イタコ・イノセンス
公的抑圧
イタコ・イノセンス
青森県。恐山。岩肌がむきだしになった中、登山者が軽い気持ちで行くと滑落してしまうであろうような、随分と不安定なところにそれはあった。祠だ。古くからあるような祠の中に、少女の写真が一枚置いてあった。写真の中の少女は軽く笑みを浮かべ、目を細めてこちらを見ている。美形だった。鼻筋がスっと通り、輪郭もシャープで、どことなく知性を感じさせるような感じをしていた。祠に止まったカラスが泣いている。
祠の前に、老婆が座っていた。紫色の着物を着こみ、数珠を握っている。目を瞑り、呪文を唱えていた。
「ようやく、ようやく叶うんだよ」
老婆は涙した。皺くちゃの顔や身体から出るとは思えないほど美しく透明な涙だった。そういって数珠を祠の中に放り投げると、祠が白く大きく光る。人が、立ち現われてきた。
昼過ぎ。西に傾いた陽の光が住宅街に差し、路に影を作る。少し進めば大通りに出ようというような、細い路上に井上凛子は立っている。車の走る音が彼女の後ろで聞こえる。
「危ないから下がっていてください!」
周りに群がっている野次馬に向かって叫ぶ。主婦。学校が少し早めに終わった小学生。窓から覗き見る引きこもり。あるいは──視認できないだけの霊の数々。だが、目の前にいた悪霊は彼女の目にはっきりと見えた。野次馬達に見えるかどうかは分からないが。
悪霊は小さな男の子の姿をしている。戦闘能力はない。大丈夫。周りのオーラの色は黒。しっかりと手順を踏めば、成功する。一人だってやれるってことを見せなくちゃ。
凛子はホルスターからゴーストバスターサイコガンを素早く抜いた。野次馬がおおと声を漏らす。好奇の視線に晒され続けているのをこらえながら、ゆっくりと男児の姿をした悪霊に照準を合わせる。発射。シュッと音がして路上にいた悪霊が成仏した。少しだけ硝煙のにおいがする。凛子はそのにおいが好きだった。肩に垂れた髪を束ねようとして、自分はもうショートカットなどということに気付く。公務員だから髪の色は黒。以前にも染めたことはない。そういう世間の関心からは疎い存在だった。大きく少し茶色がかった瞳で辺りを見回し異常がないことを確認する。
ゴーストバスターサイコガンをホルスターに提げると、腕の端末から機関にアクセスする。時計型の端末だから自分の腕を見なければいけなかったが、凛子はこの腕や身体を纏う機関の制服が好きではない。黄色を基調としながら、やたらと大きくてかさばるブレザーと少し丈が長すぎて昔みたいな雰囲気を醸し出すスカートは、戦闘態勢になると身体に巻き付けるようにタイトなボディスーツになるが、それは身体のラインがでかでかと出ていて、女性からの評判は尽く悪い。凛子は、このスーツを最初に考案した人間は確実にセクハラ魔だと思っている。
「はい。こちら第一課第三係の小林です」
「井上です。終わりました。今からそちらに向かいます」
「はい、ご苦労様。井上さん、一人でやるの初めてでしょ? ちゃんとデータ引っ張ってきてね。よろしく」
「わかりました」
通話を切ると、霊の残滓を計測し、ファイルに記帳。戦闘モードが解除されていつもの制服に戻る。その後、タクシーを拾って機関へと帰った。
諸説が分かれているが、幽霊の存在を認知する人の数が爆発的に増え、学術的にも行政的にも対応せざるを得なくなったのは二〇二〇年の夏、東京オリンピックの直後あたりからだったとされている。一番最初に幽霊のことを視認できた人間は確認されていないが、同時発生的に、爆発的な規模で幽霊はこちらの世界に顔を覗かせてきた。そして、イギリスの学者グループがゴーストワンと名付けた男の幽霊との対話に成功したと発表した。これには全世界が震撼した。あらゆる特集番組が組まれ、各国政府も声明を発表。分野をまたいでいくつかの学問分野は混沌に陥り、ことは当然宗教問題にも及んだ。
次にこの論文と同じやり方で幽霊との対話に成功したのは中国の学者グループだった。彼らはイギリスのグループよりも詳細に対話の仕方をリポートした。これによって次々と幽霊との対話に成功するグループが現れた。彼らと幽霊の対話に共通する話題は霊界と霊媒の存在だった。
幽霊の登場は軽くパニックを引き起こし、すぐさま幽霊学という新たな学問ジャンルが誕生し、その熱狂は知識階層以外の人々にも受け入れられた。だが、最初の幽霊登場から今はもう半世紀が経っている。幽霊との共存とまではいかないまでもお互いがお互いを認知している状況は、当たり前のこととなっている。
「お疲れ様です」
鈍色の鉄筋コンクリート製の高さ十階建ての機関のビルの前に、ヨレヨレのスーツを着た初老の男が立って凛子を待っていた。小林だ。タクシーから降りた凛子はその姿を見つけると駆け寄って頭を下げる。凛子はきょう初めて一人で悪霊を退治した。男児の幽霊とはいえ、何の外傷もなくその任務を終えたことは褒められてしかるべきことだった。談笑する職員や一人物思いに耽りながらタバコを吸っている職員もいる屋外から、一気に雰囲気の変わる庁舎内へと二人で入っていく。光がいい塩梅で機関の中へと入って来て、雰囲気は明るい。だが、人の顔は笑ってなかった。むしろその逆。あるものは疲労困憊で表情を失い、あるものは逆に常に憤然として、あるものは今にも自殺を決行してしまいそうな顔をして、あるものはついに壊れはじめて回転する椅子の上に乗ってぐるぐる回りながら瞑想を続けていた。どれもこれも、最近急激に増え続けている悪霊出現報告の対応に追われていることが原因だった。職員の数は増えないが、報告は増える一方だ。
一般の来訪者向けのエントランスを通り抜けて、エレベーターに乗り込み、自分たちのオフィスである七階に辿り着いた。扉の外は、一階と同じ様子か、更にひどい格好が繰り広げられている。地べたで寝ているもの、水しか入っていない金魚鉢に話しかけ続けるもの、狂気の波に乗ってサーフィンをしようと勤務中から酒を飲むもの、凛子の目の前を横切ったのはフロア内をスキップで移動する人間の姿で、第三係の札が下がっているデスク周りには並んだモニターとデスクトップパソコンの筐体の上で器用に寝ている人が見えた。
「うわあ、なんですか、これ」
凛子は少し後ずさって言った。恐怖と憐憫がごちゃ混ぜになっている。悪霊を退治する人間が悪霊そのものになりかけている光景を見ていた。凛子の隣に立ち同じ光景を見ている小林は、微笑みを崩さずにこう言った。
「うん、みんな疲れてるからね~。外勤の人も疲れてるだろうけど、通報や報告を処理して書類を整備して予算を引っ張ってくるのはこっちの仕事だしね。それに今国会中でしょ? 今度の長官があんまり使えそうにないんでてんやわんや。おまけにここ一週間で報告と通報の量が十倍。ってことは始末書の数も十倍。この現象の解き明かすための予算がないから、余計慌てる。結果ダメになる」
「中がこんなことになってるなんて、知りませんでした……」
「いやあ、知らなくていいと思いますよ。外と内とでわけないと、お互いにストレスがかかるだけでしょ」
国家公安委員会直属幽霊機関、通称機関は、四半世紀ほど前に成立した。霊の存在が認知されるようになって、悪霊と呼ばれる霊の干渉も増えた。それに対処し霊の魂を正しく霊界に導く──というのが大義名分だったが、実際はこれは任務の一部分に過ぎず、実際は幽霊学のマッドサイエンティスト達が集まっていたり、霞が関の権力闘争から敗れたものたちの吹き溜まりだったりしていた。機関の代表は政治家が勤めるようになっており、慣例的に長官と呼ばれている。正式名称は長すぎて誰も覚えてない。
世界には悪霊が存在する。悪霊は呪いを仕掛け、人々を死に至らす。それを防ぎ、地域の悪霊の残滓も回収し、呪いの最小化や快癒を施す……というのが、凛子が勤める外回りの仕事だった。そのため、警察官や自衛隊と比べても危険度の高い職業ではある。悪霊に憑かれないための防御スーツ──原理は凛子にはよく分からない。機関の研究部門の連中が何かを早口でまくし立てていたが、三角関数で理系科目からドロップアウトした凛子にはついていけない会話だった──、ゴーストバスターサイコガンというふざけた名前の武器は銃の形をしているが銃ではなく、使用者の霊能力を最大限発揮して悪霊を消滅させる特殊な念波を出す武器だった。
凛子は霊能力者だった。機関に勤める者は霊能力者であることが求められている。すくなくとも、外で実際に霊と応対する人間には霊能力が必要だ。霊の出現とともに一部の人間に発生した霊能力は、その後幽霊が見えるなり対話できたりというのを、科学的なプロセスを抜きにして実現することができた。霊能力者の数はそこまで多くはないが、しかし霊能力がない一人ひとりに科学的なプロセスを経て霊を可視化し霊と対話する機械を与える予算はどこにもなかった。
凛子は屋上で缶コーヒーを啜っていた。青い空がパノラマのように広がっている。雲がない。どこかで鳥の鳴く声がする。遠く離れた下界ではエンジンの音とサイレンとクラクション。最近飲めるようになったコーヒーが妙に心に落ち着いていい気持ちだった。中の閉塞感がいやになって外に出てきた。内側からゆっくりと気狂いしていく光景を凛子は散々見てきたが、ついにそれが表にまで出てきたということだ。気狂いは感染すると凛子は信じているし、自分の気まで狂わせるつもりは毛頭ない。
屋上のドアがギーっと開いて男が一人出てきた。短髪で揃えた黒い髪。凛子と同じような黄色の制服。走りやすいようなランニングシューズ。気怠げな視線を一度中空へ投げかけると、先客だった凛子に向けた。
「あ、青山先輩」
凛子の先輩である青山は機関の第一課三係の所属で、つまり凛子と同じチームだった。先ほど凛子が職場を見た時にはいなかったから、今外回りから帰ってきたということだろう。青山はタバコを一本取り出すと、
「吸うか?」
凛子にそれを向けた。
「私は大丈夫です」
では遠慮無く、と漏らした後、青山はそのタバコをくわえて火を点けた。煙が漂う。一度、大きく煙を吐き出す。五分ほど経った後吸い殻を灰皿に投げ捨てる。青山は凛子の方に再び向いた。
「お前、非番の時とか勤務時間終わった後、何してんの?」
青山は唐突にそんなことを言い出した。あまりに突然だったので、凛子は持っていた缶コーヒーを落としかけた。缶の中でコーヒーが大きく波打った。
「すみません、私まだデートとかそういうのは……」
今度は青山が驚く番だった。大きな声を上げて笑うと、手を胸の前で左右に振りながら二本目のタバコを取り出す。
「違うよ。そんな意味で聞いたんじゃなくて、時々連絡つかないでしょ? 緊急任務とかが入ったら困るなあと思って。いや、プライバシーは尊重しないといけないから言いたくなけりゃ言わなくてもいいけど、その場合は連絡できる手段を持っておいてくれって話」
一息にそう言うと、相手の返答を待った。凛子はしばらくポカンとしてから、そして少し恥ずかしげにこう口にした。
「しゅ、修行に……」
「何の?」
「イタコの……」
「はあ?」
凛子はそう言った後、人間というのは驚いたり理解を拒むものが現れたりすると本当に口を開けてしまうのだなと、青山の顔を見ながら思った。青山も、タバコを口にくわえてなくてよかったと思ったが、細長く伸びた灰はコンクリートの上に落ちた。
「イタコってお前、あんなのもう絶滅したと思ってたよ」
「ああ、いや、私の家系は代々女はイタコになる家系でして……私は眼が強いのでイタコではなくこっちに来たわけですが……」
「眼が強い?」
「イタコは眼が弱い女性の方がなりやすいんです。私は眼が──視力があったので、まあでも霊能力はあるし、私はイタコとして活躍された母や祖母をすごく尊敬しているので、修行を……」
「でもイタコたって、今じゃ非科学的だしなあ……悪霊退治もできるかどうか分からんし、幽霊学に基づいた機関の方が有効性はあるだろうな」
「い、いや……」
「ん?」
「なんでもないです……」
凛子は缶コーヒーの残りをすべて飲み干すと、それをゴミ箱に捨てて屋上を後にした。イタコのことを馬鹿にされて怒っているわけではなかった。ただ、イタコの家系であることや自分もイタコを目指していることを打ち明けると、いつもこういう反応をされるし、そのたびに辛さや苦しさが混じった複雑な気分になる。すくなくとも、今、屋上という空間で青山と二人っきりでいるのは難しかった。彼が悪いのではない。世間一般のイタコに対する無知が悪いのだと思った。
幽霊学の誕生以前から降霊術を用いて幽霊を呼び出し対話を重ねてきたイタコは、今では非科学的な存在だと思われている。幽霊学が発達し幽霊のことを誰もが「存在はする」と認識した今、あえてイタコを使って幽霊との対話をするという手段を選ぶ人は激減した。そのため、青山のようにイタコなどというような、幽霊学に頼らない既存の霊能力を用いる者は絶滅したと思うものも多い。
凛子がイタコになりたいのは家系の問題というだけではなかった。彼女の祖母もイタコだった。イタコは闇の中で悪霊退治をするイタコ悪霊暗殺部隊という組織があるのだが、祖母はその部隊でも最強だった。いわば、最強のイタコだったのだ。彼女はその祖母に憧れている。病気により引退した今も、時折祖母のもとへ赴いてはきつい修行をしていた。悪霊退治をするイタコというのは珍しかったが、そのぶん高度な霊能力と技術を必要とするのだ。
屋上のワンフロア下、階段のすぐ脇の壁にもたれかかりながら祖母からもらったペンダントを見ていると、腕時計型端末が震えた。緊急任務、ライトの色は赤だった。
その悪霊は今までのどの悪霊とも異質な存在だった。通常の悪霊は、現世の姿形そのままで現れ、それにオーラがまとわりついている、というようなタイプだが、その悪霊は何もかも違っている。まず、大きかった。十階建てのビルをしのごうかというほど巨大で、性別が分からなかった。身体から白い光を出していたからだ。これがもしオーラだとすれば、それは観測史上類を見ないオーラの形だった。
現場に駆けつけた機関の外周りのメンバー達は、まずその大きさに圧倒された。周辺住民は全員避難させた。瘴気が昇華して危険な状態になっていることがひと目で分かった。
「な、なんすか、あれ……?」
誰かがそう言った。悪霊には見えなかった。怪物か神か。「彼」が腕をビルに向かって振り下ろした。ビルは崩れはしない。彼の拳はビルをすり抜けていくだけだ。だが──
霊能力者にとって、その攻撃は絶大なダメージを与えた。とてつもない瘴気の塊が津波のように襲ってきた。飲まれたものはその場に伏せた。嘔吐するものもいた。恐れて逃げ出すメンバーを背後から叱咤激励する人間も、二度目の攻撃で恐れをなして後ずさりを始めた。息絶えて路上に並ぶ鳩の死体にかかる吐瀉物の異臭が漂う。
しかし、凛子だけは、凛子だけはゴーストバスターサイコガンを手にしている。照射。照射。虚しく光に吸い込まれていくだけの念波を視ながら、だが凛子は諦めなかった。瘴気の影響を受けにくいビルの影に身を隠し、走りながら照射。
側にいた青山が凛子の腕を掴んだ。青山はホルスターからゴーストバスターサイコガンを抜いていなかった。瘴気の嵐から隠れるように身を隠すようにビルの脇に身体を隠す。
「ここは一旦逃げるぞ」
「でも、ここで放っておいたら」
「バカヤロウ! こんな状況じゃ敵いっこない。体制を建てなおさないと無理だ! 立て、逃げるぞ」
「私は戦いたいんです!」
「周りを見ろ! 倒れている隊員がどうなってるのか。残って戦っている隊員がどれだけいるのか。これにその些末な銃一つで立ち向かうのは蛮勇って言うんだ!」
凛子は眼が覚めたように正気に戻った。辺りには倒れながらなお嘔吐し続けるもの、這いずりまわりながらなんとか逃げようとするもの、放心状態になって光の巨人を見ながら呆然と立ち尽くしているもの、腰を抜かして地面に座り込み、泣き叫びながらゴーストバスターサイコガンを照射し続けるもの。
正気を保って戦い続けている隊員は誰一人いなかった。みんな、力の圧倒的な差に恐怖し、どこかへ行ってしまった。味方になって戦ってくれる人はどこにもいなかった。尊敬する青山も無理だと言っている。凛子は決断しようとしていた。撤退は臆病なことではない。いや、臆病と罵られながらも自分達の仕事をこなすべきだ……。
「待ちな!」
声が聞こえた。低くしわがれているがよく通る声だった。声の主を見た凛子と青山は驚愕した。街路に立っているのは和服姿の老婆だった。身長は低く、腰は折れ曲がっている。杖を付きながらこちらへと歩いてくる。悪霊に負けないほど存在感のあるオーラを放っている。
「トクさん!」
「凛子や、諦めてはいかん。イタコの力を思い出すんだ。今まで何のために修行してきたんだい」
「でも……」
凛子は言いよどむ。時の流れが一瞬止まる。こんな場でイタコとしての力を使っていいのか? いや、そもそも、自分にイタコとしての力など備わっているのか? 青山が叫ぶ。街路に出てきた時に巨人の瘴気に圧倒され、地面に這いつくばっている。
「そうだ! イタコなんてものは信用出来ん!」
「黙れ小童! そこまで言うなら見せてやらんこともないわい」
トクさんが怒鳴った。長い髪が震え上がる。凛子を諭していた時とはまるで違う眼の色をしている。杖を一度振り下ろす。アスファルトとぶつかってコツンと音が鳴る。ビルの影、街路樹の上、屋上、車の中、地下鉄へと通ずる階段、窓ガラスを突き破るもの。あらゆる街の影から、イタコたちが浮かび上がってくる。これは幻覚か? 大勢のイタコが、トクさんと同じ格好をしたイタコ達が現れてきた。その数、千。
「い、イタコ千人軍団……?」
「そう! 我らはイタコ千人軍団!」
声がこだまする。イタコ達が飛び立つ。比喩ではなく、本当に飛んでいる。霊力を駆使している。それは幽霊学に基づいたアカデミックな方法で再発見された霊力ではない。彼女たちが数千年に及ぶ歴史の中で生み出してきたアナログな霊力だった。だが、この老婆ども、なかなか一筋縄ではいかない……。
イタコ千人軍団とは、イタコの中でも悪霊退治などに特化した戦闘型のイタコによって編成された部隊であり、その起源は中世、鎌倉末期ほどまで遡れる。千人ほどしかいないイタコ達の結束力を高め、お互いを鼓舞しあう。悪霊を退治するということは、現世と霊界の関係をつなぎとめることでもある。霊界からの過度な干渉をはねのけ、現世からの霊界への過度な干渉もはねのける。秩序と混沌を監視する。時に討伐する。それがイタコ千人軍団である。そして、そのイタコ千人軍団を編成するイタコ達によって選ばれる軍団のリーダーが最強のイタコとなる。かつては凛子の祖母がそうだったし、今ではトクさんが務めている。
そう、トクさんは最強のイタコである。イタコの力を最大限引き出すことにより、自分を最強のイタコにした。
今、巨人に向かって千人のうちの百人ほどが飛び立った。百人のイタコ達が自分達もそのオーラによって光と同じような形になりながら、巨人を翻弄する。巨人は光に向かって拳を振り下ろすが、そのあまりにも緩慢とした攻撃はイタコたちにかすりもしない。だが、このイタコ達、空を素早く動くことに霊力を引き出しているからか、巨人に対して攻撃はできない。あくまでその使命は陽動と翻弄にある。では、残りの九百人は何をしているのか?
「一号用意!」
「用意!」
トクさんが叫ぶ。数百人にも渡るイタコの行列がえっせらほっせら言いながら筒を担いでいる。退魔専用霊媒大砲一号。筒のなかに巨大な霊力を込め、それをイタコ達の霊力によって押し出し、相手にぶつけるという至極単純な武器だ。だが、その威力は絶大。
「用意完了!」
誰かがそう告げると、トクさんは大きく目を見開いた。総勢五百二十八人のイタコの霊力が一気に結集する。筒が青白く光る。そのオーラに反応してか光の巨人もこちらを向く。オーラを潰そうと手のひらでそれを押しつぶそうとする。そのタイミングに合わせてトクさんが叫ぶ。
「発射!」
一筋の光が空を切り裂いて光の巨人に命中する。青白い稲妻を引き連れて。幾重の怨霊の叫びを響かせて。祈りにも似た絶叫が巨人を貫き天を駆け上がる。矛先が見えなくなっても道筋だけはくっきりと空中に浮かんでいる。凄まじい霊力のぶつかり合いのかすかな残りかすが辺りをうろつく。冥府の門が強引にこじ開けられた。
巨人が仰向けにゆっくりと倒れ込む。倒れこんだ時の凄まじい瘴気の衝撃が辺り一帯を包み込む。イタコの何人かが余りの羞悪さに顔を背けた。光の巨人の胸には大きくぽっかりと穴が空いている。その周辺部で気泡が生まれてははじけている。
「続けて二号!」
続いて三百人ほどの行列がわっと湧いて出てくる。一号の行列の間から間欠泉のように出てきたかのように。彼女達も筒を持っている。先程よりも細く短い二号が姿を表した。すでに準備万端、こちらも青白く光っている。さあっと一号の行列が退いていく。自分達の霊力が干渉しあわないように。
「発射!」
塊が撃ちだされた。巨人の頭がはじけ飛ぶ。閃光が満ち溢れんばかりに流れ出てきて、洪水のように瘴気とそれを浄化する霊力とが混ざり合ったオーラが街を飲み込んでいく。
物陰に隠れながらなどしてその洪水をやり過ごす。しばらくすると、巨人の瘴気が完全に消えた。彼の体がどくどくと溶け始めている。その場に残っていた機関の職員や、イタコ達が巨人を倒したとの報を受けて現場に戻ってきた職員たちが、必死にその残滓をかき集める。
「凄いですね……」
凛子がトクさんに話しかける。残滓はもうない。街に瘴気は一つも残っていない。職員たちは大喜びしている。泣きながら抱きしめあうもの、お互いにねぎらいの言葉を掛けあうもの。依然として体調の悪い職員を介抱するもの。イタコに頭を下げるもの。
「ま、イタコにかかればこんなもんさね、どうだ、恐れいったか」
しかし、語りかけられた青山は呆然として、巨人が倒れた跡を眺めている。その様子を訝しんだ凛子とトクさんが視線の後を追う。その先にいるのは、ふつうの人間に思えた。だが、よく目を凝らすと……彼の全身は青白く光っている。青山が後ずさりして叫んだ。
「まだいるぞ! 悪霊はまだ生きているぞ!」
青山の人差し指の先を追う職員やイタコは次の瞬間には騒然とする。しかし、人間サイズであればなんてことはない。一人の職員がゴーストバスターサイコガンを手に立ち向かった。そして吹き飛ばされた。血を吹き出しながらガラスを突き破りビルの中へと飛ばされた。
悪霊が物理的に干渉してくる。今までなかった事態に恐怖する職員達。瘴気の波がうねりとなってやってくる。理性をも侵そうとする瘴気に対抗する術を持たない職員らが逃げ出す。イタコ千人軍団も。彼女達はすべて、先の陽動と一号と二号に体力も霊力も吸われている。中には対抗するものもいた。だが、その瘴気に触れただけで、その場に倒れこむものがほとんどで、運良く気を確かに持てていても、次に触れると死ぬという恐怖が、本能が起きて、一目散に逃げ出す。
辺りは再び無人状態となった。静寂に包まれる街。ゆっくりではあるが確実に歩みを進める悪霊。
そして、凛子と──最強のイタコ。
「やれやれ、こうなってしまっては仕方がないねえ……凛子、下がってな」
トクさんが一歩前に進み出ると、ついてこようとする凛子を手で制止した。
「トクさん……!」
「見てな、イタコの戦いってのは本来こうやるんだ」
会話が終わるのを待っていたかのように、悪霊はいきなり走りだした。高速で間合いを詰めようとする悪霊に向かって杖を向けるトクさん。
「破!」
光弾が悪霊めがけて数発飛んで行く。それらを紙一重のところで躱しながら、悪霊は大きくジャンプした。トクさんの真上を取る。瘴気を固めて出来た剣をトクさんめがけて振り下ろす。杖で受けるトクさん。悪霊の股の下を、地面を滑るようにして潜ると背後を取る。再び光弾。背中からまともに受けた悪霊は、浄化に耐え切れず霧散する。
「凄い!」
凛子が大声で老婆の戦いを湛えた。だが、トクさんは気を抜いていない。一瞬凛子の方を向くと、
「まだ終わってない! 危ないから下がってな!」
そして、また集中を研ぎ澄ます。ビルの影から再び悪霊が、先ほどと同じ瘴気・オーラを纏った悪霊が出てきた。トクさんを見つけると、剣を影から取り出して走る。
──おかしいな、誰が操ってるんだ?──
トクさんは先程までの疑問を確信に昇華していた。一号と二号をまともに喰らっておいて、ここまでの瘴気が残っている訳がない……誰かが必ず悪霊を操っている。しかも、自分と同じくらいの霊力の持ち主で手練だろうとトクさんは睨んでいた。悪霊の瘴気の切っ先が和装の切れ端を掠め取る。霊力を込めた膝蹴りを、腕を伸ばしてがら空きになっている悪霊の腹に決める。やはり、悪霊が物理的に干渉できるのであれば、人間が悪霊に物理的に干渉することも可能であるというトクさんの読みは当たっている。
「これで二体目か!」
予期せぬ攻撃に一瞬フリーズした悪霊の隙をトクさんは見逃さなかった。悪霊の体を真っ二つにするように杖が振り下ろされる。霧散。影、這い出る悪霊。
「そこか!」
悪霊が振る剣を躱そうとジャンプしたトクさんは、瘴気の淀みを確かにとらえた。杖の先から細長い光が高速で飛び出る。巨大に伸びた刀剣。それが、真正面にあったビルの側面部に出来た影をめがけ、悪霊ごと叩き切った。間一髪で断ち切られるのを回避した瘴気が逃げる。空気が揺れる。逃げられると分かっていながらみすみす逃がすトクさんではない。その長大な剣をもう一度振り下ろした。瘴気の膜が破り取られる。瘴気は実態を顕す。空中に浮かんでいるのは、トクさんと同じくらいの歳をした老婆だった。こちらもまた、イタコ風の格好をしている。
トクさんは驚愕で体が動かない。いや、動かせないと言った方が正しいだろう。その老婆は、かつて共にイタコの修行をしたトメさんなのだ。トメさんは、空中で浮遊しながらトクさんを見つめる。不敵な笑みを浮かべている。
「ト、トメさん、なぜ」
「あんたにゃ関係ないことだよ」
「許さんぞトメさん、イタコの誓いを裏切り、悪霊として転生させたな」
「それもあんたの想像に過ぎんね。そもそも、一体全体、何が悪霊で何が良い霊なんだい? 人に悪影響を及ぼすから悪霊なのかい? そりゃあちっと人間中心主義って言うもんだわな」
「小難しい話は結構!」
トクさんもまた空を駆け上がりトメさんと距離と詰めようとする。しかし、あと一歩のところで悪霊が二人の間に割り込んでくる。杖から出る光が刃のようになって、悪霊の体は断ち切れるが、次の悪霊が影から飛来する。ミサイルのようなスピードでトメさんへと向かっていく。迎え撃とうとしたところ、背後からからもう一体の悪霊。同時に襲いかかる脅威に対処をすることが出来ず、悪霊の瘴気に包まれて地面へと落下していく。
「トクさん!」
「近付くな!」
駆け寄ろうとする凛子にトクさんが再び叫ぶ。地面に這いつくばっている。汗が全身から噴き出ていて、息が上がっている。悪霊達が最後の一撃を加えようとトクさんめがけて急降下していく。
しかし、トクさんの制止を聞かずに走っていく凛子の目に写ったのは、青白く光るトクさんだった。この光、ひょっとして……
トクさんの輝きが大きくなっていく。悪霊たちは地に降り立ってトクさんに最後の一撃を加えようとしている。トメさんは思案している。この光、一号や二号と同じ……だが、疲れきったあの体のどこにあんな霊力があるのか……そうか! 奴、あの石をまだ持っているな!
「近づいてはならん! 引き返せ!」
トメさんの命令で引き返そうとする悪霊たち。だが、トクさんが必死の形相でその足首をつかむ。
「逃がさんぞ!」
トクさんの狙いに気がついた凛子が泣き叫ぶ。
「やめて!」
トクさんは自爆した。体から青白い輝きをまとったオーラが勢いよく噴出して悪霊二匹を消し飛ばせ、そのオーラはトメさんや凛子まで包み込む。一号や二号とは違う、綺麗で優しさのあるオーラだった。
トメさんは空中から墜落した。すんでのところで地面との衝突を回避したが、そのダメージは絶大なもので、杖を持っていなかったトメさんは奇しくも這いつくばるトクさんに跪くような格好になっていた。
トクさんは人間の体の形を保っていた。いや、本来は強烈な霊力の噴出だから、物理的な人体への干渉はない。だがあれは本物の爆発ではなかったのかと錯覚するほどの強烈なオーラの奔流だったのだ。凛子が駆け寄る。トクさんを仰向けに横たわらせると、弱々しい呼吸を繰り返しながら、トクさんが凛子に語り開けた。
「まだ終わってない。終わってないよ」
「え、でも、倒したじゃないですか」
「倒してない。死んだふりをしているだけさ。あいつは昔からそういう卑怯なことが得意だったからねえ」
凛子はトメさんの方を見る。地面に手をつき、まるで土下座でもして懺悔しているかのような格好のまま、ゼエゼエと息を上げている。
「あんた、手を出しな」
「え?」
凛子は言われるまま手を出すと、トクさんが和服の中から何かを取り出して、凛子に握らせた。
「あんたにやるよ。私の霊力は枯れちまったから、あんたにやる。それは最強のイタコが代々受け継いできた石さ」
「ええっ、でも私なんかが……」
「でもはいらん!」
トクさんはまた怒鳴った。一体どこから怒鳴る気力を振り絞っているのか分からないくらい体は衰弱しているのに、その眼はきっちり凛子を射抜いて離さない。
「あんたは今まで厳しい修行に耐えてきた。それは私が一番よく知っている。あんたなら最強のイタコになれる。最強だった私が保証する。あんたの霊力は無意識にとんでもない強さになっているんだよ」
「私……」
「逃げるのかい。あんた、こんだけ仲間がやられて逃げ出して、逃げるのかい。あんたの仕事はなんだ。市民の安全を守ることだろう。なら、あんた、その力ここで使わないでいつ使うんだい」
「……」
「やるのかやらないのかどっちなんだい! はっきりしな」
私はやれるだろうか? トクさんでも倒せなかった敵を倒せるだろうか? 未だ地に向かい息を吐き続けるトメさんを見る。次に、逃げ遅れて倒れている仲間を見る。ビルの影、街路樹の影、車の影を見る。陽の光を見る。割れた窓ガラスを見る。撒き散らされた吐瀉物を見る。そして最後に、トクさんを見る。
「やってみます。いや、やります」
「よう言った! 石を握って、霊力をそこに流し込むんだ」
凛子は言われたとおりにやった。石を握り締め、そこに全身に溜まっている霊力を流し込む。イメージが出てくる。遠い次元からの呼び声が聞こえる。それがイメージを突き抜けて本当に石に溜まり始めた時、凛子の力が顕現した。トクさんの自爆寸前のようなオーラを凛子が纏っている。しかし、自爆する訳ではない。自然体として、そのオーラを身に着けている──最強のイタコになった証拠だった。
「おお、想像以上だわい」
トクさんは目を細める。凛子はトクさんを抱きかかえると、比較的安全な街の裏路地の物陰に座らせた。
「待っていてください。倒してきます」
「やったれ、やったれ」
振り返ってトメさんの方を見る。彼女の背後の影から、悪霊の軍団が這い出ていた。今日は同じ格好をした人たちをよく見るな、と凛子は思った。
凛子は悪霊の軍団に走って突っ込んで行った。大きくジャンプすると、悪霊をめがけて手のひらから光弾を飛ばす。それに当たった悪霊がじゅわっと音を出して溶けた。自然と溢れ出るオーラにあてられて動けなくなったり鈍くなったりする悪霊が大勢いる。その悪霊の腹を突き破るパンチや首を弾き飛ばすキック。そして光弾によって悪霊の軍団は消えた。襲いかかってくる悪霊はあまりいなかった。
次に影が第二の軍勢を送り込んでくる。凛子はそれも先ほどと同じように処理する。そして次の軍勢……。同じことの繰り返しを淡々とやっている。
「埒が明かない!」
徐々に削り取られる体力と霊力。輝きに翳りが見えはじめたオーラ。悪霊達が凛子に襲いかかってきた。八番目の軍勢だ。
「凛子ォー! 銃を使うんだ! トメさんを狙え!」
ジャンプして軍勢から距離を取った凛子は、その叫びを聴いてハッとした。トメさんの方向を見ると、彼女は影に隠れながら悪霊たちを錬成している。凛子はホルスターからゴーストバスターサイコガンを引き抜くと、トメさんに照準を合わせる。その時、最強の石とゴーストバスターサイコガンが奇妙な反応を起こした。赤く光るゴーストバスターサイコガン。凛子ですら制御出来ない霊力の流れがよどみなく発射された。念波を超越した実弾並みのエネルギーが、トメさんを射抜いた。ぐうっと音を出してその場に倒れこむ。悪呂の軍勢がサーッと蒸発していく。影が消える。あの影はトメさんが作った、霊界と現世をつなぐ門だった。
「トメさん!」
凛子はトメさんに走って近付く。おそらく、死んではいないはずだ。トメさんは辛うじて息をしている。凛子の姿を見た途端、瘴気で固めた剣を取り出して、凛子を突き刺そうとする。凛子は剣を掴むと自分のオーラで浄化させる。
「もうやめて! こんなこと。もう勝ち目はありません」
「勝ち目なんて関係ないわい。これはわしのやること。信念だから。死ぬまでやり遂げる」
「そんな、そんなことって馬鹿のやることです!」
トメさんのか細い腕を凛子は掴む。剣が出てくる前に浄化しきってしまう。しばらくそのやり取りが続いたが、やがて諦めたかのようにトメさんは腕をだらりと下ろした。一度大きく息を吸い込んでから、何かを語ろうと口を開けた。
「わしも、君の家系と同じように、イタコの家系じゃ。ワシにも孫娘がいた。生きていれば、君と同じくらいの歳かな」
「ということは……」
「そう、死んだよ。自殺だった。あの娘もね、イタコを目指していた。君よりももっと才能があった。修行もしていた。君のおばあさん、トキさんを超えるとわしは思っていた。でもね、ある日、事故に遭った。聞いたことがあるだろう。君の傍系の人間が故意に車を轢いたんだ」
確かに、凛子はその話を聞いたことがあった。ある才能に嫉妬した少女の一家が別のイタコ一家の少女を轢いた事故。一族の恥として本家である自分の耳には、傍系の家族だとは知らされてなかった。確かに、あの頃とおばあさんがイタコを引退していた時期は一致している。なんでこんなことに気付かなかったんだろう。おばあさんは力を使えなくなったから引退したのではない。一族の不始末の責任を取ろうとして引退したんだ。
「その頃から、孫のオーラのバランスが崩れていった。霊力が変になっていった。そして、最終的には枯れてしまった。孫はそのことに絶望した。私や家族はいくらでも励ましたが聞く耳を持たん娘やった。そして死んだ。引きこもりがちになっていたから散歩にでも連れて行こうと思ったら、部屋の中で首を吊っていた。あの娘は母を幼い時期に亡くしていたから、心の拠り所がなかったかもしれんがねえ……。、わしは、イタコの風習が許せなくなった。才能ある娘を嫉妬で殺した一族も、トキさんを引退に追い込んだ抗争も、何もかも許せなくなった。わしの力を貸して、孫の叫びを君らに聞かせたかった……」
凛子は息を呑んだ。想像した。娘同然に可愛がってきた孫が、朝突然首を吊って死んでいた時の衝撃と悲哀を。二度にも渡る肉親の喪失の耐え難き痛みを。いや、何度経験しても、その痛みはなかなかトメさんの体を解放せず、むしろむしばみ続ける。トメさんは凛子の顔を見ると力なく笑った。
「でも、それも叶わなかった。わしはもういいよ。君に、この事実を伝えてあげられたから。君はこれからも最強のイタコとなるだろう。でも忘れるなよ。わしと、孫の痛みを。叫びを。悲しみを。そして何より、憎しみを!」
トメさんは持っていたカッターナイフで首筋を切ろうとした。凛子は止めようと走ったが間に合わない。──だが、カッターナイフは弾き飛ばされ、トメさんの首に届くことはなかった。白く輝く霊が、トメさんの傍らに立って腕を掴んでいる。少女の姿をした霊だった。美しい霊だ。悲しげな微笑を浮かべていた。霊は首を振った。それはダメだよ、とそう告げるように。
「おお、公子……」
「おばあちゃん、もういいのよ。私、もういいの。全部許せたから。もう何も憎んでないのよ」
トメさんの頬を涙が伝った。トメさんは首を強く左右に振る。よくない。憎しみを消してはいけない。じゃあなんであんたは死ななきゃいけないんだい。なんであんたが死んでわしが生きているんだい。
「もうやめて。私はいいわ。おばあちゃんだって、いいじゃない。なんで私のためにおばあちゃんが傷つかなきゃいけないの? 私はそんなつもりで死んだんじゃないわ。自分の人生に絶望したからよ。でも、もうそれも許せるわ。本当よ。おばあちゃんがこれだけ私のことを思ってやってくれた。そしてそこにいる彼女も、話を聞いて涙している。これだけで十分なの。私の胸に優しさが満ちたわ。だから死ぬことはないのよ。もう人が死ぬ理由なんてないじゃない」
「本当に、本当にいいのかい」
「そう。いいのよ。だから、おばあちゃんももう憎しみに生きないで。力強く生きて。そして、霊界で会いましょう。私、待ってるわ。お母さんと一緒に待ってる」
公子の霊は消えた。今度こそ本当に明るい笑みを浮かべて消えた。蒸発して陽の光に溶け込んだ。その残滓をかき集めるように、あるいは霊を抱きしめようとするように動いたトメさんは体制を崩す。凛子はトメさんを支える。トメさんは泣いていた。涙で皺だらけの顔がもっとひどく皺だらけになっている。だが、瞳のなかに光があった。その光は太陽の力強い光によく似ている。
青森県。恐山。岩肌がむきだしになった中、登山者が軽い気持ちで行くと滑落してしまうであろうような、随分と不安定なところにそれはあった。祠だ。古くからあるような祠の中に、少女の写真が一枚置いてあった。写真の中の少女は軽く笑みを浮かべ、目を細めてこちらを見ている。美形だった。鼻筋がスっと通り、輪郭もシャープで、どことなく知性を感じさせるような感じをしていた。
その祠の前でしゃがみ込み、凛子は合掌していた。後ろにトメさんとトクさんもいた。イタコ千人軍団がいた。
私、最強のイタコになるわ。公子さん、あなたの分まで頑張るわ。私はあなたのことを忘れない。あなたの痛みを忘れない。だから見守っていてください。立派なイタコになります──
今、白いカラスが一羽、天に向かって飛び立った。雲一つない青い空が霊界まで続いているようだった。
イタコ・イノセンス 公的抑圧 @Mushocking
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