第四話 娼家での終幕

 公衆衛生上、娼婦は週に一度の定期検診が義務づけられている。万が一、性病にでも冒されていればすぐさまサン=ラザール行きだ。そこで待っているのは過酷な労働、食事は粗末で風呂にも入れず、噂によればとにかく臭いがひどいらしい。高級娼館に身を置く娘たちにとって、それは地獄以外の何者でもなかった。

「君の健康状態は良好だよ、ミニョン」

 事務的に膣鏡を用いたブルーニ医師は、いつものことながら素早く診察を終わらせた。娼婦たちの誘惑に心乱さず、淡々と己の仕事をこなすこの中年医師は禁欲生活の只中にある修道士のようだった。

 私は寝台肘掛け椅子の上に広げていた両足を閉じ、乱れた髪を整えながら診察室を出た。部屋の前ではル・クロの娘たちが勢ぞろいし、自分の番が回ってくるのを緩慢な様子で待っていた。次はオランジュの番だったが、なぜだかひどくもたもたとしていて、いかにも診察室に行きたくないといった風情だ。

 情夫ヒモのことで言い争いになって以来、彼女と不仲になっていたアンジェルは、天使のような笑顔を浮かべてここぞとばかりに相手を貶める。

「一体どうしたっていうのよ、オランジュ? もしかして、恋人に梅毒をうつされたの? かわいそうに、浮気された上に病気までうつされるなんてご愁傷様ね」

 意地悪なアンジェルの言葉に、オランジュはかっとして叫ぶ。「あの人は病気なんか持ってないよ!」

 それを皮切りに女同士の諍いが再び勃発し、薄汚い罵り言葉が廊下を往復した。口だけでなくついには手が出そうになったので、ヴィオレットが二人の間に仲裁に入った。だが、激昂していたアンジェルに勢いのまま張り飛ばされ、副女将スー=メトレスは私の足元に転がった。

 私が二人に顔を向けると、オランジュは目が合った途端、何を言ったわけでもないがはっとしたように背筋を伸ばし、罰の悪そうな顔をしてそそくさと診察室に入って行った。アンジェルの方はもはや後には引けぬ様子で、怯える獣のようにこちらを威嚇してきた。

「なによ、ミニョン。文句があるなら相手になってやるよ。伯爵から身請けされたからっていい気になってんじゃないよ。もうすぐここからおさらば出来ると思ってあたしたちのこと見下してんだろ? いや、あんたはいつもそうだ。ル・クロの看板娼婦を気取ってあたしを蔑んだ目で見やがって! 糞女! おまえなんかサン=ラザールにでも行っちまえ!」

 私はヴィオレットを助け起こすと、気でも違えたように叫ぶ女を尻目に言った。

「サン=ラザール行きはあなたの方でしょう? 下疳を隠すのもそろそろ限界なんじゃない?」

 アンジェルは意表をつかれたようにあからさまに動揺した。「は? あんた何言ってんの?」

 彼女が毎日秘かに患部にそれとわからぬよう化粧を施していることに私は気がついていた。不意の検診にも対応出来るよう万全を期していたようだが、どの道バレるのは時間の問題だった。

「ほら、オランジュが出てきたわよ。次はあなたの番ね。梅毒なら病状が悪化する前に治した方が身のためよ。『生理が来た』とか白々しい嘘ついて逃げようったって時間の無駄だし、どうせそのうちわかることなんだから早い方がいいでしょう」



 あとほんの数日で、私の存在は警察の登録簿から抹消される。売春の日々から解放されるのだ。長い間いたこのル・クロから出られるだなんて、なんだか嘘みたいな、夢見たいな気持ちだった。そんなことが実際に起こりえることが、心底不思議に感じられた。金の亡者であるエステルは、伯爵に法外な値を吹っかけることに成功し、それなりに満足して私を手放した。

 実際のところ、ラ・トゥール伯爵がまさか本当に身請けしてくれるとは思わなかった。アンリ・ミュレルの言いなりになって娼婦に大金を費やすだなんて――いや、彼にしてみればはした金かもしれないが――、一体どれほどまでに若い芸術家の才能に溺れているというのだろう?

 きっと何も知らぬ人々は、由緒ある大貴族が公娼を囲ったと思うだけに違いない。家名や名誉は汚され、パリ中の噂の種になるかもしれないというのに、芸術に対する高尚な精神がそういった一切を無視させるのだろうか? 私には滑稽にしか感じられないし、到底理解しがたい世界である。

 伯爵が私を身請けすることを知った常連客たちは、各々さまざまな反応を見せた。ほとんどの人々は親しみを込めて吉報を喜んでくれたが、中には嫉妬に打ちひしがれる者もいた。ユベールは典型的な後者で、落胆と怒りのあまり涙を滲ませた。

「ああ、畜生! 僕が君を自由にするはずだったのに! こうなってしまったのは、全部親父のせいだ! 僕が頻繁に娼館ここに出入りして、君に熱を上げていることを調べ上げたんだ。それでここのところお金の出入に厳しくなって……」

「お父様を悪く言うものじゃないわ。息子の将来を思えば当然のことをなさっているだけよ」

「僕はね、本気で君と結婚したいと思ってるんだよ。いつか親父を説き伏せて、必ず君を迎えに行く。そのときは僕と結婚してくれるだろう? ああ、ミニョン、お願いだから『うん』と言ってくれ!」

 すがるように手を取り指先に熱い口付けを押し付けてくる紳士に対して、私は少しばかり憂鬱を覚えた。伯爵ほどではないにしろ、この青年とだって出会ってからまだそんなに日が経っていない。それなのに、この人はどうして私にここまで深い愛情を示すことが出来るのか?

 体だけに留まらず、心をも征服しようと躍起になる男たちはこれまでにも数多くいた。だが、愛を語られれば語られるほど、相手に求められれば求められるほど、相反してこちらの心が冷めてしまう。

 きっと、ユベールは生真面目なのだ――。私はそう理解することに努め、聞き分けのない子供に言い聞かせるみたいに言った。

「ねえ、ご自分の初夜のことを覚えてる? なんにも知らないあなたに私が手取り足取り教えてあげたときのことよ――何が言いたいかっていうとね、つまりあなたは雛鳥みたいに私を慕っているだけなのよ。単に親鳥になついているだけなの」

 ユベールは心外だとでも言うように抗議の声を上げた。「どうしてそんなことを言うんだい? 君への愛情は母親への愛情とは全くの別物だ」

「じゃあ聞くけど、私の何をそんなに愛しているの?」

「もちろん、すべてだよ。君のすべてさ」

 その答えに、私は自分でも驚くほどに苛立った。

「でも、あなたは私の一体何を知っているというの?」

 思いがけず浴びせられた冷ややかな態度に、ユベールは青い顔をして閉口した。私が寝台から立ち上がりペチコートを身に纏うと、苦悶の表情が瞬く間に彼の顔を支配する。

「気を悪くしたのなら謝るよ。だからここにいておくれ」

「いいえ。今夜はもうお帰んなさい。寄り道せず真っ直ぐ家に帰るのよ。お父様を安心させてあげるといいわ」

 部屋から立ち去り、私は絨毯を踏みしめて階段を下りてゆく。

「ミミ、ミミ! 僕の可愛い人、どうか戻ってきておくれ! お願いだよ! ねえ、ミニョン!」

 青年は声を限りに名を呼んだ。

 でも、それは私の本当の名ではないのだ。



「妊娠?」

 唐突なオランジュの言葉に、床に就こうとしていた娘たちがどよめいた。オランジュが昼間の診察を躊躇っていたのは、子供が出来たことが明るみになるのを恐れていたためだった。しかし、ついには母親としての自覚が勝ったのか、覚悟が決まってもはやすっきりとした様子だった。

「妊娠って、一体誰の子よ?」

「あの人の子に決まってる」

「馬鹿ね! あんな浮気男のことはもう忘れなさいよ。もう数ヶ月もあんたに会いに来ないんだから。――それよりも、ここで子供を育てるって? そんなこと女将マダムが赦すとでも思ってるの?」

「エステルならもう知ってるよ。最初は猛反対されたけど、どうにか承諾してくれた。きっと子供が女の子だったら将来ここで働かそうと秘かに目論んでのことだと思う。でも、母親のあたしが絶対にそんなことさせないわ。この子はあたしが守る。立派な堅気の子に育ててみせるんだから」

 子供を養うという新たな目的のために、オランジュはあと数ヶ月、ぎりぎりまで働く気満々のようだった。

 信心深いフルールが、大袈裟な仕草で十字を切った。

「オランジュが妊娠して、アンジェルは梅毒で入院。そして我らがミミは伯爵様に身請けされてここからおさらば。ル・クロはこの先一体どうなっちまうんだろう? おお、神よ! あなた様を崇め奉る我に来たりてどうかご加護を!」

 熱心な祈りの言葉が続く中、オランジュが少し気恥ずかしそうに私と目を合わせてきた。

「ありがとね、ミミ」

「何が?」

「アンジェルと揉めたとき、あんたのおかげで我にかえったから。あのまま殴り合いでもしていたら、お腹の子がどうなったことか」

「別に礼を言われるようなことはしてないわよ」

 すると、「あんたはいつもそうやって澄ましてるんだから」と言って、オランジュは全身で私を抱きしめた。

「もうすぐお別れだなんて、寂しくなるな」

「馬鹿ね、なにも泣くことないでしょ」

 湿っぽくなるのを避けるため、私は女友達の頭を撫でながらわざとおどけた調子で言葉を続けた。「そんなに私が恋しいなら、産まれてくる子供にル・クロの看板娼婦だった『ミミ』の名前を継がせてもいいわよ」

「だから、娼婦になんかしないってば!」

 娘たちの笑い声が大部屋の中に心地よく渦巻いた。


 ベッドに潜り込むと、ヴィオレットが何も言わずに背後にぴったり寄り添ってきた。柔らかなシュミーズのレースを介して生温かい体温が緩やかに溶けてゆく。耳の下辺りの首筋に愛情のこもった接吻が落とされたとき、彼女がいつもつけている菫の香水がふわりと香った。

「愛してるわ、ミミ。たとえあなたがどこにいようとも」

 その言葉は、ユベールの存在を否応無しに思い出させた。彼女もまた、あのブルジョワ坊やのように私のことを愛しているのだ。じっとりとした熱い息吹を肌で感じるたび、焦燥感のような苛立ちが胸をしめつけた。なぜそんな風に感じるのか、自分で自分の気持ちがよくわからなかった。

 情欲をそそる愛撫は尚も続いた。だが、私は自らの中に生まれた不快な気持ちを押し込めるように身を縮め、そのまま眠ったふりをした。

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