――ところでフェルミはさ、俺にあんなにパルタイのこと教えて、どうしようっていうんだ。つまりさ、魂を持ってかれるってネタばらししてるだろ? その状況でまだ俺の願いを聞き出そうとしてるけど、それがわかったところでおれはフェルミと契約しようとは思わないんじゃないか?

 ――ワクタさんの《意志》をもらうつもりはないですね。むしろあなたの願いそのものの方が私にとっては重要です。具体的なことは何もないようなものなんで言えませんけど、ワクタさんの『叶えちゃいけない類いの願いごと』はもしかすると、今行き詰っている《超人》への糸口になるかもしれない……。



「私は死ねない体にされていたんです。いえ死ねないどころか、傷つくこともできない体にされていました」

 武藤は袖をまくって左手首を露出すると、引き出しからカッターナイフを取り出して逆手に持ち、振り上げる。

 あ、と和久田が声をあげるのも束の間、武藤は一気に右手を振り下ろした。刃はまっすぐ左手首に吸い込まれたが、白い肌に触れた瞬間聞き覚えのある甲高い音を立てて動きを止める。武藤の意思で止めたのではないことは明白だった。刃を突き立てんとする武藤の手は未だ力を込められて震えている。武藤はカッターナイフを引き出しにしまって言った。

「昨日瓶を投げられたときに飛んでいったのも、投げ飛ばされたときに着地できたのも、フェルミの軌道がそれたのも、これのせいです。あの人は――」

 要するに武藤が言うには、関谷が生前に《あぜ》と契約して武藤にかけた《呪い》により、肉体を傷付けることができなくなっている、ということだった。

「それで、その後どうしたんだ」

「手紙に書いてあった方法で《あぜ》を呼び出しました」

 現れたのは武藤がかつて目にした空色の髪の女とはまた別の、黒い服を着た赤目の男だった。彼は《あぜ》の「都村」と名乗った。武藤は最初、関谷を蘇らせることはできないかと駄目元で問い、男は不可能だと返答した。次に武藤が前田……関谷の手紙にあった、あの空色の女の名前である……を自らの手で殺したいと言うと、都村は「出来るが時間がかかる。すこし待ってほしい」と言い、問答無用で武藤の黒兎の姿と爪を与え、姿を消した。都村が言うには、「仕事がたまっている」とか、なんとか。

「それが今年の一月の初めです」

 強く発音された一月という言葉に、和久田も反応した。一月、クウガの始まりと終わりの月。和久田の後輩が河川敷でホームレスの集団死をみつけた月。

「そして多摩川と幸区で二件不審死があって、《パルタイ》が現れた」

 沈黙。

「間違いなく《あぜ》と《パルタイ》はつながっている。つながっているはずです。私は都村を探し出してなぜこんなことをしているのか問い詰め、私との契約を、前田を探し出すことを再開させなければならない。和久田さん」

 武藤はそこで一度言葉を切って、少し伏し目がちにしていた視線をまっすぐ和久田に向けた。

「お願いが二つあります。一つは私が今話したことを誰にも言わないでいること、二つめはフェルミ瑠美と金輪際手を切ること」

 一つめについては快諾しようとしていた和久田だが、二つめを聞き、慌てて思い直す。

 それは、できない。少なくとも簡単に約束はできない。即座にそう考えて、彼は自分でもフェルミへずいぶん肩入れしているものだと意外に思った。いや、そもそも武藤は何か勘違いをしているのだ。フェルミはつい今朝方和久田に言った。べつに『叶えちゃいけない願い』を聞き出したところで和久田の魂を奪おうとは思わない、その願いはきっとパルタイの最終目標にも利するものだろうから、と。和久田はその言葉を信じていた。フェルミはどうやら和久田の願いを、その内容を知ってか知らずか、彼らの目的のために利用しようとしているが、それは和久田の命を奪うという形では実現されない。しかしそれをどう説明しよう? 目の前で露骨に《超常》への敵意を振りまいている武藤を前に一からパルタイについて話したところで、聞く耳を持っているとはどうにも思われない。

 だんまりの和久田を見て、武藤は爆弾を投下した。

「もちろんただでとは言いません。二つを実行してくれるとしたら、私は和久田さんが言うことを何でも聞きます、何でもします」

「え?」

「私にできることなら、すべて」

 和久田は耳を疑った。何でもする? わざわざ何でも聞く、何でもすると分けたからには本人も自分が何を言っているのかわかっているだろう。まず常識的にいって、自宅とはいえ密室で男に言っていい言葉ではない。貞操の危機だ。和久田も真っ先に性的なことを考えてしまった。

 そしてそれよりも大きな問題は、武藤は知らないに相違ないが、四月の初めからこの方彼女を殺したがっている人間、つまり和久田にそんなことを言ったということだった。意識の底に抑えつけていた怪物が浮上してくる。今この場で武藤を床に組み伏せ、衣服を剥ぎ取り、ひたすら暴力的に犯して精を放ち、首を掴んで絞め上げながら床に後頭部を叩きつけて、物言わぬ死骸になった肉体をなおも犯し続けたい。腹や乳房の肌もきっと雪のように白いことだろう。そして乱暴に掴まれた場所には欝血で赤い手形が浮かび上がるのだ。武藤は抵抗するだろうか。それも空しく一息に腰を叩きつける。破瓜の血を、目からは涙を流してくれればいいのだが――

 異様に生々しいヴィジョンが脳裏に浮かび、そこに没入していたことに気付いた和久田は、我に返るなり青ざめた。背中と腋を冷たい汗が流れている。

「本気か?」

「はい」

 正気か、とは聞かなかった。まるで自分に言っているように聞こえる気がしたのだ。違う、おれは正気だ。あんなものを望んでいるのはつい最近やってきた怪物に過ぎない。

「何でもって、本当に何でもなのかよ」

「私にできることならという条件付きですが、何でもです。たとえば、そうたとえばですけど」

 武藤は伏し目がちに顔を逸らして、胸に右手指の先をふれて言った。

「たとえば私の体を好きにしてもいい、とか。和久田さん、授業中とか、朝の時間とか、あとはお昼も、ときどき、私のこと見たりしてましたよね」

 細心の注意を払っていたつもりなのに、本人にまでばれてしまっていた。いや、案外視線というのはわかってしまうものなのかもわからないが。和久田は顔の筋肉が不随意に痙攣するのを感じた。図星を突いたと察したのか、武藤は一歩二歩と迫ってくる。わずかに左を向き下を見ていた目は段々と上がってきて、場違いなほどまっすぐに、真摯に、和久田の目を覗き込んでくる。

「烏滸がましい話ですけど、もし私の体を少しでも魅力的だと思ってくださっていて、肉体的なことを望んでいるなら、できるかぎりのことはします。だから、もしも和久田さんの願いが私なら、それで手を打ってもらえないでしょうか」

「いや、武藤」

「はい」

 武藤の必死さは和久田にも十分伝わっていた。今や彼女の目はいっさいの邪念のない澄みきった目だ。すこしでもその目を見れば、彼女が和久田の命を案じる一心で動いていることはよくわかった。白い肌がだんだんと赤くなっていくのを見て、和久田の肉の喉は唾を呑み、二分された心はどこか冷めていった。やはり武藤陽子は白い肌でいるのが一番美しいと思った。

 言葉を遮ったのは、それとはまた違う理由である。和久田は、武藤から何か望みがあれば自分は従うといわれたところで、非常に困る状況にいた。武藤にまつわる願いといったら、(武藤本人が想像していることを和久田も望まないではないが、それは差し引くとしても)それはこの四月の初めから彼にとりついた奇妙な精神のものに他ならない。そして和久田にとりついた奇妙な精神のうち武藤を崇拝する側は、べつに武藤に対して何かを望んでいるというわけではぜんぜんないのである。ただ自分が彼女の前に跪き、その姿を拝んでいられれば、それでもう十分なのだ。そして武藤を犯し殺すことを望んでいる側の願いは、一貫してただ強姦と殺人でしかなかった。

「つまりなんだ、武藤」和久田は言った。「武藤のことを秘密にして、フェルミと縁を切れば、口とか、下とか、自由にしていいと」

「お望みとあらばお尻もいけますよ」

 その言葉に和久田の精神のきわめて肉体的な部分は、和久田に背を見せ後ろの穴でつながる武藤の姿を想像した。裸の腰と尻はひどく艶めかしく、一方で傷一つない磁器のように白かった。

「悪い話じゃないでしょう? だから、今からでもいいんです、しましょう。それで私の秘密も守られる、和久田さんも満足できる」

「それは……」

『何か望むことはあるか、自分にできることなら何でもする』といわれたところで、彼の願いの片方では武藤が何かする必要はまったくないし、もう片方にしたところで、彼女の自由意志は暴力に抵抗するという形以外では全然かかわってこない。体を求められたらそれを甘んじて受け入れるなんて、そんなようではてんでだめなのだ。

 いや、ならば、俺がすることに最後まで抵抗しろと命じればいいのではないか? そんな考えが頭に浮かんだが、和久田の十五年生き続けてきた精神がこれを即座に制した。もしかするとこいつは本当にそれを実行してしまうかもしれない。そうなったら、この怪物の抑えがきかなくなるかもしれない。自分がグロンギになるのは真っ平御免だ。

 和久田とて、女性の体は柔らかく心地いいものだと思うし、肉体に触れてみたいという欲求は持ち合わせている。こんな美人となんて願ったり叶ったりだ。しかしそれら性欲という生物として根源的な欲求すらも、コールタールのように粘ついた黒いもので塗りつぶされていくようだった。和久田の心に巣食う怪物が、獲物である武藤を前にして今すぐにでもこの女を犯し、殺したいと願っている。

 そんなことだけはしたくなかった。クウガに憧れ、二度挫折し、今ではすっかりその夢を諦めた和久田だが、それでも積極的に人を殺めるなんてことはできない……。

「少し、待ってくれないか。武藤」

 そう言うと、武藤は少し顔をしかめたように見えた。

「待つ?」

「どうこうしてほしいっていうのも、今すぐには決められないしさ。事情はわかったから、もちろん、武藤のことは誰にも言わない。今日話してもらったことも、秘密にする」

 話しながら、和久田はフェルミのことも思い出した。復讐に燃えているとはいえ、関係があるかもしれないというだけの理由で知り合いが殺されるのを、黙ってみているわけにもいかなかった。

「それに、フェルミのことについても、やっぱり今ここでっていうわけにもいかないし」

 そのとき、武藤の目付きが変わった。表情も一変した。期待が、いやもっと大きなものが裏切られたような、そんな顔になった。彼女は小さく、

「どうして……」

 と言った。そして一気に燃え上がった。

「どうしてすぐ決まらないんですか? 和久田さん、明日にも殺されるかもしれないんですよ? もしかしたら今この瞬間にもあのフェルミは和久田さんを殺しにやってくるかもしれない、それに《あぜ》と違って、今度は契約もなしに命を奪っていけるかもしれないじゃないですか。わかってないだけできっともう何十人も死んでる、殺してるんですよ、それだけの数の人間を、パルタイは。フェルミはその仲間だ、その近くにいるだけで危なすぎるはずでしょう、違いますか」

 男を前にして恥じらう気持ちはとうに消え失せていた。武藤は和久田の腕の肩に近いところをつかんで、意志の強い目をまっすぐ和久田に向けた。

「和久田さんが何も干渉しないでいてくれると約束していただければ、すぐにでも私はフェルミを殺しに行けます。和久田さんは死なずに済む、私にできることなら和久田さんの願いだってすぐに叶う、完璧じゃないですか!」

 和久田には武藤の主張を否定できるだけの根拠がある。当人の証言を信用するか否かで変わってしまうところではあるが、それでも確かにフェルミは和久田を殺しはしないと言ったし、和久田はその言葉を信じている。しかし同じことを武藤に伝えて彼女が信用することはないだろう。和久田はフェルミをおどけたところのある隣人として半ば見ているのに対し、武藤は人間を殺す化生として彼女を扱っているからだ。

「わかった、わかった武藤!」

 和久田は携帯電話を取り出し、LINEを起動すると、トーク画面を開いて右上端にある矢印をタップした。

「いきなり全部はさすがに無理だ。そりゃフェルミの正体というか、パルタイだっていうのは知ってるけど、あいつは俺にとってはクラスメイトでもあるし、お隣さんでもある。家が隣なんだ。兄とも両親とも親しくしてる。パルタイとしてじゃない、人間としてだ。武藤が殺しちまったらそりゃ仕方がないけど、それでも前触れなしにいきなり縁を切るっていうのは、できない。だけど、だからとりあえず、まずはLINEからでも切ろうと思う」

 通知のオンオフをはじめとする諸々のオプション機能が上からせり出してくる。和久田は右端にある「ブロック」のアイコンを押した。ついでにトーク履歴と、フェルミが勝手に登録していた電話番号も削除する。

「とりあえずこれだけだ。でもツイッターでフォローされてはないし、これで大方の連絡手段は消える」

 武藤はまだ不満そうな顔をしていたが、自分の言っていることに多少の無理があることも承知しているようで、

「じゃあ、私はこのお返しに何をしましょうか」

 と言った。和久田は言った。

「踏んでほしいんだ」

「え?」

「背中を、踏んでほしいんだ。おれが四つん這いになるから、足で背中の真ん中を、思いっきり」

 武藤は最初意外そうな顔をしていた。きょとんとしているといってもよかった。しかし和久田がふざけていると思ったのか、「構いませんけど」と言った顔にはしわが寄り始めていた。

 和久田はその場に腰を下ろして四つん這いになり、武藤に自分の背を曝した。姿勢としては土下座が一番近い。

「ごめん。誰にも言ってこなかったけど、おれMでさ、武藤みたいな美人に踏みつけられたいって、ずっと思ってたんだ。背中のど真ん中、素足じゃなくていいんだ、靴下履いたままでいい、思いっきり踏んでくれないか」

 武藤はその様子を見て、しばらくは何も言わなかった。何も言えないのかもしれない。何の反応もないのをみて、和久田はもう一度、いかにも自らの背を踏まれたくて待ち遠しくなっているかのような感じを出すよう意識して言った。

「お願いだ武藤、この通りだから」

 和久田が額を床にすり付けると、いちおうは納得がいったのか、一歩前に出て片足を上げた。床を見ている和久田からはその様子は想像するよりほかないが、足裏を背の中央に置いて、徐々に体重をかけていくのがわかる。厚手の靴下に包まれた小さな足裏からそう重くない彼女の体重が被覆越しに背に伝わっていくことが意外にもとても心地よく、また心を満たされる思いがして、改めて自分はおかしくなっていると実感した。

「どうですか、和久田さん」

「もっと強くていい、もう思いっきり」

 思索こそすれ口は達者だった。声に応じて背骨に乗った足がかける圧迫が強くなっていく。その背骨の内を何かぞくぞくとしたものが通り過ぎるのだ。しばらくして武藤が足を離したとき、踏まれる間に顔を少し上げれば彼女の白い腿やスカートの内側を見ることができたかもしれないことに気付いて、少し残念に思った。

「本当にこんなのでいいんですか」

 やはり納得しきれないようで、武藤がそう聞いた。

「いいよ、十分だ。ありがとう」

 不信を込めた目で和久田を見ていたが、それでも、しばらくすると半ば諦めがついたような顔をした。

 和久田は一人で武藤家を後にした。

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