十九
布団を被ってしまえば眠りに落ちるまでは早かった。
そうだ、簡単なことじゃないか……武藤が和久田の前から消えれば、和久田が彼女を殺す可能性はゼロになる。ほんとうはクラスや学校が同じになるのさえ嫌だけれど、さすがにそこまで変えるわけにもいかない。今はこれが精いっぱいだ。なに、ゴールデンウィークが明ければきっと席替えなんかもあるだろう。そうなればいよいよ武藤ともおさらばできる。
しかし本音を言えば、ぜんぜん「おさらば」なんて心地ではないのだ。やはりあの白い肌や肌に包まれた骨肉は何よりも美しかった。できることなら彼女の全身を余す処なく愛でていたかった。だがそんなことをしていたら、いつフェルミが埋め込んだ怪物が、和久田の手を操って彼女の首を絞めにかかるかわからない。
クウガにも天道にもなれないけれど、それでも殺人を喜べるような人間にはなりたくなかった。彼、天道の黄金色の瞳が一瞬脳裏に浮かんで、意識が溶けていく。
和久田は泥のように眠った。
天道は何でも知っていた。いや知らないこともあっただろうが、当時の和久田からすれば、彼はこの世のすべてを知っているのではないかと思えるほど博識だった。彼は話すのが好きで、それ以外にも自転車で生田緑地やみなとみらいまで行ったり、石切りで石が跳んだ回数を競ったりした。おおよそのことは和久田よりも上手だった天道だが、石切りは和久田に軍配が上がった数少ないものだった。
しかし、少なくとも一年は一緒に過ごしたというのに、和久田はついぞ彼がどこでどんな風に暮らしている何者なのか知ることはなかった。彼は自分自身のことについて話すことはほとんどなかったように思うし、和久田も和久田で自分のことをすすんで話したりはしなかった。
彼について和久田が一番強烈に覚えているのは、いつ思い出しても変わらず、彼の黄金色の瞳なのだった。
和久田は十一時過ぎに起きた。雲が晴れて月が見えた。目覚めはよく、意識は冴えて、自分がすっかり健康体に戻っていることがわかった。
和久田は学習机の、椅子を入れる空間の正面にある、机と一体化した引き出しの右を開けて、中からルーズリーフを取り出した。昨日未明に目を覚ましてから、和久田は机に向かってこれまであった諸々の事件、フェルミや武藤から得た情報、そこから得られる推測といったことをひたすらルーズリーフに書きつけ続けた。自分の頭だけでは到底扱いきれるものではなかった。その結果がこの束だ。字がかなり汚いこともあって判読できない部分も多い。
和久田はここに、シャープペンシルを取り出して、今日遭遇した二人のパルタイについて、ダヴィドの言う《インテリジェンス》についても記した。ペンをおいて、そこで、自分がやっていることにすっかり嫌気がさして、横になったところですぐには眠れそうにもなかったのだが、とりあえずと和久田は毛布の上に寝転がった。
武藤に嘘をついてしまったこと、もう武藤を犯すことも殺すこともできないこと、それらが悲しくて、今にも涙が出そうだった。でも悪いことばかりじゃない。武藤を傷つけずに済む、フェルミもきっともう狙われることはないはずだ。何が目的か学校に潜入しているけれど、周りに何か害を及ぼしているわけでもないのだから。
彼女はこれからも人間に交じって平穏に生きていくことだろう。夜な夜な青い童女と黒いゴムの肌の怪物の姿になって、翼を羽撃かせ、和久田の知らないところで、人の意志と命を、集め攫い、喰らいながら。
間違いなく彼女たちパルタイは、自ら生き長らえる過程で人を殺している。しかし彼らにとってみれば願いを叶えることや《意志》の収集と捕食、その結果としての人の死は狩りや食事の謂いであり、フェルミなら「私は《意志》をもらってるだけです、向こうが勝手に死んでるんですよ」とでも言うのではないか。曰くパルタイは人間の《生命への意志》を食わぬことには消えてしまうらしいではないか。パルタイには生きるために人の魂が必要なのだ。そして彼らが《超人》に至るためにも。
思考はパルタイが目指すところのもの《超人》に跳んだ。超人Uebermensch、人間とパルタイの間……その言葉から和久田は、「アポロンとディオニュソスの間」というフレーズを思い出した。たしかあれは『悲劇の誕生』だっただろうか? 音楽の精髄からの悲劇の誕生die Geburt der Tragoedie aus dem Geiste der Musik……布団に背を付けていた和久田はすぐそばの窓から目を離し、部屋の反対側にある本棚に視線を移した。近現代日本の小説や往年の漫画をはじめとした蔵書の中に、異質な雰囲気を纏った背表紙があった。越して来て早々フェルミが持ち込んだ『悲劇の誕生』をはじめとする一連の著作と、彼の思想の入門書である。勝手に本棚の一角を荒らされ和久田は憤慨したが、フェルミはこんなことを言った。
「自分が好きなものをほかの人が好きになってくれたら、嬉しいじゃないですか」
その言葉やその時の彼女の表情に、和久田は少しばかりどきっとしてしまった。安い男というか、なんというか……。
ともあれパルタイの目指す《超人》がニーチェの思想にまつわる言葉である以上、フェルミが彼の著作を、日本語訳とはいえ和久田の部屋に置いていき読むように仕向けたのは、ある意味では伏線のようなものだったともいえるわけだ。
彼女は入門書と、かのドイツの哲学者である彼の処女作『悲劇の誕生』を読むよう強く薦めてきた。受験が終わった三月の和久田も、哲学書のようなむつかしい本を読むことにはまんざらでもなかったので、四月半ばを過ぎた現在より遥かに無邪気に二冊を読み終えた。
アポロンとディオニュソスの間……『音楽の精髄からの悲劇の誕生』の中で、アポロンとディオニュソスという二柱の神はそれぞれ異なった属性の象徴として語られる。アポロンは夢と光明と理性の神、ディオニュソスは陶酔と狂奔と情動の神。そして前者はうつくしき造形の神にして、後者は燃え猛る音楽の神。そして若きドイツの哲学者は言う。後者ディオニュソス、合唱団が奏でる音楽こそ悲劇の中心、人間の内なる見えざる力の忠実なる顕現である。そして舞台とその上の演者、身に着ける諸々、それらの造形と、悲劇合唱団の音楽とが混ざり溶けあう処にこそ、悲劇が生まれる。
手前勝手な推論をするなら、アポロンが人間、ディオニュソスがパルタイに対応するのだろう。そしてその間、即ちパルタイが無数の人の魂を喰らい混ざりあった地点に、パルタイの追い求める《超人》がある。
二柱の間にあったギリシアの精神から光明の神アポロンを取り出し、陶酔の神ディオニュソスを退けたのは、聡明なる哲学者ソクラテスだった。ソクラテスの聡明はギリシア的明朗を生み出し、朗らかで、明るく、わかりやすい、渦巻く陶酔と情動を孕まざる思想が現れた。そしてその地点こそギリシアの凋落の加速の開始点であった……。
若き文献学者は明朗というものをとかく嫌う性分だった。のちに末人の名前で呼ぶことになる当代の典型的な人間、科学と民主主義に情熱を傾け人間の理性の万能を疑わない人間、彼らが好む明朗や平等こそ彼の敵であり、ギリシアの体育術に通ずる力強い心身と情熱こそ彼の。彼に言わせれば、キリスト教は病人の宗教であった。
ニーチェが憧れをもってまなざしを向けたのは合理と科学と民主主義の支配する当代ではなく、教会によって変質したナザレの超人の宗教と十字架をもって支配される世界でもなく、陶酔と情動のギリシアだった。そしてその時代その世界の悲劇は、全知全能の人格神なき世界で人を超えたものさえ翻弄する運命の前に破滅し、運命を受け入れながらも何か新しいものを作り出す人間の姿にこそ、理想の超人の姿を見た。
能動的ニヒリズムだ。人を守る神は死に、人を支える価値たる教会も聖書も権威を失った当代で、人間の弱さを嘆くのではなく、自らの運命をあのナザレの超人のごとく愛し、無限に繰り返す世界で「然り」を言える人間……曰く、それこそが超人であると。
要するにかの哲学者は人間の理性の限界を示し、人為の此岸と彼岸とを切り分けたのだ。
運命は彼岸に、人間は此岸にある。運命に抗する能わざる人間が身に余る願いを成就させんとするならば、奇跡を振い此岸と彼岸を渡るパルタイの力を借りるよりほかない。
――彼女の願いは尋常の方法では、パルタイの力をもってさえ不可能な事柄でありますゆえ。
では、パルタイの技術はおろか、恐らくは人間の戸籍というきわめて社会的なものさえでっちあげられる《インテリジェンス》でさえ実現不可能な願いがあるとすれば、そのときパルタイは?
改めて思い浮かべてみると、パルタイの願いという語はやはり和久田にとっては滑稽の感じのあるものに思えた。パルタイは願いを叶えるものではないか、そのパルタイが何かを願うなど……しかし、どうやら事実であるらしい。ぴしゃりとダヴィドの声を遮ったフェルミは決しておふざけで言ってはいなかった。
和久田は上体を起こしベッドに腰かけた。影の空間に切り込む夜の光は濃い青い色をして、彼の顔もまた濃紺の光を背後から受けた影の中にあった。
上弦の月が見えた。外に出ると、甘い空気の中を涼しい風が吹いた。
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