五
投げ飛ばされた白いパルタイは、なす術なく顔からアスファルトの道路に突っ込む。自らも背中から倒れながら兎耳を視界に収めていた和久田は、彼が完全な前のめりの軌道を描いていることを確認した。顔を守るには両手を先に着くよりほかないが、人間ならほぼ確実に鎖骨を折る勢いである、パルタイといえどもまさか無傷ではすむまい。
彼の第三の誤謬――《パルタイ》はじめ「彼ら」の、いうなれば「非―普通さ」を甘く見ていたこと。
有り体に言えば和久田が見たのは、顔から地面にぶつかる寸前で百八十度回転し片膝をついて静かに着地する白いパルタイの姿だった。
まるで映画のコマの一部を抜き取り前後を強引につないだような動き。背を向けて着地したパルタイが立ち上がり、こちらを向いた。手甲の色彩がいっそう鋭さを増した。夜の闇と同じ色をした黒い礼服の裾と淡く白銀に輝く長い髪が風に吹かれてわずかに揺れて、それからあの赤い目が、殺意のみならずその身の内にあるあらゆる憎悪と憤怒と敵意とを掻き集めたように赤々と燃え盛った目が研ぎ澄まされた鋭さでもって和久田を睨みつけた。
さながら蛇に睨まれた蛙のようでもある。しかし和久田は即座に立ち上がって体勢を整えた。フェルミから貸与されたこの《ディング》はこの兎耳に対しても十分に有効、それさえわかれば十分だ。今や和久田の全身には力が漲っていた。
兎耳の手甲が二三度消えては表れてを繰り返すと、指を覆い、腹に鋭い刃を持つ黒い爪が、彼の指の三倍四倍の長さに伸長した。今度は大げさに跳びはしない。低く構えたまま弾丸のごとく突っ込んで、和久田の両手を爪がかすめる。そのパルタイの手首を和久田は狙った。
投げたとしてもあの奇妙な体術でもって無効化されてしまう。体術? 果たしてそうだろうか、そう片付けるにはあまりに奇怪な動きではなかったか……しかしこのときの和久田は半分くらいはそう思っていた。
ともかく、投げ技が有効でないならば、手首を抑えたままねじ倒してしまえばいい。
気分はほとんどあの英雄・クウガだった。彼も、不完全だったものの、最初に変身した時には、蜘蛛のグロンギから身を守るためもあって拳を振るっていたのだ。和久田の頭上から聞きなれた声が聞こえてきたのは、双方が互いの腕をとろうとつかず離れずしていたところだった。
「ライダァー――――」
まっすぐこちらめがけて飛んでくるその影は、童女の姿をしており、白くか細い脚は膝から黒く変色して骨格も異様に変じ、偶蹄目の蹄を備え、翼は普段から背負っている肩紐付きの箱から飛び出している。右脚は伸ばし、左脚は腹に着くほど折り畳まんばかりに曲げ、青い翼を広げて一直線に飛びながら、その蹄はまっすぐ白いパルタイの後頭部を狙っていた。
声を聞き視界の端に青い光をみとめた和久田はほんの少し油断した。味方であるフェルミが来てくれた、よかった、と安堵したのだ。その隙が白いパルタイに背後の気配に反応させる時間を作った。彼の動きが、一瞬、ぴたりと止まった。
「キィィィー――――ッ!」
血の色の瞳が音もなく後ろを向いたとき、甲高い金属音がして、フェルミの動きがわずかに右に逸らされた。
ゆらりと振り上げられた右の手甲が瞬くように消え、また現れると、刃を持った爪は白い指の優に十倍はあろうかという長さに変じていた。そのまま前方に爪が振るわれると、彼女の体は青い血をまき散らして地面に叩きつけられた。
内股から肩まで一直線に切断された右半身は更に右腕を肘を境に両断され、左腕と翼の片方は根元から斬られ、畳まれていた左脚は斜めに輪切りにされて散り散りになって落ちた。バケツ一杯のペンキをぶちまけたような量の青く光る液がアスファルトや白いパルタイにかかる。和久田のズボンにもいくらかひっかかった。血だろうか、これは。ライダーキック、と叫びながら飛んできた口からは勢いをまったく衰えさせないままに悲鳴のような声が迸ったが、これはどこか滑稽な色のあるものだった。ほとんど胴体だけになったフェルミは和久田の足元の地面にぶつかり、バウンドするような動きでさらに後方へととんでいった。
すべてが終わってようやく事態に気付くほど、白いパルタイの一連の動作はあまりにも滑らかだった。和久田は自分のあの黒い爪への恐怖心が決して過大評価でないことを確かめた。あの爪は触れたそばから、一切の抵抗なしに、フェルミの体を溶けかかったバターのように切り刻んだのだ。
他方で彼はフェルミを制止できなかった自分を恥じた。無論彼女が以前に白いパルタイと交戦していたらしいという噂話が真実だとすれば、あの不可視のバリアについて知っていてもおかしくはなかっただろう。このときの和久田はその噂を思い出すことはなかったが、事実として白いパルタイに突撃し、バリアによって攻撃を逸らされ返り討ちにあっている以上は、彼女は白いパルタイと何らかの接点を持ってはおらず、バリアについても知らなかったに相違ないと、和久田は判断した。自分が伝えられていれば、こんなことにはならなかった。
もしも彼女の左肩の数字が「残機数」だとすれば、少なくとも今この場ですぐ命が危険にさらされることはあるまい。ちらりと見えた数字は「11」とあった。だが一方で、回復するまでの間、その時間を和久田一人で稼がなければならない。
白いパルタイは右腕を振り抜き、和久田の後方に跳ねていった胴体を狙ってちょうどこちらへ振り返ったところで、その目付きは彼の意識がフェルミにのみ向けられていることが傍目にもよくわかるほどだった。血の色に光った瞳はわき目もふらずただ血まみれになって傷口から腕や脚を再生しつつあったフェルミの胴体にのみ向けられている。まるでフェルミが親の仇でもあるかのような風情で、いってしまえば隙だらけだった。そしてその隙が和久田に優位にはたらくことになった。
和久田は振り返ったパルタイの背中側から、すなわち右側から、その背後に回り込んだ。白いパルタイとしては、前方にいた和久田がどくことで視界が開けることになる。あくまでも視界が開けた、より正確には視界の端にあった何かが動いたというだけであって、和久田が自らの後ろに回り込んできたというところまでは頭が回らなかった。それほどまでに白いパルタイはフェルミに集中しており、そのパルタイの腹に両手を、右手は右腕を巻き込む形でまわした和久田は、柔道の受け身のような形で倒れ込み、そのまま横に転がった。
投げないまでも後ろに倒れてはいけない、おそらく白いパルタイに傷を負わせるような何ものかを反射的に防ぐ類いの能力があるのだろうから。しかし倒れ込むとき和久田が先になって衝撃を受ければ、あの奇妙な能力に邪魔されることもあるまい。
倒れた二人は右側を地面につけて、おおむね横を向いていた。白いパルタイは自由な左腕と両脚を使って和久田を引きはがそうとするが、ばたつかせるだけで成果は上がりそうにない。
寝転がったまま起き上がらせないようにするというのは、引っ張ったり投げたりといった直線的な動きに対していささかディングの力の使い方も難しいものの、機能はしているようだった。右腕を押さえつつ腹に回された右手の甲では青い光が煌々と輝いており、左の上腕を掴んでいる左手も動きをしっかりと封じ込めていた。手甲に備わった爪という強力な武器を持っているせいもあってか、白いパルタイはこうした、至近距離で拳を交えるような事柄には不得手であるようだった。そして腹周りの輪郭から察するに、どうも、女子であるらしい。
じたばたと暴れる両脚も、こちらの脚を絡めてしまえばどうということはない。両腕両脚を封じたことを確認して、横たわったままのフェルミの名を呼んだ。
「フェルミ! 大丈夫か」
「ええなんとか」
見てみれば、胴体だけのような状態だった体はほとんど再生していた。四肢の先以外はほとんど元の肌色を取り戻しており、服までも元通りになっている。左肩にでかでかと浮かんだ数字は「6」……。
白いパルタイが左の手甲を瞬かせ、数十倍にまで伸びた爪を手首だけで振るった。フェルミがとっさに翼を展開し飛び上がらなければ再びばらばらにされている軌道である。しばらくフェルミは上空を円を描いて飛んでいたが、和久田が改めて押さえつけたことを確認して、二人の前に着地した。手足足先も元通りになっている。
「腕じゃなくて手首押さえないとだめじゃないですか」
二人を、とくに白いパルタイを見下ろすフェルミは、下品ともいえるほど、にやにやと笑っていた。和久田に白いパルタイの右手を押さえておくよう命じて、頭に生えた一対の兎耳をつかみ、持ち上げる。
「兎の耳、やたらとよく跳ぶ足に、その恰好。それから胸のワッペンは金の時計ですか? アリスの白兎、ってわけですかねえ。いや、このなりだと黒兎ですか」
脚も爪も封じられているので何もできない、まさしく手も足も出ないという状態の白いパルタイだったが、目だけはまだ死んでいなかった。血の色に染まった目は、混じりけのない敵意に燃えている……しかし一方で、その瞳の内に恐れの色が交じっているのも事実だった。フェルミを相手に虚勢を張っているのではない、もっと別の、臓腑を細い糸で縛り上げられるような感覚を伴う恐怖である。
「あなたこれまで一度も喋ってませんけど、いったい何が目的で私とか、ドミトリとかを付け狙うんですかね。教えてくださいよ」
白いパルタイは、やはり、何も言わない。
「フェルミ、お前、こいつが誰だかとか、知ってるのか」
「知りませんよ。だから今聞いたんでしょ、何が目的かとか」
「ああ、そうか。そうだな」
白いパルタイはまだ何も言わない。マスクで鼻から下は見えないが、きっと唇を真一文字に引き結んでいるか歯を剥いて軋ませているかどちらかだろうと思われた。
「ただわかったことならありますよ。こいつは人間です。まさかこういう手合いがいるだなんて思ってませんでしたからびっくりしましたけどね」
「人間?」
「パルタイには人間を殺すことができないというルールがあるんですよ。さっきの私の蹴りがもし決まっていたら、こいつがもしパルタイだったなら、きっとこの兎は首やら頭蓋やらを折って、死んでいたとはいかないまでも傷を負っていたでしょう。しかしそうはならなかった、蹴りが当たる直前になって、パルタイを縛るレーゲルによってそれが妨害されたわけです」
それから言葉を切って、間をあけると、
「とりあえず顔だけでも見てみますか」
と言った。
「マスクからでも剥いちゃいましょう。野球拳みたいに一枚一枚剥いて、裸にして、あとはワクタさんお願いします」
そう言いながらフェルミは白いパルタイのマスクの紐に手をかけた。声に促されるように和久田も白いパルタイの顔を見ると、目と目が合った。なす術なく地面に転がっているだけの、血の色の瞳が、初めてまっすぐ和久田の目をとらえた。
すると、これまで和久田が「目が合った」と思っていた時にも、彼女はずっと和久田の目ではなくほかの場所、おそらくはディングをみていたのだ。そう確信できるほど、ここで彼女は紛うことなく和久田の瞳をこそ見つめていた。和久田の目はその瞳にすっかり吸い寄せられてしまった。赤い瞳には不思議とどこか懇願するような色があった。怯えるにしても、その怯え方が並一通りでないように見えたのだ。
いや、なにも自分には乱暴しようという気はさらさらないのだ。一度はそう心の中で弁明した和久田だが、どうもそういうことではないらしいと思い直す。
フェルミはこの白いパルタイを人間だと言っていた。それはフェルミがこのパルタイのバリアを知らないからそう断言できることなのだろう。しかし、そう言われたとき真っ先に頭をよぎったのは、このパルタイと同じように白い肌を持つあの武藤のことだった。
紐がかけられているはずの頭部の横にある彼女の耳は耳あてのようなもので覆われているので、マスクを取るには紐を引きちぎるしかない。一方で、なんら特別な品ではない、どこにでもある市販品のマスクであるから、少し強く引っ張れば簡単に紐は切れた。耳あてに巻き込まれた紐は――奇妙なことに、紐がヘッドホンの耳あて部分から突き出しているような様を呈していた――その状態で固定されているらしい。
紐が切られる間に白いパルタイの視線は和久田の目から、反対の側から、あらぬ方向からと、次々に変わっていく。その様を、フェルミはさも楽しそうににこにこ笑いながら、和久田はじっと、はじめに彼女と目を合わせた時の顔のまま、それぞれ見つめていた。
白いパルタイは震えながら、ずっと迷っているようだった。フェルミは両方の紐を四本とも引きちぎり終えると、――まだ取り払ってはいない――丁寧なことに一度それを顔に沿わせて押し付けた。
「さ、ワクタさん。御開帳ですよ」
えい、と軽い掛け声と共に、フェルミは一気にマスクを取り払った。その一瞬前、視線を泳がせていた白いパルタイが、ふたたびあの懇願するような目つきで和久田を見た。何を意図していたのか和久田には分らない、しかし向けられたその視線は、和久田の視線を彼女の顔に誘い込む効果を持っていた。和久田はわずかに斜め後ろからの視線で、マスクの下の彼女の顔を見据えた。
鼻筋は職人が鉋で削り出したかの如く滑らか。白くきめ細かい肌と相まって日本人形のような印象さえ受けるが、輪郭の直線はあくまで鋭く、男性的なものさえ感じさせる。ただ一点血の気を失った薄い唇だけが彼女の珠のような美しさに疵をつけているように思われた。そして和久田は目の前で自分が押さえつけているこの人物が誰なのか思い至り、慄然とした。
正面から見ていたら気付かなかった。この人物のこのような角度からの姿を、和久田は飽きることなく週に五日間は毎日、この二週間以上に渡って密かに見つめ続けてきたからこそ、和久田はこの白いパルタイとあの人物とを結びつけることができた。
気付いた途端に、白いパルタイ……いや、もう和久田にとってはパルタイとさえ呼べない……とかく彼女の赤い目にも気付きの色が宿る。胃に氷を詰め込まれた心地がして、和久田はいましめていた両腕を解いて後ろにとびすさった。ふらふらになりながら二三歩後ろに下がりながら、彼には、自分のしてしまったことが天に唾するような大罪であるかのような感じがした。こともあろうに「彼女」を、一度は投げ飛ばし、あまつさえ地面に転がして、つい今さっきまであんなにも無遠慮にべたべたと触ってしまっていたなんて!
彼は唾棄すべき後ろ暗い欲望を抱えていながら、一方でこの少女を崇拝さえしている。だからこそ自らの倒錯に戸惑っているし、今こうして異様なほどの罪悪感に苦しんでいるのだ。
戒めを解かれた白いパルタイを前にして、フェルミは、うわ、とかぎゃっ、とか悲鳴を上げ、背中の箱から翼を展開し、一気に飛び上がった。しかし立ち上がった白いパルタイは、もはやフェルミを追ったりはしない。和久田の気付きを知った彼女もまた、秘密を感知された事実に打ち震え、半ば茫然としていた。そしてフェルミには目もくれず、震える眼差しを和久田に向けたまま、やがてどこかへと跳んでいき、消えた。
宙に浮かぶフェルミも、マスクの下の顔には覚えがないではなかった。しかし、まさかそんなことがあるのか。信じられなかったし、何より和久田が急に兎耳のあの人間を解放してしまったため慌てて飛び上がって、思考はうやむやになっていた。しかし和久田の豹変ぶり、あれはもう普通じゃない。うっかり暖炉に聖書をくべてしまった敬虔なカトリック教徒のような、つまるところ何か大きな罰を心底恐れているかのような、この二十一世紀の日本で半生を過ごしてきた一般的な日本人としてはあまりにも大げさな怯えよう。
降りてきたフェルミは既に大方のことは察していた。口の端をひくつかせ苦笑いを作って、問う。
「まさか、マジに『彼女』なんですか?」
彼は無言で頷いた。和久田は向き直り、食いつかんばかりに迫って叫ぶ。
「何なんだフェルミ、パルタイとかディングとかレーゲルとか、あいつとか! ――聞く権利くらいあるだろ、今お前が知ってること、全部」
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