彼にとって第二の英雄であるその人物について、和久田は結局断片的な事柄しか知ることができなかった。小学校の学区は別だったこと、一方で本人曰く家自体は和久田のよく遊んでいた公園から「歩いて帰れる距離にある」こと、両の瞳はきれいな黄金色をしていること。和久田の知らないことを多く知っていたこと。それから、天道という名を持っていること。姓名のどちらなのか、彼は最後まで明らかにしなかった。天道でいいよ、とだけ言っていた。多分、名だったんだろう。

 小学生の時のことである。十歳だった和久田のクラスには一人、ガキ大将的な地位にある少年がいた。角刈りを少し伸ばしたような髪型で、ちょうど相撲取りのような大きな体をしており、腕っぷしはめっぽう強い。男子の中心的な存在だったのだから、もちろん単に粗暴なだけではなかったが、ある時、暇さえあれば本を読んでいるような一人を狙って、彼を暴力の対象にするようになった。

 当時の和久田はまさに英雄クウガに心酔していた頃合いで、彼とその友人たち……同時に和久田にとっても友人ではあったのだが……による一方的な暴力には我慢がならず、自分一人でもと抵抗を試みた。しかし、数において圧倒的優位は相手方にある。何度やっても手も足も出ずに、和久田もまたもう一人と共に弄ばれる羽目になった。期間がそう長くないこともあって実感はわかないが、いわゆるいじめられっ子だったのだろう。

 天道が二人を助けたのは、ちょうどそんな頃合いである。和久田が彼に出会ったその日、和久田は学校にほど近い公園を流れる二ヶ領用水の一角に投げ込まれそうになっていた。大勢を相手に殴り合いへとへとになった和久田は両手と両脚をそれぞれ一人に掴まれて、もはや一切抵抗できそうにもなかった。

 しかし、和久田よりも早く、和久田の脚を掴んでいた方が水に落ちた。和久田は尻餅をつき落ちた一人の道連れとなり靴をびしょ濡れにする羽目になったが、それ以外に被害はない。改めて周囲を見ると、和久田以外の全員の視線が一人に集中していた。足を岸に上げた和久田もその人物を見た。誰も和久田を邪魔する者はなかった。人一人水路に転落させた少年の、濡羽色の髪と黄金色の瞳が、和久田に強く印象を残した。

 振り返ってみれば、もしかすると、彼は柔道の類いを使っていたのかもしれない――少年、天道は、徹底して後手に回りながら、あれよあれよという間にその場にいた七人中五人を打ち負かしてしまった。

 残るは二人。黄金色の目をしたその少年がいくら強いといっても、大勢を相手に一人で立ちまわるのにはどうしても限界というものがある。反撃は足元から始まった。倒れていた一人が少年の足を掴み、彼はその場に釘付けにされてしまう。未だ立っていたもう一人も少年を後ろから押さえつけ、そこに例のガキ大将の拳が迫る――蚊帳の外で動けなくなっていた和久田の体が、ようやくいうことを聞いた。弾かれたように跳んだ和久田の体が例の巨体に真横から突っ込み、転倒せしめたのだ。誰も和久田ではなく、突然現れたその少年に意識を向けていたからこそ成功した攻撃だった。

 和久田が馬乗りになって殴り合っている間に、少年は自らを拘束していた最後の一人を引き剥がし、その辺で転がっている連中の仲間にしてしまった。やがて殴り合いが終わり、七人がほうほうの体で逃げ帰っていき、残った二人は何を言うともなく目を合わせた。

 ――名前、なんていうの?

 ――君は。

 ――和久田徹。

 ――天道って呼んでよ。


 翌朝、和久田は家を七時に出て、二十分を過ぎた辺りで昇降口に到達した。フェルミはいない……あくまでも和久田一人でいる必要があると判断した。

 昨日の別れ際、和久田家の隣のアパートの前でフェルミが言っていたことを思い出す。

「どうやら彼女、パルタイやディングに反応するレーダーを持ってるみたいなんですよねえ。半径は二百メートルありませんけど、五十メートルは下らないくらいの奴が」

 翌朝、つい先ほどにも和久田は家の前で彼女に鉢合わせたが、ついて来ようとするフェルミを制止し、和久田は一人で登校した。もしも今フェルミと武藤が会ったら何が起こるか知れたものではない。自棄を起こした武藤が校舎内で昨日の続きを始めるかもしれないのだ。

 結局フェルミが折れて、居室であるアパートの一室に帰っていったが、その間際にこんな会話があった。

 ――腕とか生えてきてたけど、あれには結構《意志》を消費するのか??

 ――いえ、一つだけです。ばらばらに切り刻まれたあの一撃でごっそり持っていかれました。一気に四つですよ? こんなに一気に減ることなんてありませんから、肩の数字の切り替わりも処理落ちしてペースが落ちてたみたいですけど。オーバーキルってやつですよ。

 あの爪に貫かれたゼンダーも瞬時に壊れてしまった。詳しいことはわからないが、少なくともパルタイやその周りの物品にとって極めて危険な武器を武藤が有しているらしいことは確かだった。翻って、その力は和久田にも牙を剥きかねないことにもまた注意する必要がある。パルタイを維持するものが人間の《力への意志》であり、その《意志》を枯渇させうる力は、人間の中にある《意志》に効果を及ぼすとしても不自然ではない。

 七時半前の学校にはまばらに運動部員が活動していた。陸上部が校舎の周りを走っている。野球部は正門や敷地の掃除をしている。昇降口にたどり着いたとき、幸運にも、和久田以外には誰もいなかった。和久田は制服のポケットから二つ折りにされたメモを取り出す。

『昼休み、体育館裏に来てほしい 一年C組 和久田徹』

 武藤の下駄箱の前に立った和久田は、改めて周囲を確認した。誰も見ている者はいないか。何より武藤は来ていないだろうか。意を決して金属扉を開けると、足を覆うカンバス地を真っ白に保った小さな内履きが爪先を奥にして収められている。がらんどうの中に靴が一足置かれているだけなのに、その有様はまさに整然という観念の見本のようだった。

 その上に折り畳まれたメモ用紙を乗せる。緊張で指を震わせながら、目につく場所、両方の履き口の間に、慎重に慎重に、メモを置く。

 和久田は大きく息を吐いた。終わってしまえばどうということはない作業だ。開け放っていた金属扉に手をかけるが、外から足音が聞こえてきた。慌てて力いっぱい扉を閉める。

 こんな朝早くに誰だろう。陸上部員から聞いた話では武藤は七時四十分を過ぎた辺りで登校してくるはずで、まだ十分以上の余裕はあるはずなのだが。しかしその「はず」は今日ばかりは当たらなかった。下駄箱を離れようと一二歩進みつつ視線を向けた先にいた影を捉えて、和久田の足はその場に釘付けになった。

 朝の昇降口は照明が点いているわけでもなく薄暗い。入り口に立っている背の低い影は外の日の光と内の薄暗さの対比で後光を背負っているかのように見えた。丹念に手入れされたローファーがつやつやと光を反射する。黒い髪はいっそう黒く、きめ細かな白い肌は暗がりでなお白さを留めてそこにあり、立ち姿の美しさのあまり足を止める者が現れることは間違いないことだろうと思われた。しかしこの場においては、今までの自身の行動を彼女に見られていたというのが重要だった。武藤もまた普段より早くに登校し何かアクションを起こそうとしていたのだ。

 武藤はまっすぐ和久田を見据えている。そんな風に真正面から彼女が和久田を見たのは、それが初めてのことだった。そして、迷うことなくまっすぐ和久田の方へ進んでくる。校舎の内側扱いになる、土足禁止の、一段高くなっている箇所の手前まで和久田を追いつめ、目と鼻の先ほどの距離まで近付いて、上目遣いに睨み付けるような目をして、武藤は囁くような声で問うた。

「今私の下駄箱の前で何をしていましたか」

 ひどく早口だ。二人の背丈はほとんど同じなのだが、武藤はわずかに顎を引き、なお和久田に詰め寄った。

「ちょっと、伝言を書いた紙を」

「内容は」

「昼休みに体育館裏に来てほしい」

「私も同じことを考えていました」

 武藤はポケットをまさぐり折り畳まれた紙を取り出したが、その手がぴたりと止まった。

「今日、私の家に来てください」

 その日フェルミは始業の時刻になっても登校せず、風邪で休むという連絡があったと担任から伝えられた。

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