十三


 その日の昼、和久田は自分の席で一人で弁当箱を開くことになった。男子連の「へいへいアベックアベック」「せっかくだし俺達の代わりに親睦深めてこいよ」という冷やかしにより彼はいつものグループからはじかれることとなったわけである。だが西門の目を見るまでもなく、和久田がはた目から見て明らかに普段と違っていることは彼自身にもよくわかっていた。寝不足によって赤く充血した目が時折怯えるように周囲を素早く見回し、ひどい貧乏ゆすりを繰り返し、時にはぶつぶつと何かしらつぶやいたりしていたのである。周りに対して無理に平気を装うよりかは一人でいたほうがよっぽど楽だ。あるいは男子連は薄々そうでないことを理解していながら、同時に昨晩二人が同衾していたのだろうとも考えているのかもしれない。

 武藤からLINEでメッセージが届いた。

『フェルミから何か連絡はありましたか』

 向こうの携帯には和久田の電話番号はまだ残っているはずだが、結局これまで使われたためしがなかった。一切音信不通だという旨を打ち込み、隣の席に座ったままの武藤に伝えた。既読が付く。するとその時、また別のアカウントからメッセージがあった。

『二人で青い花行こうか』

 西門からだ。中学時代から和久田や西門の母校の生徒がよく集まる喫茶店だった。男子連の方を見ても西門はいない。どうやら席を立って文章を打っているらしい。

 和久田自身こんな様子だし……無自覚の奇行もあるにはあったが、自分が本調子でないことは理解できていた……きっと何か募る話でもあるのだろう。それにここ二三日、武藤の言うところの《超常》に深入りしすぎていたかもしれなかった。たったの一年ほど前だが、正義活動をしていた昔を思い出すのも、目の前の事柄に呑まれないためには悪くない。

 放課後、男子連とそれぞれ別れた和久田と西門は、家で私服に着替えて喫茶青い花に向かった。


 喫茶青い花は一城高校から自転車で三十分ほどの距離にある。コーヒーと甘ったるいドリンクと分厚いパンのサンドイッチが売れ筋で、今年で開業から半世紀を迎えるという。

 二人が入ると、偶然にも店主を除き見知った顔は一人もいない。並コーヒーと「吐くほど甘い」と評判のラッシーを手に一番端の席の向かい合った低い椅子に腰を下ろした。ソファのように分厚いクッションが表面を覆っている。ストローでラッシーを吸う。甘い。目が覚める心地がした。

 和久田は未だ赤みのとれない目で西門を見た。彼の肌は武藤ほどではないが白く、髪は黒かった。ともすれば不気味にさえ見える武藤とは違って、彼は見る者に負の印象を与えようのない好青年だった。いや、背丈こそあれ和久田と同い年なのだから、好少年というべきか。

 武藤も余人に優る美しさを持っているが、西門もまた和久田にないものを持っていた。まず背が和久田より頭二つ高い。身体測定では百七十六センチという記録を叩き出している。顔立ちは甘いマスクとでもいうのか、若い頃の草刈正雄に似て彫が深く、彼に流れるオランダ人の血を感じさせる。そして何より、西門は和久田とちがって、和久田のように致命的なへまをしたりはしない。荒れに荒れていた母校で生徒会長を務め、その荒廃ぶりを一年で大幅に改善するなんてことは、和久田には到底できそうにない。

「それ前買ったって言ってたスキニー?」

「それはもう」

「いいじゃん」

「これで腰回りがやたらがっちりしてたら不格好だったろうけどね」

「腰回りががっちりしてたらスキニー履けないんじゃあ」

「まあね。徹の上着もいいと思うよそういうの。ああそうだ、前草刈正雄がテレビで着てたのと似てる。そういえば井坂は卓球続けるんだっけ、何か聞いてる?」

「ああ、らしいな。けどおれが聞いてるとしたらお前もだろ、中学一緒なんだし」

「まあね。でも一城卓球部ってどうなのかな、ゆるくできるのかね」

 西門は一貫して他愛もない世間話に興じるつもりであるらしかった。彼は和久田の異変の原因が武藤や、あるいはフェルミであり、たとえ苦い記憶が交じっているにせよ二人と関係のない昔話に花を咲かせることで、和久田を一時的にでも目の前の問題から逃避させようとしているらしかった。しかし、そこまでのことを和久田は簡単に推測できてしまっているし、今こうして西門と言葉を交わしているところで、彼の頭から二人に関する事柄が脱け出すことなど、あるはずがなかった。

 夢うつつのようになりながら話していると、西門がそれとないふうに言った。

「結局徹はさ、高校でもあれはやらないの? 正義活動」

「ああ。もうやらないさ。完全に足を洗うって決めたんだ」

「正直お前一人がそこまで気に病むことでもないと思うぞ。あれは人間一人じゃ、まして中学生一人じゃどうにもならないことだった。お前の方法は間違ってなかったはずだ、そうだろ?」

「方法の話じゃない……」

 和久田は思った。ああ、西門もなぜおれが正義活動から足を洗ったのかわかっていないのだ。和久田は嶋の転校や知念への処分を止められなかったことを悔いて正義活動を止めたのではない。自分には……例えば西門のように……最善の方法を選択しようがないと確信してしまったから、これ以上の正義活動の無意味を悟って、止めることにしたのだ。

「方法の話じゃないんだ。そういうことじゃないんだ、光生こうせい。あれはもうおれがおれだったから起きたことで、もしも俺の立場にいたのがお前だったら、そもそもあんなことは起こらなかったんだ。何も起こらなくて、誰も損をしないで済んだ。おれがお前みたいだったら、もっと有能な人間だったら、もっと優秀だったら、おれは失敗せずに済んだのに……。

「お前がうらやましいよ光生。タッパはある、顔だってよほどいい、髪伸ばしても鳥の巣みたいにならないしさ。大淀中で生徒会長やったのだって、おれじゃあどうにもならなかっただろうよ」

「艶はあるし、ワックス付けずにあの髪型になるのもそれはそれでいいと思うけど」

 携帯電話のバイブ音が鳴った。くぐもっていた。和久田の携帯だ。しかし彼は画面を確認どころか取り出すこともせずそのままにしておいたので、しばし間が生まれた。

「いいのか?」

「いいよ。……本当にさ、どうしたらいいんだろうな。おれにはお前みたいなことはできないのに、光生みたいになりたいと思ってるんだよ。どうせ失敗するってわかりきってるのに。もしもおれがお前みたいに有能だったらって」

「おれはそこまで有能な人間じゃないよ」

 西門が言った。

「知らないだけで失敗だって一度や二度じゃない」

 そうか、と和久田が言って、また間が生まれた。立て続けに携帯電話が振動するので、さすがに煩わしくなって電源ボタンを押して待機画面を見ると、大量のLINEメッセージが届いている。井坂からだった。

「LINEか何か?」

 西門が問うたが、和久田はその問いに答えることができなかった。

『おう徹』

『帰り際武藤ちゃんから居場所聞かれたから』

『光生からもちょっと話は聞いてたし』

『多分一緒に青い花にでも行ってるんじゃないかって伝えといた』

『そろそろ青い花に着くと思う』

『なんかフェルミがどうとか言ってたぞ』

『(お、三角関係か?)』

『泣かすなよ~』

 ぶつ切りに送信されたメッセージを読み終えた彼は無言のまま西門に画面を突き付けた。わずかの声も発することさえできなかったのだ。文面に目を通した西門もぎょっと目を剥くと、見計らったかのようなタイミングでドアベルの軽い音が聞こえてきた。西門は正面のまま、和久田は体を百五十度ほどねじって、左奥の位置にあるドアを見た。

 扉を開けて入ってきた影は、鋭い目付きを右へ左へと走らせて店内を見渡し、和久田の目を両方とも捉えると、まっすぐ彼と西門の座るテーブルへ向かってきた。そしてテーブルとテーブルの隙間、二人のちょうど間に立つと、一言「西門さん」と言った。彼は呆気にとられたのか、間の抜けた感じで「はい」と返事をした。

「少し席を外していただけますか」

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