十一
その夜和久田は夢を見た。四月の初めに武藤を目にしてから幾度となく見た、吐き気を催す、それでいて見ているその時にはひどく没入している夢だった。
二つのヴィジョンがあった。一つは真っ暗な空間で、光は一筋と見えない場所の底に、黒い澱のような水が静かに張っていた。その水面のある一点には、鉄製の棒を組んだものに鎖で縛りつけられた影が、腰から上を水の上に出している姿があった。それは明確に肉の体を持ち、人の形をしている。髪まで黒い水に濡れているのは、その時々によって彼が水面下にいたりいなかったりするからで、十字架様の鉄棒につながれた彼は、今この時には、上半身のみなが水面下から浮上した状態にあった。
彼は時々身じろぎしたが、声一つ発しなかった。体を動かすと、波一つ立てず張っていた水の上に円形の紋が生まれて、広がっていった。
彼? そう、その人影は明確に雄性だった。和久田よりほんのわずかに少ない筋肉量の体は必要最低限を超えた脂肪はまったく付いていないかのようで、フェルミのケルペルをさえ連想させるほどに、痩身である印象を与えた。髪は長く、癖はないようだったが、顔を半ばまで隠す前髪は半分が顔に張り付き、半分は水を吸って力なく真下に垂れ下がっている。前髪だけではなく全体がそんな風だったので、どこかサトゥルヌスのようにも見えた。
和久田の頭の中には、その時によって意識に上る上らないの違いこそあれ、常にこのつながれた者のヴィジョンがあった。彼が、すなわちこのつながれた者が鎖から脱け出そうと暴れ、黒い水面を激しく波立たせるのは、きまって和久田が武藤を前にしている時だった。
二つ目のヴィジョンはこれもまた光のない暗い空間だったが、下はどこまで行っても黒い水だった一つ目と違いこちらには固い地面があった。地平線まで黒い地面と、全体がほの暗く光っているようにも見える暗い空……その中に一点、輝かんばかりに白い影があった。そしてその影の上には、夜の闇を煮詰めたように黒い影が覆い被さっている。
その黒い影は、黒い蓑をまとっているようにも、傍からは見えた。少なくとも何も装っていない人間のシルエットではない。しかしながらその影は間違いなく人間と同じ四肢と胴体とを備えており、仰向けに転がされ抵抗している白い影を押さえつけて自由を奪い、胎を破壊せんばかりの暴行を加えていた。
白い影は……すなわち、武藤は……泣き叫んでいた。痛みからか、屈辱からか、処女を散らし、容赦なく精を吐き出されたことへの、何だろう、とにかく負の感情からか、それはわからない。そして涙を流しながらめいっぱい抵抗するその姿を見て、黒い影は背筋に駆け巡るものを感じた。そして恐ろしいことに、このとき夢を見ている和久田は、この《怪物》とまったく同じように、言い知れぬ心地よさを感じるのだ。顔を歪ませ涙を流す武藤もまた、この上なく美しかった。繋がったまま首を絞め、痙攣する胎の中で再度果てる時の爆発的な快楽をも、和久田はこの影と共有していた。
黒い影は動かなくなった武藤の右の膝裏をつかんで上半身の方へと持ち上げ、I字に開脚させた。赤く血を流した花弁が露になったが、この怪物が視線を向けたのは新雪のごとく白い、弛緩していながら肉の詰まった腿とふくらはぎだった。
彼は死んだ武藤の足首をつかみなおして、口を開け、歯を剥き出して、横向きに顔を傾けるとふくらはぎに歯を立てた。
何度精を吐いたかわからなくなるほど達していたが、それでも怪物と武藤とは未だ繋がっていた。腰を動かし、突き立てながら、犬歯は白い皮膚を突き破り、切歯と小臼歯を動員して皮と肉を切り離し、流れ出る血の一滴も零すまいと傷口の周りに吸い付きながら、口の中に収めた肉を舌の上で転がし、大臼歯で噛み潰していく。
喉を降りていく血の味は、この世のものとは思えないほどおいしかった。口いっぱい、鼻腔いっぱいに広がる鉄の味と臭気には視界も眩んでしまいそうになり、齧りとったふくらはぎの肉の味は、覚えてこそいないが、この世に存在する他のどんな食べ物よりもおいしいと感じられた。
和久田が全身に脂汗をかきながら目を覚ましたとき、時計は午前三時半を指していた。布団を出た和久田は洗面所に向かい、コップ二三杯の水道水を飲み干して、手にためた水を顔にぶちまけた。粘膜の壁が張り付いて塞がってしまいそうなほど喉が渇いていた。
この夢を見るのはもう何度目だろう? ベッドに腰を下ろした和久田は度々訪れるこの残酷な光景を思い出して身震いした。今度ばかりは一切快楽とは関係ない、夢の中の光景に対する恐れと怯えからくる震えだった。皮膚は粟立っていた。和久田は鏡に映る自分の顔を見て、目立った変化がないことを確認して少しほっとした。
胃の中のものをすべて吐き出してしまいそうにも思われたが、そんなことはなかった。頭の中がシェイクされたようになっているものの、首から下はといえば汗まみれになった以外は普段とまったく変わっていない。
いや、違うといえば違う……寝巻が湿り気を帯びるほど汗をかいているというのに体の内では熱がうごめき、呼吸は荒く、下腹のものはあの怪物さながらにいきり立っていた。
あんな夢を見てしまうこと自体が嫌だったし、その夢の中で武藤を蹂躙するあの怪物とほぼ一体化してその暴力を楽しんでいる和久田自身の意識も、彼を自己嫌悪に陥らせた。同じ内容の夢を見る回数が増えていくにつれ、夢の中の和久田の意識はあの怪物のものと一体化しつつあるように思われた。しかも夢の中で見た武藤の裸体や、諸々のヴィジョンが、頭の中にこびりついて離れないなんて! 夢から覚めた今でさえ、舌を転がった血の味にさえこんなにも興奮しているだなんて!
シャワーを浴びて自室に戻りベッドに腰かけた和久田は、困り果てて頭を抱え、力なくうなだれた。あんな残酷な夢を連夜見てしまう自分を嫌悪していたし、その内容を現実にまで持ち込んで、一度処理しないことにはどうにもならないほどに興奮している自分が何より嫌だった。犯し、殺した人の肉を食べるだなんて、それはもうグロンギよりも罪深い別の何かだ。似て非なるもの、というフレーズが頭に浮かんだ。その通りだ。クウガに憧れた和久田の頭の中には、ダグバに似て非なる怪物が潜り込んでいる。
和久田は夢の中で吸い付いた腿の感触を思い出し、背筋を駆け巡る甘い電流に身震いした。また罪悪感に苛まれながら床に就くことになるのだ。胃に鉄の塊を突っ込まれたような感覚を想像しながら、和久田はズボンを下ろした。
要するに、大きく分けて三つの区分が、和久田の武藤に対するスタンスとして存在するわけだ。
一つはいちクラスメイト同士としての区分で、これは次の二つと異なり武藤やフェルミと出会う以前からの和久田徹の思考である。孤高の存在である武藤がクラスになじめばいいとは思っているが、同時に和久田自身にはそんなことはできそうにもないと諦めてもいる。また彼女は少なくとも和久田からすれば美人ということもあって、良好な関係が築ければ悪いことはないと思っているし、彼女の均整のとれた肉体への興味もないではない。あくまでも、社会的に健全な範囲で。
二つ目は、武藤に対する無制限の崇拝の念。三つ目の《怪物》と同じく武藤に出会ってから和久田の心の内に住まうようになったもので、異常といえば異常である。昨夕武藤に背中を踏まれるのが心地いいと感じたのも、もしかするとこの崇拝がかかわっているのかもしれない。しかし和久田はこれをそこまで問題視していなかった。怪物があまりにも危険で目立たなくなっているということもあるが、第一この崇敬はそれ自体ではいたって無害なものだったからである。
第三に、和久田が怪物と呼ぶもの。これは何なのだろう? 彼の中にこれが巣食い始めてひと月とないとはいえ、和久田には皆目わからなかった。少なくとも武藤が能動的に和久田に何かしたというわけではなさそうだった。彼女はあくまで単身でパルタイを追い《あぜ》に到達しようとしているのだ。ただのクラスメイトである和久田に自身の《超常》の姿を見られれば純潔さえ犠牲にして彼をかかわらせまいとする武藤が、わざわざ自分に注意を払わせるような何かしらの措置を他人に施すなどあるはずがなかった。
ではフェルミか? 彼の『叶えちゃいけない願い事』こそ《超人》の到達に必要という彼女ならば……いや、妙な願いを他人に植え付けて、それを叶えることで《超人》に近付こうとするなんて、あまりに回りくどい。そもそも四月からこっちフェルミが和久田に対して目立ったアクションを起こしたことなどないといっていいくらいだ。ゼンダーだって一月の終わりから武藤に破壊された一昨日の夜まで、三か月近く持たされ続けていたが、その間ゼンダーに目立った変化はなかった。変わったことといえば、そう、ゼンダーを介して和久田の体にディングが埋め込まれたことくらいで……
濁った眼をして布団に潜り込んだ和久田は、ぞっとして飛び起きた。
いや、まさかそんなことが!
しかし理屈の上ではできるはずだ、ディングを得た和久田の頭の中には、同時にディングの扱い方までも事細かに流れ込んできた。……同じことが知らず知らずのうちに行われているとしたら? そして和久田はパルタイのレーゲルを思い出した。『パルタイは人間を殺すことはできない』。
超常を使えば人の頭に情報を埋め込むことができる。同じように、フェルミは和久田の頭にこっそりと特殊な意志を埋め込んだのだ。人間を殺せないパルタイが、パルタイにとって危険極まりない武藤を排除するために……。
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