第五話 美しき囲われ女

 マルゼルブ大通りからすぐのモンソーの邸宅は驚くほどに様変わりしていた。空っぽだった高い天井の玄関には絨毯やカーテンによって艶やかな色が配され、かぐわしい花々がそこかしこに活けられている。

 アンリ・ミュレルの殺風景だったアトリエも、目を疑うばかりの変わりようだ。オスマン様式の大きな窓から漏れる蜂蜜色の陽光が、カーテンの洒落た飾り紐の装飾や繊細なシャンデリアの反射を受け、壁一面を覆う壁紙に美しくきらめいていた。部屋には新たに唐草模様の絨毯が敷かれており、その上には気品漂う家具が備え付けらている。黒々としたピアノだけが以前と同じ場所に陣取っていたが、散らばっていた道具類や石膏はもはやどこにも見当たらない。

「アトリエは階段を挟んだ奥の部屋に移しました。あちらの方が湿っていて、粘土が渇かずにすむんです。それに、パリで暮らす女性にはこのような立派なサロンがあった方がいいでしょう」

 ミュレルは話しながら私の手を取り、はしゃいだ様子で広い階段を上がってゆく。そのあとにラ・トゥール伯爵が続いた。

 二階の小さな控えの間を抜けると、続き部屋になっている寝室と化粧室があった。モンソー公園に接した窓辺からは、道行く小市民プチ・ブルジョワが足を止めてこちらを見上げているのが伺えた。きっと、優美な外観やカーテンの隙間から覗く室内の豪華さに魅せられているのだろう。

 我が物顔で邸宅を案内するミュレルとは対極に、ラ・トゥール伯爵は名義上この家の主であるにもかかわらず、無関心な顔つきで公園の緑に視線を傾けていた。だが、私が見ていることに気がついたのか、やおら体をこちらに向けて事務的に口を開いた。

「装身具はパリで評判の店で何点かあつらえておいた。気に入らないようなら自分で好きな物を買いに行くといい。馬車と質の良い馬を数頭厩舎に用意してある。御者や従者、門番、料理人など必要な人材もすでに雇っておいた――彼女はあなたの身の回りの世話をするシュゼットだ。何か困ったことがあったら遠慮なく彼女に言いなさい」

 タイミング良く姿を現した小間使いの女を私に紹介してから、伯爵はふいに尋ねてきた。

「失礼ながら、あなたの名前を伺っていなかった」

「ミミで結構ですわ」

「いや。私が尋ねているのは源氏名ではなく、あなたの本当の名前だ」

 私はかすかに動揺した。本当の名を尋ねられたのは物心ついて以来、たぶんこれが初めてのことだった。

「……マリー=クレールというのが、私の本当の名前です。でも、誰が好んでマリア様の名を冠した娼婦を抱きたいなんて思うかしら。本名はずっと昔に葬られ、私自身も忘れそうになっていましたわ」

「マリー=クレール……」

 伯爵がその名を口にした瞬間、心臓が一段高鳴ったような気がした。密かな動揺を嗅ぎつけたのかアンリ・ミュレルが含みのある微笑を浮かべ、目を眇めてこちらを一瞥したのがわかった。だが、私の心の領域が彼の眼差しによってそれ以上侵される間もなく、伯爵が言葉を続けた。

「私はこれからテュイルリー宮へ行かなければならないので、こちらで失礼する。続きはミュレルに案内してもらってくれ」

 すると、アンリ・ミュレルが甘える若いツバメのような様子で言った。

「今夜はここに食事をしに戻って来てくださいね。それから、晩餐のあと、三人でパレ・ロワイヤルへ観劇に行きませんか? コメディー・フランセーズでラシーヌの劇を見ましょうよ。――ねえ、いいでしょう?」

 芸術に関心を示すミュレルに気を良くしたのか、ラ・トゥール伯爵のしかめつらしい彫刻のような顔に安らかな綻びが生まれた。その微笑みは一瞬で消えてしまったものの、私の心に得体の知れない感情を呼び覚ましたのだった。



「ねえ、どうだい? 気に入った? あんたは今日からここで女王様のような暮らしが出来るんだよ」

 伯爵が立ち去るや否や、ミュレルは小間使いのシュゼットが背後にいるのもお構い無しに、無邪気な声を上げた。彼は親密な仕草で私の帽子の紐をほどきながら、わざとらしく小声になって耳元で囁く。「シュゼットなら大丈夫。僕が手なづけておいたから。伯爵に余計なことは言わないよ――ちょっとお駄賃を弾んでやれば彼女はなんだってしてくれる。なかなか使える女だよ」

「随分と仕事が早いのね」

「人を意のままに動かすのは僕の得意分野だからね。あんたが娼館から早く出られたのだって僕のおかげなんだよ。本来だったらもう少し時間がかかるところを伯爵に根回しさせて早めさせたんだ。あんたの体が恋しくてさ」

 ミュレルは言うなり私のドレスを捲し上げてクリノリンを剥ぎ取った。彼は仰向けでベッドに倒れ、その上に私を馬乗りにさせた。

「なあんてね! あんたは単なる暇つぶしさ。僕の最高のエンターテイメントになってくれそうだから期待してるんだよ。さあ、僕に尽せよ。あんたを娼館から解放する手助けをしてやったんだから、少しくらい気の利いたことしてくれたっていいだろう?」

 シュゼットは心得たように静かに部屋から退出し、私は貴婦人の寝室の柔らかなベッドの上で、傍若無人な彫刻家を官能の悦びで満たした。



 ミュレルがベッドで眠りこけている間に、私は湯浴びを済ませ、晩餐のための身支度を始めた。

「まあ、奥様はなんてお美しい肌をされているんでしょう。まるで繻子のようですわ」

 化粧室に響く演技じみた感嘆の声。シュゼットは鏡越しに見下すような薄笑いを浮かべて白粉の瓶を手に取った。娼婦上がりの主人に対し、小間使いがどのような感情を抱いているのかなど容易に想像がつく。彼女は四、五千フランはくだらないという高価な衣装や大きなダイヤモンドの首飾りをこれ見よがしに持ってきて、「奥様は幸せ者ですわ」と妬ましげに呟くのだった。

 まもなくして、ラ・トゥール伯爵がチュイルリーから戻ってきた。

「アンリはどこにいる?」

 手袋を外しながら、こちらを見ようともせずに開口一番彫刻家の居場所を問われ、私は心の中でわずかに苛立ちを感じた。というのも、伯爵が用意してくれた貴婦人のようなドレスを身に纏い、美しく飾り立てた自分の姿に対して何か一言くらいあると思っていたからだ。

 男にちやほやされることが当たり前だったこれまでの人生で、ここまで徹底して見向きもされないことは驚きを通り越し、新たな発見だった。

「ミュレルさんなら寝ています」

 そう言ってから、「私の部屋で」と付け加えた。

 階段を上り始めていた伯爵はぴたりと足を止めた。彼はしばらくのあいだ沈黙していたが、やがて低い声で無表情のままこう言った。

「あなたにここへ来てもらったのは、アンリの制作のためだ。そこのところを忘れないで頂きたい」

 あくまで、礼儀正しい口調。この人は生まれながらの貴族なのだ。

 伯爵の関心を自分に向けさせることが出来なくて、わざわざ彫刻家との関係を仄めかすとは随分と子供じみたお遊びに駆り立てられてしまった。私は、ただ見て欲しかったのだ。ほんの少しでいいから彼の視界に入ってみたかっただけなのだ。それなのに、たったそれだけのことが叶わない――。



「おい、ラ・トゥール伯爵が彫刻家のミュレルと来ているぞ。一緒にいるご婦人は誰だ? 見たことのない女だが、なんて美しい顔をしているのだろう」

「あれはミミじゃないか。高級娼館の娼婦だよ」

「あれが娼婦だって? 着ている物も身のこなしもフォーブール・サン=ジェルマンの貴婦人にしか見えないぜ?」

「伯爵が娼婦を身請けしたって噂は本当だったんだな。女を囲うためにモンソーに家まで用意したっていうじゃないか。淫売を物にするのに一体いくら費やしたのだろう? それだけの価値があの女にあるというのだろうか?」

 ざわめきの中、注がれる人々の好奇の視線。劇場にいる誰も彼もが私たちに注目していた。燕尾服に白ネクタイを結んだ美貌の紳士二人に挟まれて、私はまるでパリ随一の女王の座にでも君臨したような気分だった。

 ラ・トゥール伯爵が社交のためにボックス席から離れると、私は彼の姿を探してオペラグラスで辺りを見やった。バルコニー席の前桟敷で、淡い金髪の貴婦人が不愉快そうにこちらを見ながら、薄い唇をしきりに動かし伯爵に何かを訴えている。

「ラ・トゥール伯爵と話をしているあのご婦人はどなた?」

「ああ、あれはラペイレット元侯爵夫人だよ。第二帝政の社交界の花形さ」

「私のことを睨んでいるようだけど」

「フランソワ・ド・ラペイレット夫人は、ラ・トゥール伯爵の妹君なんだ。彼女からしてみれば、兄があんたのような女を囲うだなんて、由緒正しいラ・トゥール家の名誉を失墜させるおぞましい悪夢でしかない。だから、会う前から嫌われているってわけ」

 なるほど、ラペイレットという響きに聞き覚えがあると思っていたが、あの貴婦人がラ・トゥール伯爵の妹であり、我が古き友ルソンジュ男爵の兄嫁にあたる人物なのだ。娼館でよく男爵から聞かされていた彼女との確執話を思い出し、これまで単なる想像でしかなかった人物像がはっきりと描写され、なんとも不思議な気分だった。

 ラペイレット夫人と向かい合わせの桟敷にグラス越しの視線を移すと、女がひとり、同じくオペラグラスを介してこちらを眺めていた。両頬に鮮やかなピンク色の花を咲かせた美しいブロンド女は、きらびやかで派手な装いをしており、周りの婦人たちが霞んで見えるほどだった。彼女は気さくな様子でこちらに手を振り、にっこりと微笑んだ。

「あの貴婦人はどなた?」

 私の問いに、ミュレルが視線の先をたどってから嘲るような口調で言った。

「ローズ・フェランのことかい? あの女は貴婦人なんかじゃないよ。あれは半社交界ドゥミ・モンドの女さ。イギリス訛りが可愛いと評判の高級娼婦クルティザンヌで、噂によれば『椿姫』のマルグリット・ゴーティエのごとく、一年に十万フランほど消費するらしい。相当なじゃじゃ馬で乗りこなすのも一苦労だとか。それにもかかわらず、彼女を愛人にしたい男たちは星の数ほどいるそうだ」

 このような遊女たちが属する世界に、『半社交界ドゥミ・モンド』という名をつけたのは『椿姫』の作者のデュマ・フィスだ。夫婦揃って出席する上流社交界ボーモンドに対して、高級娼婦クルティザンヌのような女たちの元へせっせと足を運ぶのは紳士方だけ――つまり、社交界の半分というわけである。

「あんたは今日、あのローズ・フェランのような玄人筋の女たちの仲間入りをしたんだ。ここにいる誰もがミニョンは伯爵様の囲われ者だと思ってる。男は容易く手に入れられる女には価値を見出さないもので、金さえ出せばいくらでも枕を共に出来た高級娼館上がりの元娼婦という存在はほとんど無価値だ。でもね、ミミ、あんたはそんじょそこらの娼婦とは美しさもおつむも違う。これからのやり方次第で、あんたはパリで一番の高級娼婦ドゥミモンディーヌにだってなれるはずさ」

 そう言って、ミュレルは愉快そうに肩を揺らした。

 この男の目的は一体何なのだろう? 彫刻のモデルというのは明らかに建前で、私を娼館から引っ張り出したのは娯楽のためだと自ら言っていた。気まぐれな快楽の慰めだけに留まらず、社交界で私を伸し上がらせるゲームでも始めるつもりなのだろうか――?


 ラ・トゥール伯爵が席に戻ってきたとき、モリエールの家の真紅の幕が厳かに上がるのだった。

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或る貴婦人の回想 Lis Sucre @Lis

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