第2話

 私が次に部室に行ったのは、その翌日であった。

 ただなんとなく目前で演奏される音楽がかっこよかったために、サークルに入ることを決めてしまった私は、ジャズ研究会の活動について、ジャズとはどんな音楽か、など聞くことが沢山あった。そのために、翌日も私はジャズ研究会に顔を出した。 

 先輩曰く、ジャズ研究会の活動は主に練習とセッションであるそうだ。私が前の日に部室を見学した際に見たものも、セッションだったらしい。先輩曰く、セッションは楽しいもので、セッションをより楽しむために、日々練習をしているそう。また、先輩曰く、部員は毎週水曜日の決められたセッション日には必ず参加しなくてはならないが、それ以外はいつ練習をしてもよいらしい。ジャズとはどんな音楽か、という問いには、先輩も少し困った表情を私に向けた。そんな一言で言い表せるものではないらしい。


 先輩の説明をあらかた聞き終わる頃に、部室に田中君がやってきた。

「昨日ぶりだね。」と田中君は少し恥ずかしそうに挨拶した。

「田中君も今日来たんだ。そういえば、田中君は何か楽器をやっていたことがあるの?」

「それが、どの楽器も触ったことがないんだ。」

「私も同じようなものだよ。小学校のときピアノを弾いたことがあった程度。田中君はどの楽器にしようとか決めているの?」

「ベースをやろうかなあ、と思っているよ。」

「ジャズのベースってあの大きなやつでしょう。田中君に似合いそうだね。」

田中君のすらっとした体型はベースを持っても違和感のないサイズ感であると思ったし、前日に話したときに感じられた田中君の少し控えめな印象を考えれば、田中君がベースを選ぶというのも、どこか自然であると思った。

「君は、何をやるつもりなの?」

田中君は私にそう尋ねた。

「うーん、ピアノしか触ったことがないから、ピアノかなあ。」

そう答えると、田中君は嬉しそうに私に

「それじゃあ、二人で練習できるね。」と言った。



 私と田中君は、その日から楽器を熱心に練習した。他の同期の子よりも遅く入ったということもあって、うんと練習した。授業が無い日は昼間のうちから部室に篭っていることも珍しくはなかったし、授業が入っている日も、大抵夜の十時頃までは練習をしていた。

 ジャズに決まった上手くなる方法など存在しない。みんな、もがきにもがいて少しずつ上手くなっていく。いい演奏だ、と少しでも思えるようになるにはきっと一年やそこらでは足りない。私は練習をはじめて一ヶ月経った頃には、そのことを理解した。ただでさえ、楽器をほとんど触ったことのなかった私と田中君は、他の人よりも多くの時間が必要であった。私と田中君の生活は、ジャズの練習が中心となっていった。

「真面目だねえ。」

先輩や、同期の子からそう言われることもあった。実際、私と田中君は真面目だった。ほぼゼロからスタートした私と田中君は、やるからには本気で取り組まないと話にならない、ということをわかっていたのだろう。私たちは真面目に練習した。

真面目に練習をしていると、ああ、少しジャズっぽい、だとか実は上手くなってきているんじゃないか、とかそんなことを考えてしまうことがある。しかし、偉大なるジャズの先人のプレイを聴くと、いいと感じた自分の演奏が、なに一つできてやいないものである、という事実を突きつけられる。

そんなとき、もうやめてしまおう、という考えが一瞬浮かぶ。ジャズなんてやっていても、お金になるわけでもない、たかが趣味に何を熱くなっているのだ、と。しかし、休憩をほとんどとらず、横でベースの練習を続けている田中君をみると、そんな考えが頭に浮かんだことなど忘れてしまう。

 田中君は、私以上に真剣にジャズに取り組んでいる。先輩が「休まなくていいの?」と聞いても、田中君は「大丈夫です」と言い、練習を再開する。その様子は何かに取り付かれたかのよう。田中君は本当にジャズが好きなのだろう。私よりジャズをよく聴いてきた田中君は、自分の演奏が「本物」ではないことを私以上に痛いほど感じてしまうのだろう。


 私と田中君は、毎日のように部室に夜遅くまで残って練習をした。そんな生活をずっと続けてきたために、私たちは部室に二人きりになることもよくあった。大体の部員は夜の七時ごろに夕食を食べに部室の外に出て行き、そのまま帰ってこない。私は、お金はCDを買うのに使いたかったし、部室の外に出るのが億劫であったため、昼間のうちに、夕食用のパンなり、おにぎりなりをコンビニで買っておき、外食組が部室から消えてから、それを食べるというスタイルをとっていた。田中君も最初のうちは付き合いで先輩たちとご飯を食べに出ていたが、そんな時間は自分にはない、と感じたのだろう。だんだんと私と同じスタイルをとるようになっていった。このスタイルは、私と田中君だけのものであり、夜の部室はたいてい私と田中君の場所であった。


 同じスタイルをとっている私と田中君の夕食は、空腹に我慢がいかなくなった方、どちらかが、すでに買ってあるコンビニの袋を開け、それをみたもう片方もコンビニの袋を開けるといった具合で始まる。私たちの夕食このようにして、大体いつも同じ時間に始まるのだが、田中君が先に根負けする場合もあれば、私が先の場合もある。きっと、私も田中君も、練習時間の確保のために、そのくらいの時間に空腹の限界が来るように体の構造が変化したのだろう。

 そろそろご飯を食べよう、と田中君に提案をすることを考えたこともある。しかし、田中君をみていると、練習の邪魔をしてはいけないと思い、いつも気が引けてしまう。田中君も、その提案をこれまで私にしてこなかったところをみると、おそらく考えていることは同じようなものだろう。

 

 そんな具合に、私たちは夕食を食べ始める。

 夕食の時間は、私と田中君がなんのためらいもなく話せる時間であった。練習をしているときは、田中君は自分の世界に入っているために、特別な用がない限り話しかけることは出来ない。きっと田中君からみた私も話しかけづらいのだろう。そのため、夕食の時間は私と田中君にとって、貴重なものであった。


 私と田中君の会話は、大体が「最近何聴いているの?」という話題について。

ほぼ毎日顔を合わせているのだから、「最近」も何もないのだろうけど、自分の中でのブームはめまぐるしく変わっていく。

 例えば、オスカー・ピーターソンに勝るピアニストはいない、あんなにポップなフレーズで人を楽しませることが出来るピアニストはいない、と考えていても、次の日はウィントン・ケリーが至高、あのスイング感はケリーにしか出せない、あれこそがジャズピアノだ、といった具合に、好きなプレイヤーは日によって変わっていく。

 そのような日々変わっていく、好きなプレイヤーについての話は楽しい。自分の今、好きなものを田中君に聴いてもらうことが嬉しいのはもちろんであったが、田中君が、好きなものを少年のように語っている様子は、普段の少し控えめな田中君の印象からずれるものがあり、微笑ましかった。


 私たちが二年生になってすぐ、四月の頭くらいの夕食時、田中君は

「今、好きなのはスコット・ラファロかな」と言った。

 この日は、スコット・ラファロという人のようだった。私が「知らない、流して。」と言うと田中君は嬉しさを隠しきれない様子で、自分のアイポッドをコンポにつないだ。


 ピアノの単音のゆったりとしたメロディ。ピアノはリズムを崩して弾いているのに、どこでピアノの音が鳴るのかを知っているかのようにベースの音が重なる。

部室に響きわたっていたのは、ビル・エヴァンスの『Waltz for Debby』であった。

「このベーシストがスコット・ラファロ。」

そう田中君は教えてくれた。私はこのレコードを聴いたことがあった。しかし、これにクレジットされているベーシストがスコット・ラファロであるということは知らなかった。

「これ弾いているの、スコット・ラファロって人なんだ。」

と私が言うと、田中君はわざとらしく拗ねた顔を私に向け、

「ちゃんと、ベーシストもチェックしてよ。」

と言った。おそらく、ベーシストがあまり認知されない、ということに対しての不満というよりは、そのことに関する自虐であった。


 部室で流れている『Waltz for Debby』はビル・エヴァンスのソロに入る。

 田中君はスコット・ラファロについて、私に話し出した。

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