十四

 その場の勢いでうまいこと西門を排除した影、武藤は、直前まで彼が腰かけていた椅子に座るでもなく、立ったまま和久田を見下ろして言った。

「フェルミが二日続けて学校を休んでいますけど、本当に何もないんですか」

「こっちが何してるか聞きたいくらいだよ」

「じゃあ他に何か私にしてほしいことはないんですか。まさか本当に踏まれるだけだなんて」

「それもまだ考えてるところなんだ。早めに考えるよ」

 武藤と顔を合わせたことで、つい先ほどまで引っ込んでいた思考がまた意識の表層に浮上してきた。和久田の中にいる怪物は、やはりフェルミが武藤を排除するために和久田の心に埋め込んだものなのだろうか? ディングの使い方はともかく、その細かい仕様について和久田はまったく聞かされていなかったから、憶測で判断するよりほかなかった。

 前触れなく武藤が言った。

「やっぱりフェルミみたいな女が好みなんですか?」

「は?」

 フェルミみたいな、女?

 和久田が質問を噛みくだき理解するより早く武藤がまくし立てた。

「ボンキュッボンっていうんですか? バストもヒップもあんなに露骨で。それは胸があればできることも増えるんでしょうし、あれに比べたら私なんて洗濯板みたいなものだって自覚はありますけど、でも男子高校生はそれこそ……だって聞きますよ」

 まくし立てながら武藤はスカートの端をつまんで持ち上げた。舞台の緞帳が巻き上げられていくようにスカートの前が上がっていくと、濃紺の生地を背にして真っ白い腿が露になっていく。眩いばかりの白……和久田の目を釘付けにした脚は、普段はかように無防備に空気に晒されるはずのないものだった。

「和久田さん、本当に、本当に、私の体じゃ解決できませんか? 私の体でできることなら何だって、本当に何だってするつもりです」

 和久田は何も言えなかった。無言の時間が流れた。

「駄目なんですか。私の体じゃ駄目ですか。私じゃ駄目なんですか。胸が大きくないとできないこととか、そういうのが、和久田さんの願いだっていうんですか」

 武藤は唇を噛んで、震えながら、今にも泣きそうになって言った。

「もしこういうことでないとしても……」

 武藤はスカートから離した手で和久田の手を取り、真剣そのものの目で和久田を見た。

「私が手伝えることなら何だって手伝いますから、だから、後生ですから、教えてくれませんか。和久田さんがフェルミに願おうとしたこと。あるんでしょう? 何か願いがあるからフェルミは和久田さんのもとに現れた。違いますか?」

 願い。そうだ、一月の終わり、あの時、確かに和久田は未だあの英雄クウガ、そして彼を窮地から救い拳以外の力を与えた天道に憧れを抱いていた。しかし四月の初めに武藤を知ってから、和久田の心はすっかり別の何かに支配されてしまったかのように様変わりしてしまっている。

 彼女が初めて和久田と接触したとき和久田の願いは、叶わないとわかっていながら、戦士クウガのような、力と知恵とを用いて人を守り助ける存在になることだった。だがフェルミは『叶えちゃいけない願い事』すなわち《怪物》の願いの成就がむしろ望ましいと言った。

 後者は武藤には叶えられそうもない用件だった。彼女は親友の命を奪った《あぜ》を殺すまで死ぬわけにはいかないのだ。また、怪物がフェルミに埋め込まれたものであると仮定すると、そもそもこれは和久田自身の願いではないということになる。では前者を叶えるのか? それこそ《超常》の力が必要ではないか。

 フェルミが成就を狙う願いは何か? 和久田が願っていることは何か?

 和久田は答えられなかった。答えられず代わりに口から出たのは、「どうして……」という、武藤への問いだった。「どうして武藤はこんなことをする?」

「赤の他人の願いなんてどうでもいいだろ。おれはフェルミからいろいろ聞いて、少しはパルタイの契約のことも知ってる。あいつはおれを特別扱いしたがってるようだけど、さすがに《生命への》……いや魂を取られるようなもんにサインするつもりはないぞ。それにフェルミと連絡する方法なんてもう全然ないって言ってもいいくらいなんだ。LINEも電話番号も、あと昼休みにメールアドレスも消した。ゼンダーもお前がぶっ壊したからあれで連絡とることもできない。それに何でもするだなんて、何されるかわからないのに、言うもんじゃないだろ」

 和久田は堪えきれなくなって目をそらした。これ以上何でもするだなんて言われたら、本当に殺したくなってしまう。本当は殺したくなんかないのに。

「あと、そうだ、《あぜ》を探してるって言うなら今度フェルミに会った時におれも聞いてみるしさ。多分あいつのことだからまたひょっこり出てくるぞ、そしたら、《あぜ》っていうパルタイに似た噂のこと知らないか、みたいな感じで、聞いてみるからさ。真面目に答えてくれるかはわからないけど。だからさ武藤」

 武藤は何も言わずに聞いていた。ただ引き結んだ唇が段々と血の気を失っていった。

「どうしてパルタイを殺す必要があるっていうんだ? 武藤は《あぜ》を追ってて、《あぜ》に近付くためにパルタイも嗅ぎ回ってるって話じゃないか。だったらパルタイを一々殺さずに泳がせておいた方がどう考えたっていいに決まってる。わざわざ危険を冒してまで殺しに行かなくたって、その方がむしろ武藤の利益のはずじゃないか」

「ふざけないでください」

 武藤が小さな声で言った。

「パルタイは人を殺すんですよ、そんなものを放っておけるわけないじゃありませんか」

「武藤、おれが言いたいのはさ、なにもフェルミを殺す必要なんてないって話なんだ」

 武藤の口が閉じた。息を吞んだようだった。

「そうだ、一番はそこなんだ、武藤。おれがフェルミと縁を切ったらあいつを殺しに行くだなんて、そんなことしてほしくない。お前にとってはどうだか知らないが、おれにとってはあいつは通学を一緒にするクラスメイトで、三か月前に越してきたお隣さんで、それなりに仲のいい奴の一人なんだ。そいつが殺されそうになってるのをみすみす見逃すなんて、おれにはできない」

 和久田が言い終えても、武藤は何も言わなかった。だから、店内には誰の声もなく、和久田にはすっかり耳慣れてしまったジャズの音色だけがあった。

 沈黙。

「それに、そうだ。もしおれがフェルミに殺されなかったとしてさ、そのおれが仮に十五人殺したとしよう。すると武藤はおれ一人を助けたがために十五人を間接的に殺す羽目になるわけだ。十四人のマイナスだ。つまり何が言いたいかっていうとな、おれを助けたところでどうにもならないってことだ」

「和久田さんは人を殺したがっているとでも?」

 先よりさらに小さな声で武藤が言った。負け惜しみのようにも聞こえた。

「そういうわけじゃない、単に例を挙げてるだけだ。何かいいことを、自分がいいとことと思ってしたことが、回り回って悪い方にことを動かすなんて、よくあることじゃないか」

 そうだ、よくあることだ。クウガに憧れて、天道に憧れて、二度とも失敗した。和久田がクウガや、天道や、あるいは西門のようになるのは、結局、それこそ《超常》の力でもなければ不可能なことなのだ。

 それに、フェルミから聞いた話じゃ……話を続けようとした和久田だったが、そこで口が止まった。意識してやったのではない。ただ外部の刺激に気付いて、口や体の動きが止まったのだ。熱風が産毛をちりちりと焼くような感覚。全身の皮膚を羽毛で撫で回される感覚。フェルミに近いが、似て非なる……パルタイの顕現の気配。

 二人は同じ一点を見た。入口すぐ、カウンター奥で椅子に腰かけまどろんでいた店主の瞳が、鮮やかな紫色に輝いた。

『「寄生」、』『と』『「支配」』『なら』

 脳に直接文章を書き込むような調子の、声ともつかない声が、和久田の頭に響いた。

『お任せあれ、という』『わけ、なる』

 操られているだろう肉体がぎこちなく立ち上がると、くたびれた臙脂色のベレー帽が床に落ちた。紫色をした瞳の縁から黒い涙がこぼれて頬を流れた。

「おい、武藤」

 彼女の《黒兎》には半径何百メートル圏内の《超常》を感知するレーダーのようなものがある、とフェルミが言っていた。気付いていたのか、と聞くよりも早く彼女は首を横に振った。

「気付いてたら真っ先に攻撃してたでしょうよ。なんでわからなかったのかが不思議です」

『余計な力を展開しなければあなたのレーダーも探知できないということは、フェルミによって証明済みなれば』

 言われてみればその通りである。《パルタイ》フェルミがフェルミ瑠美として一城高校に生徒として入り込んでいたことには、彼女がその正体である童女の姿を現し、和久田がその名を呼ぶまで、武藤も気付いていないようだった。あの原色の髪と瞳の姿に変化せず、あるいはケルペルを展開しなければ、武藤には気付かれようがない。そして目の前のこのパルタイもまた、同様の手口で二人に近付いたのだ。

 それにあなた、と喫茶店青い花の店主、もとい彼の体を目下乗っ取っているパルタイが、ぎこちない動きで和久田を指さして言った。

『フェルミがケルペルを貸与したでしょう、複製の貸与なのでディングにありまするが、貸主であるフェルミがそのディングの居所を把握できないという道理は無しというわけであります』

 ディングを通じて和久田の居所を把握していたフェルミが彼らが喫茶店青い花に来るより早くこの紫のパルタイを送り込み店主に「寄生」、武藤のレーダーにもかからない状態で身を潜めながら頃合いを見計らって、ちょうど今になって姿を現した、というわけだ。そしてディングによって和久田を追跡できたなら、フェルミは武藤家の場所さえも把握している可能性がある。

 真っ先に黒兎の姿を展開して飛び出すと思われた武藤だったが、歯を食いしばりながらも、外を一瞥したきり動かなかった。西門はいつの間にやら姿を消していた。

「フェルミの知り合いですか」

 これ以外に何と表現すればいいのだろう? 語彙を持たない和久田は目の前の《超常》と思しきものにとりあえずそう問うた。

『いかにも私はパルタイ【2】紫の《寄生》ダヴィド。今日はフェルミからのメッセンジャーとして馳せ参じ候』

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