響の劣等感

「すごい」

「ね、本当、すごい!」

 二人して単純な感想だ。でも、僕たちの感情を表すのには一番の感想だった。

「ね、響。実は……さっきの歌には歌詞があるんだけど」

 驚いた。いつも歌音の歌には歌詞はなかったから。その時の感情をそのまま表現するものだと思っていた。

「う、うん」

 戸惑いながらも頷くと、歌音は僕の方を振り返って、岩の上からじっとみつめてきた。

「初めて歌詞をつけた……響の歌なの。聞いてくれる?」

 僕は返事が出来ないでいた。

 歌音の言っていることの真意が分からなかったからだ。

 歌音の表情はもう見えない。

 歌音の後ろには多くの光が舞っていて、彼女のシルエットがうっすらと浮かび上がっていた。

 僕の返事を待たずに、歌音は再び深呼吸をして歌いだした。

「きみn――」

「上に蛍がいたぞ。って、こっちも凄いな。やっぱり明るかったから光ってなかっただけか」

 歌音が歌いだした瞬間、圭介が帰ってきた。

 圭介の声に驚いた歌音は歌うのを中断してしまう。

「け、圭介、お帰り」

 僕もなんだか戸惑ってしまって、それしか言葉が出てこなかった。

 歌音は岩から無言で降りて、圭介の事を睨んでいた。

 圭介は気まずそうに頭を掻いていた。

「――って、そうだこんな事している場合じゃない。お前ら、すぐに降りるぞ」

 圭介は焦っているようだった。

「え、せっかく蛍が出てきたのに」

 僕はもう少しあの綺麗な景色が見ていたくって、悠長に不満なんかを漏らしていた。

「どうせ蛍はすぐにひっこむ。思ってたよりも雲が高くなってるんだ、強い雨が降るかもしれない」

 父親から聞いた事があったのか、圭介は少し強い口調になった。

「雨――?」

 歌音が手の平を上に向けながら空を見た。

 ポツリと雨粒が落ちたのは僕の鼻先だった。

「本当に降ってきたみたい。傘なんて持ってきてないよ」

「俺だってそうだ。だから、早く下りないと」

 田舎育ちの僕たちにとって、雨の降る山にいることが危ないというのは、共通の認識だった。体力は奪われるし、下りるのに時間がかかるようになる。水に体温を奪われたら風邪だって引いてしまうかもしれない。

「ちょ、ちょっと待って! 私……まだ――」

「歌音、今から歌ってたらみんなびしょ濡れだ。お前だってそれじゃよくないだろ?」

 歌音が何かを言いかけて、圭介が制した。

 歌音はまた圭介をみつめて、納得できない様子だったけど頷いた。

 そのやり取りを見ていて、二人だけに通じている何かがあると分かってしまい、僕はわけもわからず苛立っていた。

「よし、急いで帰ろう」

 圭介がそう言って先頭を行こうとする。

 僕はその圭介の手から懐中電灯を奪って、先頭を走りだした。

「響!? おい、待て!」

 なんでそんな事をしてしまったのかと今でも後悔している。

 圭介はすぐに僕を追って駆け出した。歌音も圭介の後を追い、走っていた。

 危ない――そんな事は分かっていた。

 それでも足は止まらなかった。

 けもの道に突き出してきている枝や葉が頬にかする。チクチクと痛い。

 雨が葉を打つほどに強くなる。

 それでも、走るのをやめなかった。

 夜の山道を、か細い明りを頼りに走る。雨の中、急斜面の横を。

 頭の中では色んなものが回っていた。


 なんで僕は走っているんだろう

 なんで僕は二人と違うんだろう

 なんで――

 次々と思考が浮かんでは消えて、答えは出ないまま、足だけが進んだ。


 なんで――圭介はさっき帰って来たんだろう


「響! 止まって、危ない! 明りが――」

 ひと際大きくなった歌音の声が、僕の耳に届いた。

 手に持っていた懐中電灯がチカチカと点滅を繰り返していた。きっと数秒前からそうであったに違いないのに、僕は気付いていなかった。

 そして足を止める前に、懐中電灯は完全に消えてしまった。

 次の一歩をどこに踏み出せばいいのか、それすら分からなくなる。

 そして案の定、僕は木の根っこに躓き、体勢を崩した。横に重心がずれて、そのまま斜面に倒れそうになる。

 転げ落ちる、そう確信した。

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