転移リーマン食い倒れツアー

犬魔人

第1話 その男、営業職につき──

 私はアナヤ。阿南夜あなや叉三郎またさぶろうという。

 職業は営業担当のサラリーマンだ。


 本日の顧客獲得を無事成功で終わらせ、家へと戻る途中のことだ。

 私は突如として眠気に襲われ、電柱にすがりついて居眠りしてしまった。


 この私が抗うこともできない、強烈な眠気だ。

 泥に包まれるように、私の意識は急速に闇へと落ちていった。


 そして次に目が覚めた時、そこは南国を思わせる美しい浜辺へと変わっていた。


 白い雲の浮かぶ蒼い空。日差しは強いが風は程よく冷たい。ザクザクと踏みしめる砂浜は、都会のアスファルトとはまるで違った。


 すがりついていた電柱は椰子の木となり、その荒々しい樹皮で私の頬を擦り上げてくる。


「……白昼夢とは。私も歳だろうか」


 椰子の木から離れ、眉間をつまみながら頭を振る。


 それにしても、いやに現実味のある夢だ。

 潮の匂いはかぐわしく、私の肺を爽やかに満たしてくる。

 朝日を照り返す海は真っ青で、水平線の向こうには小さな島がいくつも点在していた。


「ふむ、こんな白昼夢ならいつでも歓迎だな」


 ネクタイをゆるめ、爽快な気分で深呼吸する。

 現実の私は泥酔よろしく電柱にすがりついているはずだが、今はこの景色を楽しもうではないか。


 こんなにのんびりと日光浴にひたるなど何年ぶりだろうか。

 ざわざわと寄せる波の音が心地いい。


 と、その時。


 「──い、いやああああああ!」


 美しい光景に相応しくない、女性の甲高い悲鳴が遠方より響いてきた。


「何事か!?」


 浜辺に足を投げ出し、少年時代を思い返すように美景を眺めていた私は、絹を裂くような悲鳴にすわと立ち上がった。


 声は遠いが、問題ない。

 サラリーマンの鍛えあげられた脚力ならば、数秒でたどり着ける距離だ。


 声の先はおそらく遠くに見えるあの岩場の付近。

 上質な革靴で砂浜を蹴立て、私は全速力で声の元へと駆けつけた。


「い、いやあああああ! 誰か、助けて!」


 悲鳴を上げるのはうら若き乙女。民族風の衣装ははだけ、長い金髪が乱れている。

 その乙女に迫るのは、巨大な──そう巨大な蟹だった。


 体高は優に5mを超えるだろう。大きな二つの目が二階の窓ほどの位置にある。横幅はその倍だ。

 特に右の鋏はまた大きく、たんと身が詰まっていそうだった。


 湯掻いて三杯酢で食べたら実に美味そうだ。


「……じゅる」


 おっといかん、よだれが。

 仕事が忙しく、今日は何も食べていなかったことを思い出した。


「そ、そこの人! 助けて!」


 腰が抜けたのか、その場に倒れたまま乙女が助けを求める。


「あなたは襲われているのですね!? この蟹を獲ろうとしていたわけではなく!」


「あ、当たり前でしょ! こいつはこの辺りのヌシよ! 何人も犠牲になってるんだから!」


 憤慨するように叫ぶ乙女に、私は最後の確認をとった。


 乙女は襲われていて、この蟹は誰のものでもない。

 つまり漁権は私にあるということだ。


 大蟹は私を敵と認識したのか、その大きな右の鋏を振り上げて、横薙ぎに振るってくる。


「初めまして!」


 私は腰を直角に曲げ、深くおじぎをする。


 頭上を岩のような鋏が通り過ぎていく。豪風が激しく私の服をはためかせた。


 乱れた髪をオールバックに整えなおし、私は蟹の懐へ飛び込んだ。

 営業職ならば、飛び込み営業は日常茶飯事。

 日々冷たくあしらってくるご新規様を獲得してきた私には、知能の低い蟹の懐へ飛び込むなど造作も無い。


「わたくし、こういう者です!」


 両手で握った名刺を、鋭く腹の甲殻の隙間へと撃ちこむ。


「どうぞよろしくお願いいたします!!」


 インパクトの瞬間、筋肉を完全に硬直させ、衝撃を一点に集中させる。

 飲み会のかくし芸で割り箸を何百本も名刺で叩き斬ってきた私の技は冴え渡り、蟹の甲殻を貫通。内臓を一瞬で破壊せしめた。


 巨大な蟹は口からブクブクと血泡を吹いて、その場に重たく崩れ落ちた。


「造作もなし。一流のサラリーマンならば、今の交差で名刺交換を完了させているぞ」


「な、何なのこの人……」


 呆然としている乙女を助け起こす。


「しかし我ながら面白い夢だ。まるでB級怪獣映画だな」


「ゆ、夢? あなた何言ってるの?」


 乙女は困惑している。私の夢なのだから、登場人物の理解が早くてもいいものだが……。


「おっと、いかんいかん。夢が覚める前にぜひとも賞味しておかなければ。これほどの巨大な蟹。夢とはいえ絶対に美味いはずだ」


「は、はぁ?! あなたこれモンスターよ?! 食べる気なの?!」


「無論、殺したからには喰う。喰うからには殺す。サラリーマンの常識です」


「わ、わけわかんない……。なんなの……なんなのこの人……」


 私は名刺を右手の人差指と中指ではさみ、左手で手首を支えて大上段に構える。


「はっ!!」


 裂帛の気合とともに振り下ろした名刺は、みごと蟹の大きな脚を根本から切り落とした。

 割り箸を切れるならば蟹も切れる。サラリーマンの常識だ。


「新鮮なうちなら、生でもいけるはずだ。海水で洗って喰おう」


「こ、この人、本気で食べる気だ……」


「お嬢さん、良ければご一緒にいかがですか?」


「え、ええ?! いいです! いりません!」


 乙女は激しく首を振って断ってくる。遠慮せずともたくさんあるというのに。


 私は靴を脱いで、切り落とした脚を波打ち際まで持って行き、ざぶざぶと殻ごと洗った。


「こんなものでいいだろう」


 私は再び浜辺へ戻り、名刺を使って綺麗に殻だけを切り、蓋を開くように殻をむいた。


「おお、美しい……」


 分厚い殻の下には、宝石のように光り輝く、透明な蟹の身がぎっしりと詰まっていた。


「いただきます」


 手を合わせ、蟹へ感謝の意を送る。

 遅めの晩飯──いや、夢の世界だと朝食か──をいただこう。


 少々行儀が悪いが手づかみだ。

 硬い殻からは想像できないほど、身は弾力があって柔らかく、身の繊維にそって掬い上げるとプルプルと手の上で震えている。


 私は躊躇いなくその美しい身へかぶりついた。


「食べた!」


 背後で乙女が驚いている。


「こ、これは……!」


 美味い。実に美味い。

 海水の塩気が程よく蟹の身とマッチしている。

 艶やかな身は歯ごたえたっぷりで、噛むたびに旨味の汁が溢れ出てくる。

 飲み込むと、まるで麺のようにつるつると喉を滑っていった。


「美味い!!」


「ひっ!?」


 私は思わず胡座をかいた膝を打った。

 そして、呼吸をすることすら煩わしく、蟹の身を次々とちぎって頬張っていく。


「そ、そんなに美味しいの……?」


「ええ、最高です。どうですか、お嬢さん」


 まだまだ残っている蟹身を脚ごと引きずって目の前に持って行くと、乙女は恐る恐る身を少し掬い、数秒の逡巡のあと、意を決して口に入れた。


「はくっ……んむ、んむ……」


 咀嚼する乙女の頬がみるみる紅潮していく。


「お、美味しいいいいいい!」


 乙女は絶頂を感じるように身を捩った。

 そうなるのも仕方がない。

 私もこれほどの蟹を食べたのは初めてだ。なんと素晴らしい夢なのだろう。


「モンスターってこんなに美味しいんだ……」


「ふむ、地元では生のまま食べるというのは珍しい食し方なのですか?」


「いや、生がどうとか、それ以前の問題……」


「さぁ、どんどんどうぞ。一人では食べきれませんので」


「あっはい」


 私たちはそのまま浜辺に座り込み、しばし無言で蟹身を貪り食ったのだった。


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