまたどこか遠くから聞こえてくるかのように反響して聞こえた。足場が傾いだりということはなく、意識もはっきりしていたが、それだけに今起こっていることが理解できない。いや、誰がこれをしているかはわかっているのだ。そして何をしているのかも見当はついている。しかし……

「人とかかわることを避ける性格や、他人に近付くことを躊躇わせるような身体的特徴、それから彼女が生きてきた中での出来事、というのもあるだろう。だが私としては、いやあぜとしては、そこもできる限りどうにかしたい。それもまた」

 住宅街の像は既にあぜの表情も見えないほどぼやけていたが、目の前にいる灰色の男はうっすらと微笑んだように思えた。

「いや、あまり喋り過ぎるのも野暮か。ではまた会おう、和久田くん」

「――都村さん!」

 和久田は思わず前へ駆け出した。一歩、二歩、アスファルトを踏む。三歩目で履物がローファーから指定の内履きに、地面がアスファルトから学校の廊下に変わった。

 暗い、本当に暗い。照明が点いていないのだから当然だった。和久田は踊り場に立っていた。目の前には短い階段があり、光は階段の終わった先にある古びた扉のすりガラスから入ってくるものが全てだった。

 そして、その扉の少し手前、階段が終わったところには、ブレザーの制服を着た黒い髪、白い肌の女生徒が座り込んでいた。彼女は突然の足音に驚いて顔を上げており、目の周りの肌は赤味を帯びて熱を持っているように見えた。

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