十八

 それは少年の記憶に焼き付いた炎だった。


 白んだ橙色の炎が教会の壁を、床を、長椅子を舐める。

 燃え盛る教会の中には三つの影があった。ひとつは人間に蝙蝠のエッセンスを掛け合わせたような姿をした、大雑把にいえばまさに怪人である。もう二つは人間で、一人は刑事。もう一人は冒険家にして戦士クウガの後継者の青年だった。

「こんな奴らのために、これ以上誰かの涙は見たくない! 皆に笑顔でいてほしいんです!」

 青年は蝙蝠の怪人を前に、組みあい、かろうじて突き飛ばすと、刑事を庇うようにして身構えた。青年が着る砂色の上着も革のズボンも、炎の色を映して薄い橙色に染まっている。

「だから見ててください、俺の、変身!」

 親指を伸ばした両手を腰の前にかざすと、円い霊石を抱えた流線型のベルトが展開する。彼は脳裏に浮かんだヴィジョンを頼りに、幻視の中の戦士クウガがかつてした動きを再現していく。

 炎に囲まれて、青年の瞳にもまた炎が映っていた。そしてすべての動作を終えたとき、霊石が赤くひかり輝き、青年は赫赫たる鎧を備えた黄金色の角を持つ戦士へと変貌した。橙色の炎を映す鎧の目は炎よりも鮮やかな赤色をして、赤い鎧の下、全身を覆う皮膜は炎の色を吸いつくさんばかりの深い黒に染まっていた。

 古い記憶だ。だが和久田は今でも、その英雄の最初の《変身》を覚えている。



《パルタイ》ゲオルギーは取り出した子供用鋏の二本の刃の間に武藤の中指の爪を挟んでいた。五本の指のたった一本、その先端を挟んでいるだけだが、たったそれだけで武藤は右手の動きを一切封じられてしまっているらしい。

 ゲオルギーは全身から、沸騰する水を思わせる、無数の泡の生成と消滅に似た異質の気配を発していたが、黒い水兵服という外見は頭の水平帽から靴のつま先まで何一つ変わっていなかった。襟の二本線もその下のリボンもすべて黒い水兵服を、何から何まで同じものを仕立てて、反対党派であるフェルミの根城までやってきたのである。和久田はそこに一種の悪趣味を感じた。何か感性がずれているような気がする。

 武藤の爪は展開したりまた収納したりが自由自在であるから、彼女は今度もそれを利用して長く伸ばした爪を一度収納し、手指の二倍程度にまで縮めて再展開。一歩大きく踏み出して、今度こそゲオルギーの胴体を斜めに切り裂く軌道を描いて爪がくり出される。

 爪は武藤が思い描いたとおりの軌道で進み、右から左へ、胴の反対側まで到達した。そこにはほんの少しの抵抗もなかった。だがそこで起こった事態は、当の武藤にとってまったく予想だにしないものだった。

 爪は胴体のある位置を斜めに通過した。しかし殺意を籠めた必殺の爪がゲオルギーの胴を引き裂く軌道を描いたとき、その軌道上にゲオルギーの肉体は存在しなかった。

 すなわち、彼女の肉体が服ごと粘液状に溶けて、動いた。

 脚にケルペルを展開したフェルミをバターのように切り刻んだ爪とはいえ、空を切るのとパルタイの肉を切るのとでは、後者にはわずかなりとも抵抗感がある。すっぽぬけたようになってバランスを崩した武藤の隙を見逃さず、ゲオルギーは自身の右にある武藤の右手首を、空いていた自らの左手でがっしりと掴み込んだ。

 立て続けに武藤は左の爪を心臓めがけて突き出したが、やはりパルタイの肉体が溶け、爪はかすりもせずにぽっかり穴の開いた胴体を突き抜けた。今度は鋏を懐にしまい空けた右手で武藤の左手首を包むように握り込むと、交差する両腕をゆっくり、しかし確実に強制的に開かせていく。

 爪の通る位置にあるパルタイの体はもれなく黒い粘液状に溶けて刃をよけていった。胸も、肩も、顔面も、部位の重要性は関係なかった。全て黒く染まり、崩れて、結果として爪に仕込まれた刃によってパルタイが傷つくことは一度としてなかった。

 肋骨から上にあたる部分は完全に宙に浮いている状態で、なおゲオルギーは武藤に力で押し勝っているようだった。奇妙だ。彼女の腕は袖を通した水兵服を内側から押し上げるような筋肉量ではなく、柳のような背格好をしているというのに。今や武藤の両腕は交差を解消して、無防備な武藤の正中線がパルタイ・ゲオルギーの眼前に曝されている。ゲオルギーの方が武藤に比べ背が高かった。最後の抵抗とばかりに、爪を再び長く伸ばした形で展開した手指を拳を作るように折って、刃はパルタイの両肩めがけて落ちていったが、やはり爪の軌道を通る肩口、脇腹、腰と腿の外側とが溶けて、爪がむなしく空を切るだけに終わった。加えてパルタイはわずかの間手首から手を放し、次の瞬間には武藤の拳を包むように握り込んだので、彼女の爪は完全に封じられてしまった。

 ゲオルギーは死んだ魚のような生気のない鮮やかな緑色の目で武藤を見下ろしていたが、すすー、と、水面を滑るあめんぼのようにその視線を和久田に移した。

 目が合う……厭な視線だった。背中に氷を突っ込まれる感覚がして身が震えた。緑色の瞳が玉虫色に輝いた。赤、青、黄、マゼンタ、シアン、紫、橙、重層的な色の連なりが大きな丸い瞳の上で波打ち、脳の奥底まで見透かされるような気がして、和久田は視線を逸らそうと試みたが、ついに最後までそうすることはできなかった。

『成程。そういう願いか』

 濁ったノイズ交じりの声がそう言った。瞳はもはや色の層を失い、平板な緑色に戻っていた。――願い? 何を言っている……。

 ゲオルギーは武藤の手を放しくるりと背を向けた。二歩三歩と踏み出し、地上へ降りる階段の一歩目に足をかける。相当の力で拳を握り込まれていたらしく顔を歪めながら指を曲げ伸ばしていた武藤が、高校の制服姿に戻ってパルタイの背をさして突っ込んでいったのは、その時のことだった。

 ――武藤の爪とその刃は、依頼の内容から鑑みるに、本来身動きの取れない相手の息の根を確実に止めるために使われるものなのだろう、周囲にふりまかれる殺意のオンオフは武藤自身の意志でも不可能である。

 しかし爪は展開に際して長さを自由に選択でき、また手甲だけ展開させることもできる。最初から全身を展開するのではなく、まず近付いて、そして回避できない間合いまで詰めたのち回避できない長さの爪を展開すれば、確実に必殺の一撃を見舞うことができる!

 だが今度は、今度こそ、武藤が《超常》パルタイの超常たる所以を身をもって知る番だった。

 瞬き一つしなかった。そのはずなのに、ゲオルギーが肩越しにちらりと武藤を見て、星の瞬き一つよりも短い時間が過ぎたのちには、武藤の両目を狙って開いた鋏の二つの刃がそれぞれつきつけられていた。

 甲高い金属音が響き、鋏を突き出すパルタイと前に出る武藤の動きが同時に止まった。ゲオルギーの手には、数倍の大きさに膨れ上がった子供用の鋏があり、彼女はそれを片手で扱っていた。そして鋏を扱う手を先端に持つ腕は、遠めに見てもわかるほど寸詰まりに短くなって、ありうべからざる角度で曲がり、まっすぐ武藤の両目さして鋏を突き出していた。

 和久田には見えた。右の肩越しに武藤を一瞥したパルタイの右腕が溶け、粘液が肩口に収束し、瞬時に何倍にも膨張した鋏を携えた寸詰まりの腕が瞬く間に形成されていく有様が。

 正確にいうならば、和久田もその過程をすべて目にできたわけではない。その目に映った異様な光景を、その結果から逆算して再構成しているだけである。

 武藤は前のめりに立っていたが、やがて枯れ枝が風に吹かれるようにその場にへたり込んだ。パルタイは閉じた鋏の刃を鞘に納めると、何も言わずに金属の階段を静かに音を立てて降りて行った。


 全身を打ちふるわせる武藤の涙が止まるのには、しばしの時間を要した。

 実際怖いだろう、目の前に鋏の先端を突き付けられるというのは……和久田は彼女の反応から、どうやら超常を追っているという言葉とは裏腹に、武藤は実際にパルタイをはじめとする彼らと交戦した経験はあまり、ほとんど、ないのだろうと知った。黒兎の姿と爪を手に入れたのが今年の一月で、そもそも彼女にはそんな力を使うつもりはなかったのだということを鑑みれば、当然といえばそうなのだが。

 涙を流すというのも本当にその言葉のままという感じで、武藤のありさまは到底「泣いている」とは言えないものだった。低い嗚咽が聞こえ、時折体をひきつるように震わせて、顔を覆った手の隙間から涙が光り、流れる……そういう状態であった。アパートの通路で泣かせているわけにもいかないので、和久田はひとまず彼女を連れて下に降りた。今武藤はブロック塀に突っ伏している。

 和久田の中に巣食う怪物はその様子に狂喜していたが、一方でゲオルギーに嫉妬してもいた。よくもおれ以外のなにものかが武藤をこんなふうにしてくれたな、という怒りにも近い感情が渦巻いていた。

「さっきの話のことなんだけどさ」

 嗚咽が止まったのを見計らって和久田が言うと、幽霊のようになった武藤が力なく振り返った。白いまぶたが赤く腫れあがってひどく痛々しく、今度は和久田の中の武藤を崇拝する心がゲオルギーに呪詛を放った。よくも彫刻のような武藤の顔をこんなふうにしてくれたな……。

「はい」

「おれが人を殺したいと思ってるってのは、本当だ。何だろう、暴力衝動、とかでもいうんだろうな。とにかく人を見るとむらむらと、ああ今こいつを適当な物陰に連れ込んでぶっ殺せたらなあって思うんだよ。女子相手ならレイプしちゃったりしてさ。そういう、なんていうか、暴力的なこと? に対する欲求ってのが、日増しに高まってるんだよ。特に武藤なんて、美人だしさ。格好の獲物さ。はは……

 でも、それと同じくらい、おれは人殺しも強姦もしたくない。誰だってそうだろうけどさ。おれの好きな特撮番組に出てくる敵はさ、グロンギっていうんだけど、人を殺した数を競ってゲームをするっている奴らなんだよ。そいつらのゲームを見てて子供心に、ああこいつらみたいにはなりたくないなあって、身近な誰かが殺されるなんて嫌だなあって思ったんだ。おれは、誰かが人を殺そうとしてるのを止められるような人間じゃないかもしれないけど、積極的に人を殺すような人間にはなりたくないんだよ。

 だけど事実おれは今だって人を殺したいって思ってて、そこに武藤が一々付きまとってきて『何か願いがあるなら自分が協力する』なんて言われたらさ、お前を殺したくなるに決まってるじゃないか」

 和久田は腫れぼったくなった武藤の目を覗き込むように見つめた。笑顔を作ろうとして、口角がひきつった。

「もしもフェルミが本当におれの魂、《生命への意志》だけを目当てにしているとしても、べつに構わないよ。そのときはそのときだ」

「そんなの、よくないに決まってるじゃないですか」

「おれはいいって言ってるだろ! わからないか……おれはお前の事情なんかわからん、でも武藤お前だっておれが何をどう考えて今こうして喋ってるかわからないんじゃないか? そうだろう?」

 おしまいだ。おしまいなんだ。もうこれ以上は、和久田徹と武藤陽子の間に断絶をおかなければ、本当に和久田は人を殺してしまうかもしれない。

「人を殺したがる人間だなんて信じられないだろうけどな、武藤、それを言ったらパルタイや《超常》だってそうじゃないか。信じられなくっても現実にあるんだ。だったら、現実にあるものを信じるしかないだろ」

 黙っている武藤には覇気がなく、くたびれた布切れのようで、魂が抜け出たようだった。

「それに、そうだ。おれ一人の、お前とは特段気が知れてるでもないただの高校生一人の命じゃないか。パルタイやあぜはこれまでだって何十人と人を殺してて、武藤だって今おれをフェルミから守ろうとしているにしたって、パルタイと契約しようとしている全員をどうにかしようなんて思ってないだろうし、思ってもできないだろ。高校生としての生活もあるんだから。だからいいんだよ。おれなんかが死んだところで気に病まなくたっていい」

「あぜとの……」武藤がかぼそい声で言った。「あぜとの契約には、実際の契約内容とはまた別に、もう一つずつ条件を出し合う必要があるんです。彼は私に、願いが叶えられるまでの間しっかりと学生として生活するようにという条件を出してきたんです」

 そうでもなければ、今頃……俯く武藤の顔がくしゃっと歪んだ。

「武藤」

「わかってます!」

 顔を上げると神経の昂りのあまり肌は紅く染まって、均整のとれていた目鼻立ちの美しさは各々身勝手な動きをする皮下の筋に引っ張られ失われていた。

「和久田さんとはこれ以上一切かかわりをもたない! フェルミだけは何が何でも見逃す! 和久田さんの、その、殺したがりについても黙っている! それでいいんでしょう!」

「いや、ほら、パルタイについておれが色々聞いたこと、武藤に何も伝えてなかったろ。どうしたもんかなって」

「結構です! 一人でどうにかしますっ」

 私は、私は……小さな声で何かつぶやいているのが聞こえたが、聞きとれる大きさではなかった。

 武藤は最後まで唇をわななかせ、自転車をこいで和久田の家の前から去っていくときも、言葉にならないつぶやきをもらし続けていた。その背中は小さかった。

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