十二

 次の朝、フェルミは和久田を迎えに来なかったばかりか、学校に来てもいないようだった。朝食の間中彼女と顔を合わせることを思って気を重くしていた和久田にとって、それはある意味でありがたいことだった。もし今フェルミと顔を合わせたとして、何を言えばいいのか、どうすればいいのか、まるでわからなくなってしまっただろうから。昨日の朝別れてから一度も姿を見せていないというのは、少し気になるところだったが。

 三時半に目を覚ました和久田は結局その後一睡もできないままに朝を迎えていたが、神経は昂り目はひどく冴えてさえいた。いつどこから現れるともしれないフェルミを警戒する意味もあったかもしれなかった。

 もしフェルミが武藤を排除するため和久田に《怪物》を埋め込んだとすれば、その次に彼女が狙うのは和久田と契約を結び、彼にザインを取得させることのはずだ。そこから何が導き出せるだろう? つまるところ、人間を殺せないようパルタイを縛るレーゲルはあくまでパルタイのみに及び、武藤の言うところの《超常》一般、たとえばザインや、もしかすると《あぜ》にも及ばないということだ。フェルミ自身、以前契約した人間の鳩型ザインによってミニバンをトラックと衝突させたと言っていたではないか。『パルタイは人間を殺すことはできない』とは、裏を返せば『パルタイ以外なら人間を殺すことができる』ということになるのだ。

 武藤自身はフェルミの攻撃が当たらなかったことを自らの《呪い》のせいだと考えているようだったが、しかしどうだろう、和久田が投げつけた小瓶はきれいに弾き飛ばされたのに、フェルミの突撃は弾き返すことはできずただ軌道がずれただけだったではないか。正反対の方向にフェルミを弾き飛ばすのではなく、ただ向かってくる力の方向を変えただけだ。武藤に《呪い》がかけられたのは、彼女がもう一人の《あぜ》を召喚し積極的に《超常》とかかわろうとする前のことだ。カッターナイフや小瓶に対する防御が万全だったとしても、常識を超越したフェルミら《超常》に対する備えが、絶対に万全たりうるとは言い切れないだろう。

 フェルミは、和久田の『叶えちゃいけない願い』の方がパルタイに利すると言った。とんだ道化だ! 利するというのはすなわち自らを害する存在を消せるという意味で、しかも『願い事』は、他ならぬその台詞を吐いたフェルミ本人が植え付けたものなのだから! ザインはディングよりも強力だという。いや、あるいは、和久田が今所持しているディングでさえも……そこまで考えて、彼は必死にそのおぞましい思考を振り払った。自転車を降り、路傍で頭を抱えて蹲りたい衝動に何度となく襲われながら、頭蓋を圧迫せんばかりに膨れ上がった余計な思考を振り切ろうとするかの如くペダルをめいっぱい漕いで、息も絶え絶えになりながら和久田は自分の教室へたどり着いた。

 戸が開け放ちにされた入口から教室に入ると、武藤がちらりとこちらを見て、また机の上の文庫本に視線を移した。和久田はふと武藤以外の視線を感じ、教室中をさっと見回すと、確かに自分を見ているものがちらほらいる。後ろから肩を叩かれ、振り返ると、西門が立っていた。彼は和久田の耳に顔を近付け、そっとささやいた。

「昨日武藤ちゃんと帰ったんだって? いや、俺もお前が手ェ引かれてるの見たけどさ:

「ああ、うん」

「そのことでいよいよ盛り上がってるみたいだ」

 それきり言って西門は自分の席に戻っていった。

 孤高の佳人たる武藤と、和久田との取り合わせは、クラスメイト達には奇異に見えるようだった。そうでなくとも昨日の、和久田の手を握るというよりつかむようにして、彼を半ば引きずっていくかのように、大股で廊下を歩いていく武藤を見れば。只ならぬものを……何か事件めいてさえあるものを感じるのは当然だった。

 西門は自ら何か言うことはなかったが、これ以上ありがたいことは和久田にはないといてよかった。何か聞かれようものならきっと何も言えなくなっていただろう。武藤の秘密を口外するのは良心が許さない、しかし嘘を言って余計な混乱を招くのも本意ではない。和久田の内の怪物のことを話す? まさか!

 何も言えず何も手につかないまま彼は席について、日々のルーチンと同じ要領で授業の準備を進めた。

 間違いなく、フェルミにはできなくとも和久田には、ディングを得ていても人間である和久田には、人を殺すことができる。そしてフェルミはその気になれば人間の頭に特定の意志を埋め込むことさえ可能だ。和久田はフェルミ瑠美がそんな風に人を操る人間だと思いたくなかった。しかし和久田は同時に、彼女がパルタイであることを、人間の《生命への意志》を奪い、それを食って生きながらえることにまるで良心の呵責を感じない人外であることも知っているのだ。

 和久田が望めば、この瞬間にも彼の両手にはディングが展開される。この奇妙な力と共にとんでもないものを植え付けられてしまったかもしれない。フェルミを追及したところで、彼女は今まで隠してきたことを正直に明かすだろうか? 本当のことを言ったとして、自分は彼女の言葉を信じられるだろうか?

 他方これだけ疑惑の目を向けていながら、フェルミ瑠美が武藤によって惨殺せしめらるるという事態をもまた、和久田は避けたいと思っていた。三か月前に越してきた愉快な隣人に対する好ましい気持ちもまた、彼の偽らざる思いだったのである。だから、もし和久田がフェルミと絶縁したところで、それによって武藤があの爪でフェルミの肉体を引き裂き左肩の数字を0にまでするとしたら、和久田はそれを黙って見ていられはしないだろうと思われた。

 我ながら難儀な思考である。

 和久田は授業に全然集中することができなかった。

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