四
夜に人が出歩くということがあまりない地区のようで、一城高校を囲う住宅街には街灯もまばらで、街道から離れていることもあって夜の闇がほかよりも濃いように感じられた。夜の黒と対照的な白い街灯の光の周りには指先ほどの大きさの蛾が飛び交っている。
わずかに甘さを感じる夜の空気を吸いながら、和久田は一歩一歩跳ぶような足取りで異様な気配の出所を探して走っていた。右手にゼンダーを、左手にモンスターエナジーの空き瓶を携えている。後者はいざという時のためにと持ってきたせめてもの武器であった。降りた自転車は高校の塀に立てかけてあった。その身一つのほうが小回りが利くし、せっかく入学祝いでプレゼントされたマウンテンバイクが何かあって壊れてしまうのは嫌だったのだ。
この時点で和久田が犯していた誤謬が二つある。一つは自転車を降りてしまったこと。彼がもし自転車を降りずにそのままこぎ続けていれば、もしかすると、ここから先の領域に踏み込むことはなかったかもしれない。もう一つはパルタイというものに対して、フェルミのようなケースしか想定していなかったこと。すなわち彼は人間の魂を集めるともいわれる一団に対して、人の家に勝手に上がり込んでその一家といつの間にか仲良くなっている、まるでぬらりひょんのような女子以外のイメージを、まったく持ち合わせていなかったのである。人間の魂を奪う――そのような物騒な一団の中に、たとえば和久田がよく知るあのグロンギの怪人たちのようなものがいないとどうして断言できるだろう? あるいは《超人》などはなから眼中になく、人間を殺すこと自体を喜ぶような、あのダグバのようなものだって、いないとは限らないのだ。彼らパルタイが人間の価値観の埒外にあることは和久田だって把握していたはずなのに、そこまでは考えが至らなかった。
道を歩いていくにつれ気配が強まっていく。向こうも向こうでこちらに気付いて近寄ってきているらしい。フェルミかもしれないし、あの兎の耳をはやした白いパルタイかもしれない。ただフェルミだとしたら、彼女を家まで送り届けたかった。何かゆえあって《変化》しているのだろうけれど、パルタイは無関係と思しき人間がいる前でも平然と《変化》するものだろうか。あの「異常さ」は目立つし、フェルミが特殊なだけで多分しないだろう――。
もしかするとおれは現状にクウガやグロンギを期待しているのかもしれない。《超人》を目指すというフェルミらパルタイに深く関わることができれば、もしかしたら、あの英雄が一年にわたって足を踏み入れることとなった尋常ならざる世界を、俺も見ることができるんじゃあないだろうか。目の前にあの異様な気配の主が現れたのは、和久田がそんな緩みきった思考をしていた、ちょうどその時であった。
その影はいつの間にか和久田の目の前、十字に交差する道の真ん中に、膝を曲げ姿勢を低くして立っていた。あたかも跳躍ののち着地し次の跳躍への予備動作をしているかのように。二人の距離は十メートルとなかったので、和久田はその人物の様子を事細かに目にすることができた。肌と真珠のような白銀色に輝き、肩までかかるまっすぐな髪も同様であった。兎の耳の形をしたものが頭から生えている。これは厳密にはカチューシャのような形で頭頂部を一周している黒い帯から生えているもので、両端はヘッドホンのように耳を覆っていた。まっ黒な洋装で、胸には三時を指した金時計のワッペンがあてられ、足に纏うのはトゥシューズのように小さな、これまた黒い曲線の輪郭を持つ靴だった。少なくとも和久田が見たことのあるような代物ではない――鼻から下を覆うタイプの、ごく普通のマスクを着けていて、そこだけ妙に浮いたようになっている。そして和久田がもっともひきつけられたのは、そのどれでもなく、ただその人物の二点のみだった。
それは目と、手。白目に至るまで全体が赤々と血の色に輝く目と、着ている洋装よりもよほど黒い、光さえ食い尽くすような黒い色をして、両の手に嵌められている、鋭い爪を備えた手甲。薄暗い中でもはっきりと輝く目と、あらゆる光を呑み込むような手甲との二つは、空間全体を震わせるほどの殺意を放っていた。
頭の先から爪先まで全身が一斉に粟立ち、背中に厚い氷を突っ込まれた感覚が走った。全身ががくがく震える。和久田の思考はこうだ――間違いない、こいつが《白いパルタイ》だ。それから間違いないのがもう一つ。このままだとおれはこいつに殺される、あの爪で、絶対に!
白い兎耳のパルタイがぎょろりとその目を見開くより早いか遅いかというところで、和久田は一目散に反対方向へ走った。振り返ると、兎耳は少しの間その場にとどまっていたが、しかしそれも本当にほんの少しの間のこと。すぐさま走りだしたその一歩目で、パルタイは一気に四メートルは距離を詰めてきた。
自転車を降りたのは失敗だった。小回りが利かないとしても、逃走にあたっては走って逃げるよりよほど速度が出るのに!
――なんだ、こんなところで死ぬのか俺は? ……死んでたまるか!
和久田は自転車を停めた所、すなわち一城高校まで走ることに決めた。そして一度足を止めて振りかぶり、兎耳めがけて左手の小瓶を思いきり投げつける。
瓶はほとんどまっすぐ兎耳の正面へ向かい、顔面に吸い込まれるような軌道を描いて――衝突の寸前、甲高い金属音を立てて真上に飛んでいった。
見えないバリアでも張っているかのようだった。一瞬顔を守るようなそぶりを見せた兎耳だが、速度をゆるめず更に距離を詰めてくる。兎よろしく跳躍するような軌道だった。胃がせり上がってくる感覚と嫌な汗が同時にやってきた。フェルミ! 走りだした時、我知らず彼は叫んでいた。右手のゼンダーの青いボタンをめり込まんばかりに強く押し込んでいた。
――はいフェルミ。
――たっ、――。
舌を噛んだ。悶えている場合ではない、後ろにはまだ兎耳がいる。自転車を取りに行こうにも道がわからないことに気付いた和久田はとにかく相手を攪乱しようと二度三度と路地を曲がった。それからとにかく東に進めばいいことに思い当り、光が漏れ出て見える街道を目指して走った。そうする内に兎耳は走るというより跳んで移動しているために鋭角に曲がるには少しの間の「溜め」が必要なことが見て取れた。されど速さの差は如何ともしがたく彼は執拗に和久田を追跡してくる。
――助けてくれ、今にも殺されそうだ!
――はい?
――白いパルタイが出た! なんでか俺が狙われてる!
噛んだり閊えたりしつつ右の旨を伝えた和久田は、これまでより少し広い、二車線の道に出た。最も近い交差まで左は三十、右は二十メートルほどある。白いパルタイが右から飛び出してきた。細い路地を通った和久田に対してショートカットを選んだのだ。赤い両目が和久田を刺し貫かんばかり。和久田は左、すなわち東へ向かって一目散に走りだした。
――よろしい、ひとまずディングを貸与しましょう。
――何でもいい、早く!
ゼンダーの向こうで何やら唱えるフェルミの声が聞こえ、それが終わると同時に、手のひらから何やら流れ込んでくる感覚があった。手首、上腕、二の腕と冷たく流動するものが波紋を描いて体中へ溶けていく。
――これでディングが使えます。
それから間髪入れずにまたフェルミは言った。
――いいですか、意志するのです、和久田さん。力への意志があれば……
しかし和久田の集中はそこで途切れてしまった。
背後に迫っていた兎耳が一気に距離を詰めてきた。いや、この道に出た時よりも前から和久田はその実かなり追い詰められていて、相手にとってみればこれは最後の仕上げのようなものだったのだ。
両足を揃えて着地、その場で深く沈み込んで「溜め」を作り、跳躍。
二十メートルは優に超える大跳躍だった。兎は空中でちょうど一回転し体をひねりながら、和久田の頭上を通り越していく。黒い一対の耳が羽根のようだった。彼がフェルミの言葉への集中を切ったのは、まさに飛翔する兎が自分の真上を通過していくその瞬間だったのだ。
目前の交差まではまだ五メートルはあり、パルタイは交差点の向こう側に着地する軌道を描いていた。既に両足を揃え衝撃に備えている。和久田に交差を曲がらせるほどの時間も隙も与えない、次の着地からの跳躍で確実に和久田を捉え、即座に両の爪で引き裂くつもりなのだ。ふたたび赤い瞳と目が合った。血の色に輝いて表情が読めない目はなみなみと注がれた殺意に満ち満ちていた。和久田は殺意迸り出る兎の手甲に花を模したステンドグラスのような美しい文様があるのに気が付いたが、それが何になるだろう。
走馬灯が見えた。おぼろげな両親の記憶。叔母夫婦と義兄。初恋は小学生の時だったっけか。天道――和久田を助けた金色の目の少年――、嶋、西門、知念。沼田をはじめ正義活動で知り合った人々。フェルミ。武藤陽子。
あの英雄が体験した戦士の啓示は最後まで現れなかった。しかし代わりに和久田の頭に浮かんだのは、直前に聞いたフェルミの言葉だった。
――力への意志があれば……
力への意志。今以外にもどこかで聞いたことがある。それもそう遠くないいつかでだ。ふと先の言葉に関連して「フリードリヒ・ニーチェ」の人名が頭に浮かんできた。ニーチェ、力への意志。それから、超人。
――ニーチェのいうところの《超人》というやつです……。
――人間は超人と獣類の橋渡し、らしいですよ……。
力への意志……より強大になろうとする意志、自己を乗り越え成長しようとする生命力。超人……力への意志の体現者。大地の、即ち地上の現実の世界の意義。
そうだ、倫理の予習をしていた時、何かヒントになりはすまいかと資料集をめくっていて、そこで目にしたのだ。
意志するのです、和久田さん。
すぐさま理解できる概念ではなかった。それでもその言葉が今の和久田にとって大きな意味を持つキーワードであることは知れた。
――あるいは、これがおれにとっての啓示か!
何かが流れ込んだ右手と、それに左手から、あの「異常さ」が前触れなしに噴き出した。誰に教わらずともものを呑み込めるのと似て、ディングの使い方はよくわかっていた。手の甲の一点が円形に青く輝く。和久田は道の交差に一歩踏み出したところに右足を、交差のわずか手前に左足を着けて低く構えた。兎耳が着地し最後の跳躍を見せた時には、和久田の両手は殺意を固めたようなあの手甲と同じ黒い色に覆われていた。
手刀を作った右手を引きしぼり狙いを定めるパルタイは、手甲の爪が指の長さの三倍ほどにまで伸長していた。その必殺の突きがくり出されようとした瞬間、和久田は右手に持っていたゼンダーをひょいと兎耳の目の前に放り投げ、姿勢をさらに低くして前へと進み出る。
突き出された黒い爪がゼンダーに触れた途端、青い亀裂がその全体に走り、火の粉のような光をまき散らして爆発した。その時和久田は既に宙を舞う兎の下に滑り込んでおり、礼服の袖と手甲の間に見える白い手首をしっかりとつかむ。手の甲の青い光がいっそう強く輝いた。
フェルミが《流転》と呼ぶこの能力の内実は、触れた部分の力の流れの向きを操作すること。
力を込めた腹の底から声をあげながら和久田は、ほとんど逆海老反りの姿勢で、バックドロップさながらに、白いパルタイを後方に投げ飛ばした。
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