後編

 アレンデの日記は、日付が進むにつれて、ますます常軌をいっした内容になっていく。


 ――1943年10月28日。

 船内に残された記録から、実験の詳細を知った。あの儀式は、ネクロノミコンに記された、大いなる存在を召喚するものだったらしい。何でもその存在とは、あらゆる時と空間を自在につなぐことができるらしく――その力を借りて、艦を一瞬にして離れた場所に移動させる。それが実験の目的だったというのだ。

 以前の私なら、一笑に付していただろう。しかし、他ならぬ、我が身で体験してしまった――ここはどこなのだ? 霧は一向に晴れない――。みんなは、どこへ行ってしまったのか――。


 ――1943年10月29日。

 エミリアが妙なことを言い出した。ロバートの亡霊を見たと怯えている。こんな状況で、精神的に不安定になっているのだろうか。


 ――1943年10月30日。

 確かに見た――ロバートの亡霊だ――ここはどこだ、助けてくれ、と言っていた――。


 ――1943年10月31日。

 ロバートだけじゃない――艦長もアンドリューも、天国にも地獄にも行けずに、船内を彷徨っている――いずれ、自分もああなるのでは――。

 一刻も早く逃げ出したかったが、エミリアの体調が思わしくない。自分は置いていけと彼女は言うが、無論、そんなことはできない。


 ――1943年11月1日。

 エミリアは夜毎うなされている。寝言を言っている。『忌まわしいものが私に宿って』『私の中で蠢いて』。気のせいだろうか。彼女の腹が――。


 ――1943年11月2日。

 やはり気のせいではない。彼女は妊娠している。エミリアはうろたえているが、どんな状況でも、生命の誕生は喜ぶべきことだ。無事に戻れたら、正式に結婚しようと言うと、ようやく少し微笑んでくれた。


 ――1943年11月3日。

 今日も救助は来ない。だが、最後まで諦めない。必ず生きて戻って、彼女と――。


 ――1943年11月4日。

 生まれた。

(以下、ほとんど文章のていを成していない、でたらめな単語の羅列)

 生まれたエミリアの腹を破って生まれた部屋が血の海になって生まれた違う私の子じゃない父親は私じゃないあれは人間じゃない忌まわしい取替え子有り得ない逃げるしかないおお神よ!

(少しだけ、落ち着きを取り戻して)

 これを読んでいる人よ。どうかこの呪われた船を沈めてくれ。そして、二度とネクロノミコンに記されている存在を呼び出すなかれ。神よ、エミリアの魂に安らぎを。


 日記はここで終わっている。

 ウィリアムは真っ青になって、あの支離滅裂しりめつれつな殴り書きのページを見つめている。今にも卒倒しそうだ。亮は慌てて、彼を安心させる言葉をひねり出した。

「おいおい、こんな話、真に受けるなよ。要するに、アレンデは、ちょっとおかしくなってたんだって」

「そ、そうなんですか――?」

「ああ、一見すると、怪奇現象のオンパレードだが、どれも常識で説明が付くよ」

 そう口に出してみると、不思議とすらすらと説明できた。

「おそらく、エルドリッジが海に出たところで、何らかの事故が起きて、航行不能に陥ったんだ。他の船員たちは避難したが、うっかりアレンデとエミリアの二人だけが取り残されちまった。それに気付かずに『みんながいなくなった、船が瞬間移動した』と勘違いしたんだろう。おかしな魔法のギシキをやらされたことも、思い込みを助長したんだろうな」

「で、でも、ここはフィラデルフィアとは、地球の反対側ですよ? いくら何でも、途中で気付きそうなものですけど――」

「元は、フィラデルフィアの近くに浮かんでいたんだろう。でも、それから50年も経ってるんだ。海流に流されて、地球を半周しても不思議はないさ」

「な、なるほど」

「船員の亡霊は、言うまでもなく、漂流のストレスによる幻覚だな」

「エミリアさんは、出産時の出血か何かで亡くなったんでしょうか?」

「いや、日記の日付からすると、アレンデが妊娠に気付いてから、二日しか経っていない。そんなに早く赤ん坊が産まれる訳がないから、多分、エミリアの死因は何らかの病気だろうな」

 そして、婚約者の死というショックが、アレンデのぐらつきかけていた正気を、完全に崩してしまったのだ。

 ――という、亮の推理が終わる頃には、ウィリアムの顔に血の気が戻っていた。

「なぁんだ。つまり、フィラデルフィア実験の真相って――アレンデの思い込みだったんですね」

「それプラス、アメリカ海軍のトンデモ実験だな」

 そして、エルドリッジを脱出したアレンデは十数年後、ジェソップに手紙を送ったのだ。自らの妄想を書き殴った手紙を。

 それを元にして、ジェソップが超常現象・フィラデルフィア実験を創作したのだろう。まあ、さすがにそのままでは信憑性しんぴょうせいがないと思ったのか、魔方陣が当時最先端の機械だったテスラコイルになったように、あちこち修正されてはいるが。

「分かってみれば、あっけないですねぇ。アレンデとエミリアさんには同情しますけど――」

「そうだな――まあ、こうして真相に気付いてやれただけでも、少しは供養くようになるだろう」

 亮は気付いていない。

 この推測で納得しておく方が身の為だと、自分に言い聞かせていることに。

「おっと、そろそろ集合時間だな。いったん戻るか。端島たちにも教えてやろうぜ。フィラデルフィア実験の真相を」

「がっかりしちゃいませんかね」

「いやあ、ある意味衝撃だろ。昔のこととは言え、天下のアメリカ海軍が、こんなことをしてたなんて」

 そうして、何とか自分を納得させたつもりだったのだが。

 立ち上がったはずみに、ふと、思い出してしまった。

 “気付かない方が身の為”なことに。

「そういえば、アレンデは、エミリアのことは手紙で伝えなかったんだろうか」

「みたいですね。彼女は、ジェソップの話には全く出てきませんし」

 たとえ妄想にせよ、なぜ彼女のことだけ隠したのだろう。そう思った亮の目に、隣の部屋のドアが飛び込んできた。

 ドアにはDispensary(医務室)と書かれている――亮にも、これぐらいは読める――。

(もし、船内で女性が産気付いたら――)

 気が付くと――。

 亮の足は、そのドアに向かっていた。

「教官?」

 ウィリアムが戸惑っているのにも、気付かない。まるで、不可視の力に操られているように、ドアノブに手がかかる。

(そうだ、当然、ここへ運び込むはずだ。もしも、あの日記が)

 ドアノブを回し――。

(アレンデの妄想でなかったら)

 一気に引き開けた。


 *


 その部屋は、元は医務室らしく、白い内装でまとめられていたのだろう。

 その清楚な白を。

 赤茶けた跡が、跡形もなく汚している。

 ベッドの上で爆発するように弾け、薬品棚にびちゃびちゃと飛び散り、床一面を染める、その跡が――。

 ――何の跡なのか分かったらしく、ウィリアムがよろめいた。

「血? これが、全部――?」

 まるで、人体を爆破でもしたかのようだ。

(違う、エミリアの死因は病気なんかじゃない)

 かと言って、出産時の出血などでもない――そう、通常の出産では。


 生まれたエミリアの腹を破って生まれた部屋が血の海になって生まれた違う私の子じゃない父親は私じゃない有り得ない逃げるしかないおお神よ!


 なぜアレンデが、エミリアのことだけは、手紙にも書かなかったのか、今なら分かる。

 恐ろしかったからだ。思い出すことさえ、耐えがたい程に。

(違う、あの日記は、アレンデの妄想なんかじゃない)

「きょ、教官――」

 ウィリアムが、亮の腕にすがり付く。

「ああ、分かってる――」

 無論、これで全てが判明した訳ではない。エミリアがを産んだのかなど、分かるはずもない。

 しかし、一つだけはっきりしていることがある。

「この船を離れよう」

 ここは、人のいるべき場所ではない。


 そして、二人が医務室を走り去った直後。

 窓から差し込む光が、何かにさえぎられた。

 それはずるずると船側をい上がり、窓越しに二人を見つめて――。


 *


 甲板に出ても、相変わらず視界は一面の霧に閉ざされていた。

 あるいは、五十年前から一度も晴れたことがないのかもしれない。そうだとしても、もう亮は驚かない。

 この船は、呪われているのだから。

「きょ、教官?」

 集合場所で待っていた秀一は、亮の剣幕に面食らっている。

「脱出するぞ、救助ボートに移れ!」

「え? どうして――」

「訳は後で話す!」

 有無を言わさず命じてから、亮は気付いた。

「端島はどうした?」

「それが、トイレに行ったきり、いなくなっちゃって――」

 顔を見合わせる、亮とウィリアム。

「い、言っときますけど、端島さんが勝手に――」

「そのトイレはどこだ?」

「こ、こっちです」

 さすがの秀一も、言い訳している場合ではないと察したらしい。二人を案内して走り出す。

 問題のトイレにはすぐ着いたが、やはり満の姿はどこにもない。

「端島さ~ん! 教官に怒られますよ~!」

 秀一の呼びかけにも、応える者はない。

 ぉぉぉ――廊下の奥から、微かな反響が返ってくるばかりだ。

「もう、しょうがないな~。あ、自分はこっちを探してきますね」

「いや、ばらばらになると――」

 危ない、と言おうとした亮が、戦慄せんりつに凍り付く。

 秀一は気付いていない――。

 ――背後の壁から生えた、半透明の両腕に!

 それは、まるで存在しないかのように壁をすり抜け、たちまちおぼろな全身をあらわにする。変わり果てた姿になっていたが、間違いない。

「端島!?」

 タスケテクレェェェ――タスケテクレェェェ――反響などではなかった。そのおぞましくも哀れなうめきは、半透明の顔にぽっかり開いた、ブラックホールのような口から発せられている。

「え?」

 秀一が、ようやく背後の気配に気付いて、振り向いた――時には、もう遅かった。

 満の半透明の腕が、秀一の肩を掴む――いや、突き抜ける。そこを起点に、みるみる秀一の体がき通っていく。

 ああああああアアアアアアAAAAAA――――。

 それに比例して、秀一の絶叫が変質していく。どんどん低くなり、この世のものでない響きを帯び――。

 ココハドコダァァァ――ナニモミエナイィィィ――。

 満の呻きと区別が付かなくなる頃には、秀一も全身が半透明になっていた。

 呆然としていたウィリアムが、ようやく悲鳴を上げる。

 それに応えるかのごとく、壁から床から、次々と半透明の手や首や上半身が現れる。その多くが、船員らしき服装をしていた。

(こ、これが――!?)

 アレンデが日記に記した“船員の亡霊”なのか。

 Help me――Anything is not seen――Darkness――Darkness――。

 壁から突き出した首が、英語らしき呻きを上げている。アレンデはこの光景を手紙に書き、ジェソップはそれを元に“床や壁と融合してしまった船員”を創作したのだろう。

(亡霊――)

 窮地に陥った亮の頭脳が、限界速度を超えて回転しているのか。アレンデがもちいたその表現は、正確ではないことを直感する。

 彼らは死んだ訳ではない。おそらく、エルドリッジが瞬間移動――その可能性も、もう亮は疑っていない――した際、移動に、時空の狭間はざまに取り残されてしまったのだ。

 それから五十年以上、彼らは死ぬこともできずに、船内――に隣接する時空の狭間――を彷徨い続けている。

 そして、彼らに触れられた者もまた、時空の狭間に引きずりこまれ、その仲間入りをする羽目になるのだ。満や秀一のように。

「端島、北条、落ち着くんだ!」

 必死で呼びかけるが、満や秀一の目に、最早欠片かけらも理性が残っていないのは明らかだった。他の船員たちは言うまでもない。時空の狭間に引きずり込まれる感覚、それは、僅か数秒で人間の理性を破壊するに十分らしい。

 呻きの不協和音を響かせながら、じりじりと包囲網をせばめてくる。彼らの頭にあるのは、時空の壁越しに、僅かに感じる人の気配にすがることのみ。それが、同類を増やす結果に終わるだけとも知らずに。

(止むを得ない――!)

 生徒を見捨てて逃げるなど、教官として最低の行為だが、このままでは全滅するだけだ。へたり込んでいるウィリアムの腕を掴んで、無理矢理立ち上がらせる。

「しっかりしろ! 一緒に湘南に行くんだろ!?」

 そこで思う存分、操船させてもらうという約束を思い出したのか、ウィリアムの瞳に、僅かながら光が戻ってくる。

(そうだ、約束を果たすためにも、生きて帰らなくては)

「よし、走るぞ!」

「は、はい!」

 来た通路は“時空亡霊”たちにふさがれている。別の出口を探すしかない。経験から船の構造を推測し、必死に走る。その二人を、亡霊の群れが壁をすり抜けながら追う。まさしく、黄泉の国からの脱出劇だ。

「あった!」

 出口だ。そこへ続く階段を死に物狂いで駆け上がると、不幸中の幸い、エルドリッジに乗り込むのに使った、非常用梯子のすぐ側だった。救助ボートはこの下に係留してある。

「香坂、先に行け!」

 しかし、彼らをこの呪われた船に誘き寄せた悪意は、すでに包囲網を完成させていた。

「いや、待て! ――何だ、この音は?」

 ずるずる? それとも、ねちゃねちゃ? 何とも形容しがたい音が、船側を這い登ってくる。

 足裏から伝わってくる振動で分かる――信じられないくらい、巨大だ。

 本能が危険を察知すると同時に、異様な影が霧の中におどり上がる。太さは人の胴回り程、長さは十メートル以上。

(触手――!?)

 イカの触腕にも、象の鼻にも、いや、亮が知っている、どんな生き物の部位にも似ていない。だが、それだけはかろうじて分かった。

 つまり、これでもまだ、全体の一部でしかないということ。

(こいつだ――曙光丸が沈んだ時に見たのは)

 あの触手を真っ直ぐに突き刺せば、ちょうどあんな穴が開くだろう。

 霧を裂いて触手が迫る。あの巨大さからは、信じられないような敏捷さだ。

(くっ!)

 ウィリアムを突き飛ばしてかばうのが、精一杯だった。

「きょ、教官!」

 触手が亮の胴に巻き付き、掴み上げる。必死でもがくが、船に穴を開けるパワーにかなう訳がない――命運は尽きた。

(そうか、こいつが――)

「エミリアが産んだものなのか――!?」

 諦めゆえの直感力でそう悟ったが、今さら何の役にも立たない。

「香坂、俺に構わず逃げろ!」

 亮にできるのは、そう叫ぶことだけだった。

 しかし。

 悪意は、彼の想像を遥かに超えていた。

「ぷっ――」


「あはははははははははははははははははは!」


 *


 場違いもはなはだしい、そのはじけるような笑い声が、どこから発せられているのか、亮は一瞬分からなかった。

 分かって、愕然とする。

「香――坂?」

 笑い声は、ウィリアムの口から発せられている。体をくの字に曲げ、可笑おかしくて仕方なさそうに笑っている。

「あー、可笑しい。教官ったら、まだ気付いていないんですかぁ?」

 ようやく、ウィリアムが笑うのを止める。その顔に、ついさっきまで浮かんでいた恐怖の表情など、微塵も残っていない。

 ウィリアムは、悪戯いたずらの種でもばらすかのような口調で言った。

「逃げろも何も、みんなをこの船に誘き寄せたのは、僕なんですよ?」

 ――――。

「でも、さすがは教官。冷静でしたね。こんなに梃子摺てこずらされたのは、初めてですよ」

「何を――言ってるんだ?」

「よく見て下さい。それを――そうすれば、全部分かりますよ」

 操られているかのように、亮の視線が、ウィリアムが指差す方を向く。すなわち、足元を。

 自分の胴に巻き付いている触手を、何十本もでたらめにからめたような異形の物体。船側にへばり付いていたのは、そんな存在だった。

「う――」

 それだけだったら、まだ耐えられた。だが、亮は気付いてしまった。絡まり合う触手の中心に、直径1メートルに及ぶ“顔”があることに。

 ――ウィリアムと瓜二つの。

「紹介します――兄です」

 ウィリアムのくすくす笑いと亮の絶叫が、地獄めいた合唱をかなでる。

「双子なんです、そっくりでしょ?」

 ウィリアムと、彼の“兄”の顔を、狂ったように、何度も何度も見比べる亮。気付かざるを得なかった。気付かない方が幸せだった、おぞましい真実に。

 ウィリアムを、実の弟のように可愛がっていた彼にとっては、なおさら。

「まさか、お前も――!?」

「ええ、エミリア母さんから生まれました。あの日、あの部屋で――だから、本当は教官より、ずっと年上なんですよ?」

 そう言ってウィリアムが浮かべた表情を、何と表現すべきか、亮には分からなかった。猿が人間の表情を読めないのと同様に。いくら顔の形が似ていても、それを動かす精神が違いすぎて。

 何よりも、その表情が亮に悟らせた。

(そんな、香坂が――)

 外見がどうあれ、本質はあの“兄”と同じ。言わば、人間そっくりの怪物なのだということを。

「本当にお前が、俺達をここに誘き寄せたのか――?」

「フフ、教官たちだけじゃないですよ――ほら」

 そう言って、ウィリアムが手で何かを払うような仕草をすると――視界を閉ざす霧が、見る見る晴れていく。

 その事実に驚く暇もなく。あらわになった周辺の光景に、亮は呆然と目を見開く。

 エルドリッジの周囲は、まさに船の墓場だった。あらゆる大きさ、あらゆる様式の船の残骸が、水死者の如く波間を漂っている。

 それだけなら、まだ有り得ないことではない。航海術が未発達だった過去には、暗礁地帯などで似たような光景が見られたかもしれない。

 ――だが、その上に広がる、病んだ緑色の空は、地球上のどこにも有り得まい。そこには、正体不明の赤い光の筋が、毛細血管のように張り巡らされ、脈動するように明滅を繰り返している。

(馬鹿な――ここは、どこなんだ)

 つい数時間前まで、雅忠節湾にいたはずなのに。

「不完全な知識で行われた儀式は、エルドリッジを中途半端な場所に移動させてしまったんです――ここ、異次元に広がる、無窮むきゅうの海に」

 とりあえず、曙光丸の通信機やレーダーが故障した原因だけは分かった。

 こんな場所で、そんな物が正常に働くはずがない。

「僕たち双子は、生まれて以来、同じことを繰り返してきました。僕が、時空を捻じ曲げて、船をこの海に迷い込ませる。その船を、兄が沈没させ、船員がエルドリッジに乗り移るよう仕向ける――」

 そこで待っているのは、あの亡霊の群れ。その結果が、この船の墓場――まさに、海魔の兄弟だ。

 この五十年間で、幾人の船乗りたちが、その魔の手にかかったのだろう。

(そんな――)

 ウィリアムとの思い出が、走馬灯の如く脳裏を駆け抜けていく。

 自分を兄のように慕ってくれたウィリアム。ついさっきも、湘南に連れて行ってやると約束したら、あんなに喜んでくれたのに。

(あれは全部、演技だったのか――!?)

 マグマのように湧き上がるのは、しかし、怒りではなく――悲しみだ。

 そんな亮に気付いているのかいないのか、ウィリアムは淡々と続ける。

「そして、これからも繰り返すでしょう。ミスカトニック大学で、ネクロノミコンを調べて突き止めました。あの儀式には、大量の生贄が必要だったんです。五十年前の実験では、その部分を見逃していたんでしょう」

 儀式を今度こそ成し遂げる。それが、彼ら兄弟の目的なのか。

「どうして、そんなことを!?」

「――帰るためですよ、僕らが本来いるべき世界に」

 亮の叫びに対して、ウィリアムは――そっと顔を伏せた。見られたくないかのように。

「そうするしかないじゃないですか――この世界では、僕らはおぞましい“怪物”なんですよ」

 その言葉に、亮は微かな希望を見出した。

 その呪われた出自を、最も嫌悪しているのは、他ならぬウィリアム自身だと。

 それは、人間の証明ではないか。

「そんなことない! 生まれなんて、関係ない――!」

「――兄にも同じことを言えますか?」

 凍り付くようなウィリアムの指摘に、亮は思わず声を詰まらせる。

 改めて、自分の胴に巻き付く触手の主を見下ろす――。

(目を逸らすな――吐き気を催すなんて、もってのほか――)

 駄目だ。どうしても、本能が拒絶してしまう。これを拒絶することは、ウィリアムを拒絶することと同義なのに。

 己の不甲斐無ふがいなさに肩を落とす亮に、ウィリアムが哀れむように呟く。

「いいんですよ、恥じなくても。人間なんて、そんなものだ――肌の色で差別し合っているような連中が、僕らを受け容れられる訳がない」

 それが、人に混じって、五十年以上の時を生きてきた彼の、答えなのだろうか。その間、多くの出会いがあっただろうに、誰一人として、彼に希望を与えることはできなかったのか。

(そして、俺もまた――)

 ウィリアムの足元から、無数の半透明の手が湧き出す。彼ら兄弟によって時空の狭間に囚われた、哀れな生贄たち。

「さあ、お仲間が呼んでますよ、教官?」

 亮が動けないのは、しかし、胴に巻きつく触手のせいばかりではなかった。

 ウィリアムの顔には、相変わらずあの理解不能な表情が張り付いている。しかし、亮の目には、それは仮面と映った。その下には、彼が良く知るウィリアムがいるのだと。

 見捨てないで――一緒にいて――。

(香坂――)

 それが己の願望に過ぎないのか否か、しかし、亮が結論を出すより前に。

「うっ!?」

 突然、触手の力がゆるみ、亮は甲板に投げ出される。

「どうしたの、兄さん!?」

「イグナイイ――イグナイイ――トゥフルトゥクングァ――」

 驚くウィリアムに返ってきたのは、廃液が沸き立つ音のような――声なのか、これが?

「エエ・ヤ・ヤ・ヤ・ヤハアアア――エヤヤヤヤアアア――ングアアアアア――フユウ――フユウ――My father――My father――!」

 いや――。

 やはり、声に違いない。僅かに聞き取れた単語は、紛れもなく英語だったから。

「何だって――まさか」

 ウィリアムが、慌てて頭上を見上げる。

 釣られて見上げた亮が目にしたのは。

(何だ――空が)

 赤い毛細血管が脈動する緑色の空――あれを空と呼べるのかは疑問だが――が、へこんでいく。まるで、鉄球を載せたゴム膜のように。

 空のへこみは見る見る深まり、ついには直径数キロメートル、深さは推測もできない程の穴になる。

「父さん――迎えに来てくれたのか」

 空に開いた穴を、呆然と見上げるウィリアム。

「父親――!?」

 亮は、ようやくそのことに思い至った。

 ウィリアムたちの母親はエミリア。では、父親は誰なのか? 無論、アレンデであろうはずがない。

 日記には書かれていた。あの儀式は、ネクロノミコンに記された、ある存在の力を借りるものだと。

「そうです――アメリカ海軍によって召喚され、哀れなエミリア母さんの胎内に僕らを宿した、はた迷惑な父さん――でも、子煩悩こぼんのうな一面もあるみたいですね」

「うわっ!?」

 突然、足が甲板から浮き上がりそうになり、亮は慌てて柵に摑まった。

 周囲で重力の法則が崩壊している。船の残骸が波間から浮き上がり、亡霊たちが甲板から引き剥がされ、螺旋を描きながら空の穴に吸い込まれていく。

 その壮絶な光景を、ウィリアムは苦笑を浮かべて見つめていた。

「ああ、教官、やっぱり帰っていいですよ。生贄はもう十分みたいだから」

 あっさりそう言うウィリアムの背後で、彼の兄の巨体も空に落ちていく。響き渡る咆哮ほうこうは――歓喜のそれに聞こえた。

 そして、ウィリアムの足も、ふわりと甲板から浮かぶ。

(待て、行くな――!)

 必死で伸ばした手は――指一本分、届かない。

 無数の船の残骸や亡霊を引き連れて、ウィリアムは空に落ちていく。その青い瞳からこぼれるきらめきが――。

 何だったのかは、永久に分からなくなった。

 凄まじい輝きが、亮の目をいた。

 空の穴から、何かが降りてくる――何だ、あれは――穴とほぼ同じ大きさ――とても、言葉では表現できない――あえて言うなら、虹色に輝く無数の球体――絶えず、分裂と融合を繰り返して――まるで、素粒子の分解と結合のプロセスを、肉眼で見ているよう――いや、それとも、誕生と消滅を繰り返す、多元宇宙の――。

「あ――あ――」

 その人智を超えた姿に、亮の強靭な精神力も、ついに限界を迎えた。遠のく意識の中で、ウィリアムの最後の言葉を聞いていた。


 ――紹介します。僕らの父さん、門にして鍵、一にして全、全にして一なるもの、果て無き無窮を支配する神、ヨグ=ソ


 暗転。


 *


 それから、約十二時間後。

 亮は船の残骸――曙光丸のそれでないことが、後に判明するのだが――に摑まって漂流しているところを、救助された。

 重度の記憶障害に陥っており、事故に関する記憶は全て失われていた。ただ、夢の中では、記憶の断片がよみがえるのか、寝言で悲しげに呟くのを、担当の医師らが聞いている。

『湘南に連れて行ってやるって約束したのに――』

『一人で行っちまいやがって――』


『遠い、遠い海へ――』


【参考文献】


 ラヴクラフト全集5(創元推理文庫、H・P・ラヴクラフト/著、大滝 啓裕/訳)より『ダンウィッチの怪』

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無窮への船旅 上倉ゆうた @ykamikura

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