無窮への船旅

上倉ゆうた

前編


 白、

 白、

 白、

 白、

 白。

 どちらを向いても、白一色。

 まるで、自分の周囲だけを残して、世界が消失してしまったかのような、濃い霧の中を。

 赤無あかむ海上技術学校の練習船〈曙光丸しょこうまる〉は、頼り無さただよっていた。

 同船が教官一名と生徒三名を乗せて、赤無港から実習航海に出航したのは三時間前のことだ。本来の予定なら雅忠節まさちゅうせつ湾を一周して、とっくに帰港している時刻だ。

 天気は快晴、波も穏やか、基本的には生徒だけで操船させるとは言え、熟練の教官が監督にいている。事故など起きるはずもなかった。

 しかし、海は気まぐれだ。

 沖に出たところで、突然霧が出始め、あっという間に視界は数メートルにまで低下してしまった。この季節に、この海域で、こんな濃い霧が発生するなど、前例がないことだ。

 しかも――。

「応答願います、応答願います!」

 必死で通信機に呼びかけているのは、金髪碧眼の少年だ。作業服の胸にした名札には〈三年B組・ウィリアム香坂こうさか〉と書かれている。ハーフだろうか。

 華奢きゃしゃで小柄な体格、柔らかい曲線で構成された優しげな顔立ちは、少女と間違われそうだ。これで船乗りが務まるのだろうか。

「こちら、曙光丸! 応答願います――だめだ、通じない」

 もう一時間も呼びかけ続けているのに、通信機からはノイズしか返ってこない。

「くそっ、レーダーもGPSもいかれてやがる!」

 何も表示されないモニターに毒づいているのは、ウィリアムとは対照的な、長身の少年だ。名札には〈端島満はしまみつる〉と書かれている。

 身長を最大限に活かすかのごとく、切れ長の双眸そうぼうは、常に周囲を見下している。肩まで伸びた髪は、毛先の跳ね具合までばっちり計算されており、それがまた、憎らしい程似合っている。

「香坂! お前がちゃんと整備しないからだぞ!」

 満の怒鳴り声にはしかし、どこか計算めいた響きがある。こいつになら、何を押し付けても大丈夫だ、と。

 彼に間髪入れず。

「全くだよ。我々の成績に響いたら、どうしてくれるんだ?」

 冷たい口調で言ったのは、ひょろりとした体格の、眼鏡の少年だ。名札には〈北条秀一ほうじょうしゅういち〉と書かれている。

 洗練された口調は育ちの良さを伺わせるが、反面、口元には常にびへつらうような笑みを浮かべている。すすすと音もなく満の背中に回る様子は、まさに虎の威を借る狐。

「あ、あの、その――」

 そんな満と秀一に対して、ウィリアムはおどおどするばかりだ。

 確かに、機器の整備を担当したのは、彼なのだが――。

「ご、ごめんなさい」

「ごめんで済むなら、海審はいらねーよ!」

 満がさらにいきり立って――いるふりをしつつ、このままウィリアムに全責任を押し付けてしまおうと目論もくろんだ、その時。

「おいおい、喧嘩はよせって」

 さばさばしたその声に、ウィリアムははっと表情を輝かせ、逆に満と秀一は、ぎくりと顔を強張こわばらせる。

 どっと流れ込む霧と共に艦橋かんきょうに入ってきたのは、二十代半ばの青年だった。満よりさらに長身で、加えて制服の袖からのぞく腕は、しなやかな鋼のような筋肉に覆われている。

 ぴんと跳ね上がった太い眉と、狼を思わせる鋭い目つきは男らしいが、意外に細いあごや、すっきりした鼻梁びりょうなど、女性的なパーツもあり、男臭くなり過ぎるのを防いでいる。

 名札には〈三年B組担任教官・山本亮やまもとりょう〉と書かれている。まだ若いが、学校や生徒の信望厚い、腕利きの教官だ。

 彼が曙光丸の乗組員中、唯一の大人だ。

「実習中の事故は、教官の俺の責任だよ。お前らの成績が下がったりはしないから、心配すんなって、な?」

 まるで友達と話しているかのような、気さくな口調。それでいて、大人の威厳も兼ね備えている。

 そんな師を、ウィリアムは頼もしげに見つめ、一方、満と秀一は叱られた犬のように縮こまっている。

「こんな霧の中を、肉眼で進むのは危ねえし――しょうがねえ、霧が晴れるまで待機だな。ああ、端島と北条、他の船が通りかからないか、甲板で見ててくれるか? 霧の中悪いが」

「りょ、了解しましたっ!」

 これ幸いと甲板に飛び出す二人を、亮は溜息じりに見送った。それを自分に対するものと誤解したのか、ウィリアムが慌てて頭を下げる。

「す、すみません、教官。僕がちゃんと整備できなかったせいで――」

「いいって、いいって。そりゃ一人でやらされたんじゃ、見落としの一つや二つあって当然だよ」

「え?」

 もちろん、彼には全部お見通しだった。

「あの二人に、整備を押し付けられたんだろ、香坂?」

「あ、いや、その――」

 本当なら、班全員でやるべきことなのだ。責任と言うなら、あの二人こそ追及されてしかるべきだろう。

「あの二人にも困ったもんだな。船乗りに何より必要なのは、チームワークだってのに。お前も嫌なことは嫌だって、はっきり言わなきゃ駄目だぞ?」

「は、はい――」

 うつむくウィリアムに、苦笑する亮。こんな性格だからだろうか、生徒たちの中でも、彼には特別目をかけてきた。今では、二人は師弟と言うより、歳の離れた友人か、兄弟のような間柄だった。

(しかし、変だな――)

 沈黙してしまった機器を見て、亮は内心首をかしげる。曙光丸は普段から念入りに整備されており、事実、出航前は何の異常もなかった。

 にも関わらず、艦橋の機器類の全てが、同時に壊れるとは。

(ま、万全を尽くしても、壊れる時は壊れるか)

 亮の顔には、微塵みじんの動揺もない。嵐の海を三日間漂流したこともある彼にとっては、こんなもの、トラブルの内にも入らない――のだが。

 ちらりと横目で見ると、案の定、ウィリアムの青い瞳は、視界を閉ざす霧を不安げに見つめている。今にも霧を割って何かが出てくるのではないかと、恐れているかのように。

「あはは、やっぱり、海を甘く見ちゃいけないですね」

「――そうだな」

 亮が見ていることに気付いた途端、慌てて笑みを浮かべてみせたが、無理をしているのは明らかだった。何とか彼の不安を紛らわせられないかと思案した亮の脳裏にひらめいたのは、故郷の湘南の海だった。

 江ノ島を背景に、波頭きらめく湘南の海は、亮の原風景だ。

「なあ、香坂。俺の実家の話は覚えてるか?」

「あ、はい、確か代々船乗りの御家系でいらしたとか」

 いきなりそんな話題を振られて戸惑いながらも、ウィリアムは律儀に答える。

「ああ、それで一応、船を持ってるんだ。オンボロだけどな。で、今度の連休に、里帰りがてら、ひさびさに乗りに行ってみようと思うんだけど――良かったら、お前も来ないか?」

「え? いいんですか?」

 ウィリアムの少女のような顔に、霧も吹き飛ばしそうな笑顔が浮かぶ。

「ああ、お前に操船させてやるからさ。いい練習になると思うぜ。そうそう、海の近くだから、刺身も旨いぞ~」

「よ、喜んで! うわあ、楽しみだなぁ」

 そんな風に、亮がせっかく明るくした雰囲気を。

 突き上げるような衝撃が、跡形もなくぶち壊した。


 *


「どうした!?」

 甲板に飛び出した亮とウィリアムを出迎えたのは、狼狽ろうばいしきった満と秀一だった。

「わ、分かりませ――うわあっ!?」

 ぐらりと甲板が傾き、危うく満が海に転げ落ちそうになる。とっさに亮が腕を掴んで助けたが、傾きは一向に戻らない。

「何かに摑まれ!」

 生徒たちにそう指示し、自らは海に落ちないよう、慎重に船側を覗き込む。

 亮は目を見張った。

 鋼鉄製の船体に、直径一メートルにも及ぶ穴が開いている。

(何でこんな穴が――!?)

 まるで、魚雷でも打ち込まれたかのようだ。海水が轟々ごうごうと穴に流れ込んで――沈没は避けられない。

 亮は即決した。危機におちいれば陥るほど、冷静になれるのが彼という男だ。

「脱出するぞ、救命ボートの準備だ!」

 亮の一喝が、パニックに陥りかけていた生徒たちを、我に返らせる。

 見習いとは言え、生徒たちも船乗りの端くれ、救命ボートの使い方は学んでいる。

「よし、出すぞ!」

 四人を乗せた救命ボートが離れて間もなく、曙光丸は海底に没していった。

「みんな、怪我はないか?」

「は、はい!」

「しかし、一体、何があったんだ?」

 亮の経験をってしても、判然としない。生徒に操船させることを前提にしている曙光丸は、小型ながら頑丈に造られている。その船体に、あんな大穴が開くなど――。

「漂流物でもぶつかったんでしょうか?」

 ウィリアムの呟きに、すかさず満と秀一が反応する。

「ば、馬鹿言え! 俺らはちゃんと見張ってたぞ!」

「でも、何も見えなかったんだ!」

「べ、別に、端島君たちを責めてる訳じゃ――」

「分かってるって、喧嘩すんなよ。漂流物がぶつかったぐらいじゃ、あんな大穴は開かねえよ。多分、暗礁あんしょうに乗り上げたか、エンジンが爆発でもしたんだろう」

 そう言いながら、亮は自分の推測を、内心疑問に思っていた。この海域には暗礁などないし――そうでなければ、練習船の航路にはできない――、エンジンの爆発にしては、火も煙も出なかった。

「そ、それで、我々、大丈夫なんでしょうか?」

 秀一がおずおずと尋ねる。

(おっと、いけねえ。俺としたことが)

 一番優先すべきことを、後回しにしていたとは。さすがに、少し動揺していたらしい。

 優先すべきこと――言うまでもない。生徒たちを安心させてやることだ。事故原因の究明など、後でもできる。

「なぁに、心配いらねえよ。学校がすぐに救助を手配してくれるさ。位置も大体分かってるんだし、長くても一日の辛抱だよ」

 理路整然とした亮の保証に、ようやく生徒たちもわずかに緊張を解く。

「よし、一応、備品類の確認をしておこう。まあ、必要ないだろうけどな」

「はい!」

 乾パンや飲料水を数え始めた生徒たちを尻目に、亮は曙光丸が沈んだ辺りを悲しげに見つめた。

 まあ、船舶保険には入っているから、経済的損失は然程さほどではなかろうが――船乗りにとって、船はただの道具ではないのだ。

(生徒たちとの思い出が詰まった、大切な船だったのにな――)

 心の中でだけ、そっと涙を流した、その時。

(――!?)

「教官、備品は全部揃そろってます!」

 満が代表して報告する。

 しかし、返事はない。

「あの、教官?」

「そ、そうか、分かった」

 亮は息が詰まりそうになるのを、必死でこらえていた。

(何だ、今のは――)

 ほんの一瞬だった。しかし、確かに見た。

 曙光丸が沈んだ辺り、その波間の下で、巨大な影がうごめくのを。

 見えた部分だけでも、曙光丸と同じぐらいの大きさだった。

くじら――いや、の塊か?)

 理性は無難な可能性を並べるが、本能は猛然と反論する。あれは、そんな見慣れた海の住人ではない。だって、あれは――。

 ――こちらの様子を、じっとうかがっていた。暗い海中から、悪意に満ちた眼差しで。

 もしや、あれが曙光丸を――突拍子とっぴょうしもない所に走りそうになる思考を、慌てて引き戻す。

 だが、幸いにもと言うべきか、次の瞬間、それどころではなくなった。

「きょ、教官、あれは――!?」

 今度は、生徒たちから動揺の叫びが上がる。

「どうした?」

「前方に――何かが――」

 この霧の中でも、輪郭だけは分かった。

「船――!?」

 曙光丸とは比較にならない大きさだ。全長は100メートル近いだろう。圧倒的な威圧感を放っている。

「助かった!」

 すかさず、備品の中にあった信号銃を発射する。弾は霧の中でも明るく輝き、船の姿を照らし出した。

 ほぼ灰色一色の無骨な外観。あちこちから突き出している――。

(砲身? ということは、軍艦か?)

 動きは見られない。どうやら、停船しているようだ。

「運が良かったですね、教官!」

 ウィリアムははしゃいでいる。そう、それが当然の反応のはずなのに。

「あ、ああ、そうだな――」

 亮は素直に喜べない。彼の船乗りの本能は、すでに感じ取っていた。その軍艦が漂わせる、異様な雰囲気を。

 霧の海に静かにたたずむ様子は、まるで死者を迎えにやって来るという、三途さんずの川の渡し舟のようだ。

 しばらく待ってみたが、軍艦に反応はない。

「ま、まさか、気付いていないんじゃ――」

「ちくしょう、さっさと気付きやがれ!」

 苛立った満が信号銃を連発するが、状況に変化はなかった。

「しょうがない、もう少し近付いてみよう」

 万が一、急に相手が動き出した場合を想定して――あんなものに接触されたら、それこそひとたまりもない――慎重にオールをいだが、杞憂きゆうに終わった。

 軍艦は動くどころか、物音一つ立てない。海に建てられた壁の如く、ただ静かに亮たちを見下ろしている。

 近付くにつれ、船側に書かれた船名が見えてきた。英語のようだ。

(アメリカの軍艦か? 変だな、この近くを通過するなんて話は聞いてないが)

 船名は――。


 USS Eldridge DE173


「エルドリッジ!? フィラデルフィア実験の――!?」


 *


 フィラデルフィア実験エクスペリメント

 超常現象に興味のある人間なら、一度は聞いたことがあるだろう。亮たちも、合宿の怪談大会で聞いていた。

 第二次世界大戦の真っ只中の、1943年10月28日。アメリカのペンシルバニア州フィラデルフィアで、駆逐艦くちくかんエルドリッジを使って、大規模な実験が秘密裏に行われた。

それは、磁場発生装置テスラコイルを使って、エルドリッジを強力な磁場で覆い、レーダーに映らなくするというものであった。成功すれば、アメリカは海戦において、圧倒的に優位に立てるだろう。海軍上層部の期待は高かった。

 そして、実験当日。

 エルドリッジの船内に搭載された実験機器のスイッチが入れられると、強力な磁場が発生、同艦はレーダーに全く映らなくなった。

 実験成功。しかし、実験関係者たちの喜びは、次の瞬間、驚愕に変わった。

 海面から突如、発生源不明の緑色の光が湧き出し、エルドリッジを覆い始めたのだ。その姿は、見る見るぼやけて――何と、レーダー上どころか、現実の空間からも、完全に消えてしまったのだ!

 実験関係者たちは通信機でエルドリッジに呼びかけたが、応答はなく――どうすることもできないまま、数分間後。彼らは再び、驚愕の光景を目の当たりにする。

 再び発生した緑色の光と共に、エルドリッジが戻ってきたのだ。あたかも、消えた時の様子を、逆再生するかの如く。

 慌てて艦内に入った実験関係者たちが見たのは――惨状だった。

 体が燃え上がって火達磨ひだるまになっている船員。冷凍のまぐろの如く凍りついてしまった船員。体が甲板や壁と融合してしまった船員。肉体的には無事だった船員も、多くが精神に異常をきたし、エルドリッジの内部はまさに地獄絵図の如くであった。

 行方不明・死亡16人、発狂者6人。それが、実験の結果だった。

 海軍上層部は説明に困り――あるいは、純然たる恐怖ゆえか――実験を隠蔽いんぺいした。

 これが世に言う、フィラデルフィア実験の顛末てんまつである。


「でも、確かあの話は――」

「ああ、作り話だよ、もちろん」

 エルドリッジは実在する艦だが、後にギリシャ海軍に払い下げられ、1991年に役目を終えて解体された。その間、超常現象に見舞われたなどという記録は、無論ない。

 そもそも、超常現象・フィラデルフィア実験が世に広まったのは、1956年に作家モーリス・ジェソップの元に、カルロス・マイケル・アレンデという人物から手紙が送られてきたことに端を発する。

 手紙には実験の詳細が記されていたというが、おそらくアレンデは、海軍工廠こうしょうで様々な実験が行われていたという事実を元に、これらの逸話を創作したのだろう。むろん、ちょっとしたジョークのつもりで。

 世間一般の人々と同じく、そうだとばかり思っていた、亮たちの前に。

 エルドリッジの巨体は、冷然とそびえ立っている。

「ど、どういうことでしょう――?」

「ふふん、決まってるじゃないか」

 秀一がしたり顔で語る。

「きっと、ギリシャ海軍に払い下げられたエルドリッジは、偽物だったのさ。同じ型の艦は他にもあるだろうし、船名を書き換えるぐらい、アメリカ海軍の権限があれば何でもない。そして、本物のエルドリッジは、実際には二度とフィラデルフィアに戻ることはなかった――こうして、五十年もの間、海を彷徨さまよっていたんだ」

「そ、そうだったんだ!」

 と、まだ若くて、脳が柔軟な生徒たちは、あっさり納得しているが。

(おいおい)

 さすがに亮は大人。そこまで一足飛びに、常識の垣根かきねは超えられない。

(しかし、なあ――)

 目の前にEldridgeと名を刻まれた船が浮かんでいるのは、紛れもない現実なのだ。

「I'm sorry! Is there someone?」

 ウィリアムが英語で呼びかけてみたが、返事はない。

「誰も乗っていないんでしょうか?」

「みたいだな――」

 こんな大きな船に、見張りがいないなど、通常なら有り得ない。少なくとも、この船が完全に放棄されているのは、間違いない。

「す、すげえ! 俺たち、有名人になれるぞ! 伝説の船エルドリッジの発見者として!」

 満が興奮した様子で叫ぶ。さっきから黙っていると思ったら、そんなことを考えていたらしい。

「教官、乗り込んで調べてみましょうよ!」

 亮もエルドリッジに乗り移ることは考えていた。もちろん、満のような功名心からではなく、生徒たちの安全のためだ。

 救助が来るまで、長くて一日程度とは言え、その間に天候が悪化しないとは限らない。こんな小さなボートに揺られているより、頑丈で安定した軍艦の方が安全だろう。

 にも関わらず、亮はなぜか即答できない。何かが、引っかかる。

 原因不明の事故で曙光丸が沈み、そこへちょうどエルドリッジが現れた――まるで、悪しき運命が、自分たちをあの船へと、おびき寄せようとしているかのようではないか。

(馬鹿言うな、考えすぎだ)

「そうだな。無断で乗船するのは気が引けるが、緊急事態だ」

 自分では、使命を優先したつもりだったが。

 さすがの亮も、気付いていなかった。

 波間の下に見た、異様な影。もし、あれが姿を現したら――そんな不安が、己の判断に、わずかながら混じっていたことにまでは。


 *


 幸い、非常用の梯子はしごが下がったままになっていた。それを足がかりに、甲板に上がる。

 甲板に並ぶ砲身や機雷の発射機構は、どう見ても本物だ。映画のセットという可能性は消えた。

 それに加え、その表面はさびで覆われて、ぼろぼろだった。少なくとも、相当古い船であることは間違いない。

(本当に五十年間、海を彷徨っていたんだろうか?)

 だとしたら、こんな巨大な戦艦が、なぜ今まで発見されなかったのだろう。

(まあ、海は広いからな――いずれにせよ)

「この船の通信機が使えないかと思ったんだが、こりゃ無理っぽいな――しょうがない、ここで一泊か」

 正直、こんな所で寝るのはぞっとしないが。

「手分けして、休めそうな場所を探そう。1時間後にここに集合だ。ああ、それと兵器のたぐいには触るなよ」

「はい!」

 亮とウィリアムは、船体前部を担当することになった。二人きりになってみると、改めて周囲の静けさを実感する。耳に入るのは、波が船側に当たるちゃぷちゃぷという音だけ。50年前から、時が止まっているかのようだ。

(まるで、幽霊船だな)

 という感想は、胸の内にしまっておく。ウィリアムを怯えさせては悪いので。

 錆付きかけたドアをこじ開け、船内に入る。

 壁や床に、体が融合してしまった船員――あの一節が脳裏をよぎる。そのままの姿で骸骨になった彼らが、恨めしげにこちらを睨んでいる――そんな幻影を垣間見て、さしもの亮も冷や汗がにじんだ。

 もちろん、実際には何もなかったのだが。

(やれやれ、昔の船乗りは迷信深かったそうだが――俺にも、その血は流れているってことかね)

「――やっぱり、ちょっと気味が悪いですね」

「はは、まあ、ただでお化け屋敷に入れたと思えば、得した気分だろ?」

 潮風の影響を受けない分、船内は錆付いておらず、当時の面影を残している。食堂には食器が並んでいるし、ロッカールームには、船員の制服がハンガーに掛けられたままになっていた。この船に、大勢の船員が乗り込んでいたことは確かだが。

(船員は避難したんだろうか。でも、なぜ)

「きょ、教官!」

 反対側の部屋を見ていたウィリアムから、動揺の声が上がる。どう聞いても、さっきの軽口を真に受けて、冗談で言っている風ではない。

「どうした!?」

 続いて覗き込んだ亮も、呆気あっけに取られる。

「何だ、こりゃあ――」

 ドアにはRest room(休憩所)と書かれているが、中にはテーブルも椅子もなかった。がらんと床が広がるばかりだ。

 その床全体に、奇妙な絵が描かれている。

 円と四角を組み合わせた図形の中に、古代の象形文字をいくつも散りばめたような。

 魔方陣。西洋魔術などで、魔力を秘めると信じられた図形――だということは、かろうじて亮にも分かったが。

 それが戦艦の床に描かれている理由は、見当も付かなかった。


 *


 実験当日、エルドリッジの船内にはテスラコイルを始め、多くの実験機材が運び込まれたと言うが、それらしい物はいくら探しても見つからなかった。

 その代わり――と言っても、いいものかどうか。

「こ、ここにも――」

 休憩室だけではなかった。船内の至る所に、あの奇妙な図形――魔方陣が描かれている。

 それは、戦艦の無骨な内観と相まって、奇怪極まる光景になっていた。

「何のために描いたんでしょう?」

「さっぱり分からないな」

 やがて二人は、乗組員の寝室らしき部屋を見つけた。ボロボロの寝台が、ひつぎのように並んでいる。

(ん? これは――)

 寝台の横のサイドボードに、小さな手帳が置いてある。船員の私物だろうか。手に取った亮の目に、おそらく持ち主の名だろう、表紙に書かれた文字が飛び込んでくる。


 Carlos.Michael.Allende.


「カルロス・マイケル――アレンデ!?」

 フィラデルフィア実験の詳細を、手紙で密告したという人物だ。

「そうか、エルドリッジの船員だったんだな――」

 ぱらぱらとめくってみる。頻繁ひんぱんに日付が書かれているので、日記に違いない。この船で何が起こったのか、分かるかもしれない。

「香坂、読めるか?」

「や、やってみます」

 ウィリアムの細い指が、文章を慎重に辿たどる。

 最初の日付は1943年10月24日――フィラデルフィア実験が行われたとされる日の4日前だ。


 ――1943年10月24日。

 実験の準備が始まる。しかし、上層部は本気なのか? これでは、我がアメリカも、オカルトに傾倒しているというヒトラーを笑えないではないか。


 流麗な筆跡だ。亮にも、筆者アレンデの教養の高さはうかがい知れた。個人的な日記とは言え、いい加減なことを書く人物ではなさそうだが――。


 ――1943年10月25日。

 船内のあちこちに、魔方陣が描かれた。何でも、ミスカトニック大学が所蔵する、ネクロノミコンとかいう魔道書を参考にしているらしいが。魔道書――そんなものが実在するなんて、始めて知った。


「あの魔方陣は、実験で描かれたのか――」

 エルドリッジ内で実験が行われたのは、事実だったらしい。

 だが、用いられたのは、テスラコイルではなく――あの魔方陣だったというのか。


 ――1943年10月26日。

 実験で詠唱えいしょうする呪文を練習させられた。ざいうぇそ? うぇかと・けおそ? 私は辟易へきえきしていたが、我が愛しのエミリア・ハーバー従軍看護士は、結構面白がっている。成功したら、最高のハネムーンになるわね、と。


 この船には、アレンデの婚約者も乗っていたらしい。

(ちぇ~、羨ましいこって――いやいや、そんなことはどうでもいい)


 ――1943年10月27日。

 明日はいよいよ実験本番だ。何でも天体が、儀式を行うのに最も適した配置(太陽が第五の宮に入り、土星が三分の一対座になる、だったか?)になるらしい。まあ、何も起きるはずもないが――。


「時期は、完全に一致してますよ。やっぱり、フィラデルフィア実験は本当に行われていたんだ!」

「けど、なあ――あんな落書きで、何ができるって言うんだ?」

 わくわくしているウィリアムには悪いが、亮はアレンデと同意見だった。

 だが、ページをめくった途端。

(!?)

 二人は、全く同じ表情になった。すなわち、当惑の表情に。

 ミミズがのたくったような字が、ちぐはぐに並んで、かろうじて文章を形成している。英語が読めない亮の目から見てさえ、前ページまでとの落差は明らかだった。


 ――1943年10月28日。

 何が起こったんだ――魔方陣を囲んで、例の呪文を唱えていたことまでは覚えているが――みんな、いなくなってしまった。

 ここはどこだ――フィラデルフィアにいたはずなのに――一面の霧――レーダーは作動しない――通信機に呼びかけてみたが、応答はない。

 不幸中の幸い、エミリアは無事だった。少し具合が悪そうだが、外傷はない。あいにく彼女も、何が起こったのかは知らなかった。

 救助艇はあるが、ここがどこかも分からないのに、漕ぎ出すのは危険だ。相談の結果、船内に留まって救助を待つことにした。幸い、食料は十分ある。神よ、我らを守りたまえ。


 *


 ちょうど、その頃。

 満は秀一を従え、意気揚々と船内を闊歩かっぽしていた。

「へへ、やべーよ、やべーよ、テレビの取材とか来ちゃったりして――」

 すでに彼の頭の中には、エルドリッジの発見者として、マスコミのインタビューに応じている様子が浮かんでいるらしい。

 そんな調子だから、気付けるはずもなかった。

 薄闇がよどむ通路の奥を横切った、かすかな影に。

(う?)

 下半身に緊張を感じる満。昨夜、こっそり飲んだビールのせいだろうか。

「おい北条、便所ねーか?」

 自分で探す気など、毛頭ないらしい。

「は、はい、えーと――あ、あそこにありますね。でも、多分水は出ないですよ」

「構いやしねーよ、ちょっと待ってろ」

 慌てて駆け込み、鏡の前を通り過ぎようとした、その時。

(え?)

 凍りついたように、足が止まる。

 本能が激しく訴えている。鏡を見ろ、鏡を見ろ――。ぎぎぎと、錆付いたロボットのような動きで首を捻り、鏡を見ると――。

 自分の顔のすぐ横に、半透明の青白い顔が映っていた。

「ひっ!?」

 しゃっくりのような悲鳴を上げ、弾かれるように振り返ると。

 何もない。

「な、何だ、脅かしやがって」

 ガラスの曇りが、人の顔に見えたのだろう。

(周りに誰もいなくて良かったぜ)

 乱れた呼吸を整えながら、鏡に向き直り。

「!」

 息が止まった。

 鏡から、半透明の上半身が生えていた!

 そう、あの顔は、満の背後を写した鏡像ではなく、だったのだ。

 Help――Help me――地獄の底から響くような呻きを上げながら、半透明の両腕で満にすがり付こうと――。

 ――――。

「あ、あのー、まだですか~」

 数分後、待ちかねた秀一がトイレを覗き込んだが。

「あれ? 端島さん、どこですか?」

 返事はなかった。

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