授業が終わると武藤は和久田の腕を引っ張り教室を出て、まっすぐ昇降口まで向かう。途中からは手と手をとる形になった。武藤が大股で歩くのに合わせて、二三歩後ろを和久田がついていく。流石に左右に並んで歩けるほど彼の心臓は強くはなかった。

 体育館裏を含めた校舎及び体育館周りは、朝の時間には陸上部員のランニングのコースで、朝早くに登校する生徒の一部は校舎から見て体育館の反対側にある北門から敷地に入り、体育館裏を通って東の昇降口にたどり着く。校舎内にしても完璧な死角の確保は難しい。今朝二人が昇降口でああして顔を突き合わせていながら本題に入らなかったのは、秘匿のための条件が十分ではないと判断したからだった。

 しかしそれにしても、まさかいきなり武藤の家に行く羽目になるとは。

 靴を履き替え、昇降口を出てもなお、武藤は変わらず和久田の手を握ったまま先を歩いた。いや、無論靴を履き替えるときだけは互いに手を離したが。あの武藤の白い手に触れているという幸福感、同時に湧いてくる下卑た劣情、いまだ薄れることのない手甲が有する爪への恐怖がないまぜになって、西の住宅街を通る、速足にして十分足らずの道のりや、武藤家の外観のことはまるで覚えていなかった。

 両親が共働きという武藤家の内部は、この時間は照明が落されて薄暗い。靴を脱いだ和久田は武藤の自室だという部屋に案内された。入り口を底辺の右端とすると左上方向に広がりを持つ縦長の部屋で、正面奥には整頓された学習机が、その左にはこじんまりとしたベッドがあり、その手前にはめいっぱい詰め込まれた天井まで届く本棚と、ベッドの向かいにあたる位置にはこじんまりとした衣装ケースが配置されている。学習机に備え付けの椅子は部屋の入口の方に正面を向けられ、それに斜めに向き合う形で黒い曲線的なシルエットの椅子があった。

 和久田は黒い椅子に腰かけ部屋を見渡す。学習机とフローリングの床を除いて木製のものは見受けられず、枕元の緑の目覚まし時計以外はこれといって鮮やかな色も目立たない部屋だった。壁は白く、北欧の編み物を思わせる模様の掛布団が低いベッドにきれいに掛けられている。しわ一つない。

 武藤が麦茶のポットと陶器のコップ、マシュマロの入ったお盆を持って入ってきた。机の下に入った引き出しを引っ張り出して、その上に一通りを置く。薦められたので麦茶を一口、マシュマロを一つ口に入れた和久田だが、まるで違うものを飲み食いしているような気がしてならなかった。武藤が注いだものが麦茶だとわかったのはその液体を口に含んだときのことである。

 そもそも、なぜマシュマロなのだろう? 噛みながら考えて、あのぴかぴかに磨かれた革靴をはじめとした普段の身だしなみや整頓された机のことが頭に浮かんだ。なるほど、おかきやクッキーは欠片が出るし、チョコレートは体温ですぐ溶けてしまう。たいていのマシュマロの表面についている粉は、盆の上にのったものには見受けられなかった。

「武藤」

「フェルミ瑠美」

 軽く目を伏せたままかぶせるように言ったその言葉に、和久田は自分の心臓を掴まれたような心地がした。

「今日、休みでしたね。彼女」

 じわじわと首を絞められる、暗闇で遠くから水音と共にひたひたと足音が聞こえる。その手の恐怖があった。武藤の声はひどく低く、また冷たく、何よりも彼女の腹の内には底冷えするような怒りや怨嗟があった。そういう声を彼女は発したのだ。ばれている。今や武藤は確実にフェルミ瑠美が《パルタイ》フェルミであると気付いている!

「やっぱりあれは《パルタイ》なわけですか」

「待て、待て武藤!」

 和久田は椅子から立ち上がった。前に出るわけでもなくただその場で立ち上がっただけなので、座っていた椅子が後ろに押しやられて床との摩擦で大きな音を立てた。

「お前、それでどうするつもりだ! だからつまり、仮にフェルミがパルタイだとして、武藤はあいつをどうしようと」

「殺しますよ。最終的には」

 和久田の喉がひきつる。殺す――殺すだって? 彼女は一切迷うことなくそう言った。殺す、と。

 改めて和久田は確信する。あの《白いパルタイ》は武藤だ。一度投げ飛ばされ、無傷で立ち上がった時に赤い眼球越しに見せたあの憎悪も憤怒も敵意も、すべてこの少女の身の内にあるものだった。

「正気か?」

 目の前の女子を犯したい、殺したいと思っているのは自分なのに、ひどい棚上げだ。つい昨日も家に帰ってから、組み敷かれた彼女の様子、切迫した表情が頭から離れずに、一度……。

 いや、それは和久田自身が望んでいることとは少し違う。違うはずだ。違うにきまっている。和久田はただ武藤の前に跪き、彼女の存在を感じているだけで十分心が満たされた。それだけで十分なのだ。暴力的な手段に出る必要性は少しもない。それなのになぜこんなことを望んでしまうのだろう? この胸の内に潜む怪物は、どうして和久田にのりうつったのだろうか。

「正気には見えないかもしれませんけど、少なくとも本気ではあります。最終的には殺す、といったところですが、多分すぐに殺すことになるでしょう」

 和久田は反駁しようとしたが、口が無意味に動くだけで声は出なかった。知らないかもしれませんが、と前置きして、武藤が畳みかける。

「パルタイは人間を殺しますよ」

 いや、知っている。彼らが人間の魂、《生命への意志》、ヒトの形を保ち生き続けんとする意志を糧に生きていることを、和久田はフェルミを通じ知っている。そして恐らくは、合わせて何十人もの人間を殺しているだろうことも。

「和久田さん、このままではフェルミは……パルタイは、きっとあなたを殺すと言っているんです」

 武藤も立ち上がった。そして右手を持ち上げ、和久田の首を掴むように指を這わせ、黒い手甲を展開した。いや、手甲が展開され、武藤の姿が昨夜の黒兎に変じてはじめて、和久田はその変化に気付いたのだ。内側に備えられた爪はぎりぎり皮膚に触れないように指は浮かせられていたが、武藤が拳を作る動きをすれば、その途端に和久田の首は四分五裂に引き裂かれるだろう。仮にこの爪が《生命への意志》を刈り取りうるとするなら、まだ人間の中にある《意志》をどうこうできないとどうして言いきれる?

「こうするよりも簡単に《超常》は人間を殺せますよ。刃物も鈍器も使わない、体に傷一つ付けずに、けれど魂を抜いていくかのように不可逆に……」

 脂汗が背中や腋をだらだらと流れ落ちる。

 しかし、それだけだった。手甲を収めて黒兎の姿のまま席に着くと、引き出しから写真を一葉取り出す。和久田も座りなおして写真に目を落した。

 薄手のビニールに包まれており、背景は薄暗い。緑色のカーテンを背に、鈍い青色のブラウスを着て、綿のような真っ白の髪をした少女が映っている。その瞳は単純に赤というだけでは説明しつくせない奇妙な色をしており、注意深く見てみれば睫毛まで白い。その少女が、緊張気味の笑顔を浮かべている。

 目の前にいる黒兎の姿と似ていると思った。武藤によく似ている。しかし、違う。武藤の肌は新雪にも劣らぬ白、対して写真の中の少女の肌は全体がわずかに赤みがかっていた。まるで、と和久田は思った。

「似ているでしょう」

 と武藤が言う。

「和久田さん、色白な人はメラニンが少ないですが、ではメラニンがないとどうなると思いますか?」

 もっと白くなるだろう、とは答えられなかった。和久田は写真に写る少女の顔色を見て、まるで血管が透けているみたいじゃないか、と確かに思ったのである。

「血管が見えて、赤くなる?」

 頷く。

「私も見ての通り肌は真っ白ですが、これでもメラニンはあるんです。逆に色素があるからこそ体内の色が透けずに白く見える。肌や髪が一切の色素を持たない場合、人間の肌は透明になりますから、血管や筋肉の色が見えて、逆に白くは見えなくなるわけです。この写真のように。これは遺伝性のもので、病気とも障害とも言えません。絶対に治療できないからです。メラニン不足で紫外線への耐性が低い肌も、サングラスをかけないことには外を出歩くたびに傷めてしまう目も、何か不調があるというわけではなく、そういうふうになるとすでに決定づけられて作られている」

 武藤は黒兎の姿から、元の制服姿に戻る。髪も睫毛も黒い。目は……改めて覗いてみると、やはりその色は鼈甲に浮かぶ斑を思わせる深い褐色だった。

 和久田は写真の中の少女を指さして言った。

「これは」

「私です。中学二年の冬、去年まで、私はそうでした」

 武藤は写真をしまい、まっすぐ和久田を見た。和久田も武藤の顔を見て、もしも睫毛が白かったらこうも美しくは見えなかっただろうなと思った。

「《超常》は簡単に人を殺せるんですよ、和久田さん。誰かが願えば、人間の体を作り変えることだって簡単にできるんです。私みたいに」

 超常、と彼女は呼んだ。やはり武藤はパルタイ以外の何かを知っているのだ。そして誰かが望んだことによって今の姿を得て、しかしどういうわけか、日常生活を送れる今の体に自らを変えた超常を憎んでいる。

「今日はそのことを話すために和久田さんを呼んだんです。《超常》がいかに人を殺すのか、それがどれだけ惨たらしいことか」

「その《超常》ってのは」和久田が言った。「名前はあるのか。パルタイとか、そういうの」

「最初ネットで名前が出た時には色々ありましたが」と武藤。「本人は、自分のことを《あぜ》と呼んでいました」

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