十七

 武藤は変わらず和久田を見ていたが、「恨みや憎しみじゃなく」の辺りから明確に表情が変わった。一度顔全体に向けられていた視線が、もう一度和久田の両目に注がれるようになったのだ。濃い色をした小さな瞳の中には二つの青い光点があるように見えた……。

「おれは今だって、誰かを殺したいと思ってる。誰でもいいんだ」

 よりによって武藤の前でそんな嘘をつかねばならないことに、和久田は胸が張り裂けそうになった。これもまた嘘だ。誰かをなんて、そんな漠然とした願いじゃない。殺したのはほかの誰でもなく武藤なのに! 人が死ぬことへの色濃い忌避はなくとも、人を殺すことだけは、絶対にしたくないことなのに!

「といってもさすがに顔見知りを殺すのは気が咎めるし、大体おれの知り合いは男所帯だから殺すにしたって手間がかかる。スポーツをするでもない、体をとくべつ鍛えてるでもない、お前みたいなほそっこい女子ってのは好都合なんだよ、武藤」

 武藤は「冗談は」と言った。冗談はやめてください、と言おうとしたのだろう。しかし和久田が言っていることは真っ赤な嘘でこそあれ冗談ではないのだ。

 和久田はそれまで全身で201号室の扉にはりつくようにしていたが、そろりと右足を前に出した。武藤も即座に一歩退いたが、しまった、という顔をした。反射的な動きだったのだろう。和久田としては今言ったことを本気にして怯えながらでも一刻も早くここから逃げ去ってくれた方が都合がいいのだが、武藤はあくまでとどまるつもりらしい。そして殺人願望を告白した和久田を前にして後ずさりしてしまったことに負い目さえ感じているらしいふしがあった。

 本当に、少し脅かしでもしないことには信じてくれないのではなかろうか。武藤もまさかクラスメイトに殺人願望持ちの人間がいるだなんて夢にも思わないだろうし、信じられないという気持ちもわからないではないのだ。しかし、「少し脅かしてやろう」などと軽い気持ちで、たとえば首に手をかけたりしようものなら、そのままくびり殺すか、そうでなくとももう片方の手で拳を作ってえんえん胴体を殴り続けるかしてしまいそうだった。それはさけたい。しかしもはやそうするより、つまりは怪物の願いのほんの一部を実行に移すより、ほかないのではないか?

 彼の思考はとっくにこの局所に逢着していた。そこから脱出しようと何度も何度も飛び立とうとしたが、同じ道筋を低徊した揚句、寸分たがわぬ同じ場所に戻ってきてしまい、身動きがとれないままになっている。

 和久田が武藤の首に視線を注ぐと、その白い筒はやはり陶磁器のように滑らかで、腱や筋や筋肉の隆起がなまめかしく浮き出て、まばゆい白い色をして、ほんのわずかに透ける静脈とおぼしき血管の色は思わず息を呑むほどだった。その手前にある黒い髪との対比の、なんと……彼はその素晴らしさを表現する言葉を持たなかった。そんなものは此岸にも彼岸にもないのだ。

 和久田はさらに左足を一歩踏み出した。武藤をわずかでも汚さぬため、ほんの少しでも触れないようにと、これまではドアにはりつくようにしていた。しかし逆に体に触れ、押さえ込む気でいれば、前に出ていくこともできる。

「ああそうだよ、Mだってのは真っ赤な嘘だ、おれは嘘をついた。ごめん。なあ、お願いだからここは一回退いてくれないか。おれは今この瞬間だって人を殺したいと思ってるけど、だからってお前を殺したくなんてないんだよ。矛盾してるけど、本当にそうなんだ――」

 頼む武藤、ここは一度諦めて退いてくれ! 考えないようにしていたことではあるけれど、もしかするとこんな場所で に及んでしまうかもしれない……

 和久田の手は今にも白い首にのばされようとして、中途半端な位置に持ち上げられたまま小刻みに震えていた。

 武藤は正面を和久田に向けたまま階段の方へ一歩跳ぶが、和久田の対応の方がむしろ速かった。二人は知らないことだが、学期初めの身体測定での反復横跳びも彼の方が記録がよかった。

 跳躍能力とあの爪を除けば武藤が和久田に身体能力で勝てるということはないに違いない。と、そこで和久田は彼女がいまだに爪を展開していないことに気付いた。人の死というものを過剰にきらう武藤だから、こんな状況でも和久田を傷つけたくないと思っているのだろう。あの夜和久田に刃を向けたのも、もっぱらディングを破壊するためだったはずだ。

 二人ともまったく動かなかった。武藤はどうしようとも生身で和久田を追い越してドアにたどり着けそうにないし、和久田もできることなら彼女に指一本触れたくないのだ。和久田の中の武藤陽子を神聖視する心が、神聖ならざる自分の指が彼女に触れることを許さなかった。そんなわけで、互いにまったく動けなくなっているのだった。

 二人の膠着状態を破ったのは、武藤の背後から聞こえてくる、かつん、かつんという音と、やがて階段を上って現れた黒い影だった。

 それに最初に気付いたのは和久田だった。厳密には、最初にその姿に気付いて、それから金属の階段を上る足音があったことに気付いたのである。ほっそりとした体つきをした長い髪の女性で、頭の上にちょこんと水平帽をのせていた。ほかの住人だろうか、道をあけなくては、と動こうとして改めてその人影の身なりを確認したとき、そんなのんきなことを言っていられない状況にあることを和久田は理解した。

 全身が黒い。黒い水平帽、黒い髪、黒い瞳、黒い服、黒い靴……何から何まで黒い布で作られた水兵服なんてものを、和久田は見たことも聞いたこともない。

 小さな顔には、その半分ほどはあろうかという大きな目があった。しかしその目にはおよそ生気といったものが感じられず、目のほとんどを占める瞳は墨で塗りつぶしたように真っ黒い色をしていた。

 和久田の視線がいよいよよそに移ったのを見て武藤も背後に振り向き、その黒い影をみとめると、しばし固まってのち、影に対して一歩下がると同時に、和久田に背を向けることも顧みずに体勢を百八十度ひっくり返した。和久田もあわてて後ろに跳び退るその頃には、武藤の両手には殺意と憎悪を固めて作ったあの爪が展開し、両の目は端から端まで赤く輝いていた。

 武藤のレーダーはべつに黒兎の姿にならなくとも機能していたはずだが、いったいどうしてこんな至近距離まで近付けたのだろう。その武藤からはもっとも近いタイミングでは彼我の距離が三メートルもなかった。

「ああ、レーダーが利かないという話なら簡単……ですよ? だよ? わからない……単に黒い服に着替えたというだけのことだから」

 全身黒一色の影は武藤の爪を前にしてなお涼しい顔で水平帽を取り懐に手をのばす。一見隙だらけで、事実武藤もそう思ったのだろう、五倍近い長さの爪をそなえた指をそろえた手刀による突きを彼女の顔面めがけてくり出す。

 しかし刃は人形のような顔をずたずたに切り裂くことなく、その手前で金属のぶつかり合う音を伴い止まった。パルタイを縛るレーゲルの発動した際の音や、あるいは武藤の呪いがその力を発揮したときの音のような、この世ならざる澄みきった感じはそこにはなかった。あくまでも現実に何か二つのものがぶつかった音なのだ。爪と顔の間には、真っ黒い色をした子供用の小さな鋏があった。

「はじめましてアリス、それから《鎧型のザイン》の被検体、名前はたしか、そう、ワクタとかいったか。挨拶をしたからには此方も名乗らなければならないね? わたし、いやぼく? おれ? 日本語は一人称が多くて困る。ドイツ語で名乗っても通じるかな」

 いや違う、和久田は気付いた。鋏も小さいがそれだけではない。彼女の手も指も異様なほど大きく、長いのだ。彼は同時にあの紫のパルタイ・ダヴィドの言葉を思い出した。反フェルミ派の筆頭の一は……

『Icn bin Partei【fünf】grün〈unbestimmte Form〉Georgie』

 空間が泡型に膨れ上がって沸騰する感覚があり、円い瞳と髪とに新品のアクリル絵の具を思わせる毒々しい鮮やかな緑色が現れた。

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