第16話 小椅子の聖母 ラファエロ
こちらを見る、まだあどけなさを残した高貴な顔立ちの若い女性。その腕に抱かれた、丸々とした赤ん坊も、こちらを向いている。その瞳は赤ん坊にしては知性に満ちていて、こちらの心を覗き見るかのようだ。
聖母マリアと、幼児キリスト。
小椅子に座った彼女と、彼女に抱かれた彼は、まっすぐに、じっとこちらを見つめてくるのだ。なんだか、ちょっと怖い。それでいて安心感もあるのはなぜだろう。もしかしたら、このふたりは、あなたのことはちゃんと見守っていますよ、という言葉をかけてくれているのかもしれない。
二人を見上げる敬虔な者が右にいる。幼児洗礼者ヨハネだ。
彼の指は憧れに組まれている。
そして、瞳は黒々と、ふたりを凝視しているように見える。その唇には笑みがない。まるで、畏れ崇めている対象に向かって笑顔は必要ないとでも言うように。幼児がである。異常である。しかし、その異常は画面の中では当然のものとされている。なにしろ聖なる母と、みどりごイエスなのだ。どれほど崇拝され、尊崇されても足りはしない。
聖母子の瞳の中にも、優しさとともに厳しさがある。だから少し怖いのだ。
あなたの罪を打ち明けよという迫りを感じる。しかし、それでもこの母子は優美だ。やわらかな肌の質感に、あたたかな衣服やベールなどの量感。
なにより優美な二人の顔立ちに、峻厳なヨハネの表情の印象をも和らげる力がある。
ラファエロ・サンツィオ。
1483年、イタリアのウルビーノ公国に生まれた画家、建築家。
父はウルビーノ公宮廷画家だったそうです。
その父は、ウルビーノ公フェデリーコ3世の生涯を物語る韻文詩を書きあげるほど文筆に造詣が深く、宮廷の出し物として上演される仮面劇の脚本と舞台装飾を手掛けることもあったといわれています。
ラファエロ自身は、非常に早熟で天才肌の少年になり、すくなくとも8歳で画家ペルジーノの工房に弟子入りしたという記録もあるほどです。いくらなんでも早すぎるとして、この説は殆ど否定されていますが。
ウルビーノ宮廷は芸術よりも文学の中心地で、ここでラファエロは洗練されたマナーと社交的性格を身に着けていったのだと、伝記作家ヴァザーリは記しています。
育ちというものは大したもので、ラファエロは生涯において上流階級との交際が巧みでした。なにしろ枢機卿の姪と婚約していたほどなのですから。
しかし、彼自身は婚約に乗り気ではなかったといわれています。
それは、ほかに愛する女性がいたからだという説が濃厚ですが、自らが枢機卿になりたかったからだという説もあります。カトリックの宗教者に妻帯は御法度ですから。
結局、婚約者マリアは結婚を待たずに亡くなり、彼も誰を娶ることもなく37歳にして亡くなったので、幸いにして不幸な結婚は免れました。
ラファエロの死因。
それは、恋人のパン屋の娘、マルガリータ・ルティとの過度な情事が原因で罹患した熱病、だそうです。
そして、医師に正確な病気の原因を話さず、適切な治療を受けられなかったからともいわれています。
まあ、彼には嫉妬する敵も多かったでしょうから、どこまで真実かわかりませんが。
壮麗な彼の葬儀で、最後まで棺に寄り添って泣いていたのが、マルガリータであったという話も、あるとかないとか。
最後に、ラファエロの遺体が納められた石棺に刻まれた、ピエトロ・ベンボによる哀悼詩をご紹介しましょう。彼という芸術家をこれ以上ないほど的確にうたっています。
『著名なラファエロここに眠る。
生前には万物が凌駕されることを畏れ、
死ぬ間際には万物がその死を恐れた』
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