初恋

 転げ落ちる、そう確信した。

 しかし、背中が何かに引っ張られて、何とか転ばずにすんだ。

 振り返ると、圭介が僕の洋服を掴んでいた。もう片方の手は木の枝を掴んでいた。

「――ったく! あぶねぇだろ! ……お?」

 一度止まったはずの体が、また斜面の方に倒れていく。

「け、圭介?」

「わりぃ、響。雨で手が滑って……くそっ!」

 圭介はもう落ちることは免れないと悟ったのか、僕を抱え込むようにして斜面に転げた。

 圭介のおかげで勢いは殺されていたけど斜面の角度が急すぎた。

 重力によって再び速度が増して、僕達は途中で止まることはなく、斜面を転がり落ちた。

 上も下も分からなくなる程に転がっているのに、圭介が僕を掴む力は少しも弱まることはなかった。


「――ッ ――ビク、響!」

 圭介の声が聞こえた。

 瞼が重くて、意識があるのかないのか、夢なのかそうじゃないのかもおぼろげな感覚だった。

 そんな中、腕だけがひどく痛かったのを覚えている。

 左腕だ。力を入れて動かそうとすると悲鳴が出そうになるほどの痛みが走った。

「響! 目を開けろ!」

 圭介の怒鳴ったような声に僕は目を開いた。

 見えたのは僕を心配そうに覗き込む圭介の顔。

 顔は泥だらけで、眉は歪み、涙が滲んでいるように見えた。

「けい、すけ。泣いてるの?」

「ば、ばかっ! 泣いてねぇよ!」

 そう言って圭介は目じりをグイッと拭いた。そんな仕草をしなければ、雨のせいだで済んだのに。

「そうだ、歌音は? 歌音は大丈夫?」

「圭介ー!! 響は!?」

 僕が聞くと斜面の上の方から歌音の声が聞こえた。

「あの通り無事だ。むしろお前の事を心配してこっちに降りてこないかの方が心配なくらいだよ。返事して安心させてやれ」

 圭介が斜面の上の方を顎で指す。

「歌音ー! うぐっ――」

 大きな声を出したら腕が痛んだ。

「響!! 大丈夫なの!? 大丈夫なのね!」

 歌音の声が跳ねた。本当に心配してくれていたんだと分かった。

 もっと返事をして安心させてあげたかったけど、腕の痛みから声を出せないでいた。

「腕、痛むのか?」

 圭介はすぐに僕の様子に気が付いた。

「うん、すごく痛い」

 強がっている余裕なんかないくらいに痛かった。一度痛みを認識してからは、ズクンズクンと鈍い痛みが続いていた。

「歌音!! 響が怪我をした。誰か大人を呼んできてくれ!」

「分かった!! すぐに呼んでくる!」

 歌音の返事はすぐに返って来た。その声を聞いて、僕は不安になって声をあげようとしたんだけど、圭介が僕を制した。

「歌音! ゆっくりでいいんだ! お前まで落ちたらそれこそおしまいだ!」

「……分かった! 時間かかっちゃうかもだけど、待ってて!」

 やっぱり圭介も同じことが不安だったらしい。圭介と同じことを考えられたことに少しだけ誇らしくなっていた。

「ありがとう、圭介」

「なにがだ?」

「助けてくれて」

「当たり前だろ……でも、なんで急に走り出した?」

 圭介の声に怒りが混ざっていた。

 なんで、と聞かれても自分でもうまく言葉にする事が出来ないでいた。それでも、圭介になにか言わなくてはと思った。

「圭介と歌音を見ていたら、なんか、焦っちゃって」

「焦ったって……お前、お前な……はぁ」

 圭介はため息を漏らしてその場に仰向けに寝転がった。

「……歌音は――お前の歌が好きなんだってよ」

 圭介がポツリといった。

 聞き逃してしまいそうな小さな声だった。

 聞いた瞬間、顔が熱くなって脈が跳ねたのを覚えている。

「歌が?」

「あぁ、そうだ。歌が、な。だからお前と一緒に歌いたかったんだってよ」

 圭介が拗ねたように言う。

 その様子をみていると、自然と僕の感情にも名前が付いた。


 あぁそうだ。僕は多分、歌音に『恋』をしているんだ。


 そして、圭介もまた同じ相手に恋をしている。

 もやもやしていた感情がなくなって、すっきりした気分だった。

 僕も圭介の横に寝転んだ。

「歌音は、どっちの事が好きなのかな?」

 僕だ――と思える程、自信はなかった。

 それでも、僕か圭介のどちらかだとは思った。

「お前の歌が好きだってことしか、俺は聞いていない」

 圭介はぶっきらぼうに言った。

 二人で空を見る。

 雨はまだ降ったままで、綺麗な星空なんて見えなかった。

 腕は痛いし、雨は冷たいし、おまけに泥まみれだ。

 散々な状況だった。

 そんな状況で恋の話をしているのがおかしくて、僕は笑ってしまった。

 横を見ると、圭介もいつものニカッとした表情を浮かべて笑っていた。

 普通に考えたら圭介は恋敵で、圭介から見た僕だってそのはずだ。

 それなのに僕は、この先も三人でいるんだろうなと、根拠もないのになんとなく確信を持っていた。

 どっちが歌音に選ばれても、ずっと仲の良い三人でいられると。

 多分圭介も、似たような事を考えていたんじゃないかなと、今でも思う。

 それからしばらくして、歌音と共に大人たちが来てくれて、僕達は無事救出された。

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