第三話 モンソーの屋敷にて

 翌日、私は外出用のドレスを身に纏い、ヴィオレットに付き添われてモンソーの館へ向かうべく二頭立ての箱馬車に乗り込んだ。隣に腰をかける付き人のヴィオレットは、伯爵に召喚されたことをまるで自分のことのように喜んでいる。

「人のことで浮かれたりして、あなたって本当にお人好しよね。私がル・クロを出て幸せになったとしても、所詮は他人事じゃない。あなたは籠の鳥のままなのよ?」

 呆れ顔で呟くと、ヴィオレットは笑顔を深めた。

「それでいいのよ。私は娼館あそこで充分幸せだもの。前に話したことあったでしょう? 私は自ら望んでル・クロに来たの」

「あなた確か地方の出身だったわよね? 家は貧しくなかったんでしょ?」

「ええ。でも、息が詰まって窒息しそうになるような厳格な家だった。私は早くから自分が同性しか愛せない人間だということに気がついていたから、パリにある女の園にずっと憧れていたの」

「だったら同性向けの娼館に行けばよかったのに。女の客と好きなだけやれるじゃない」

「当時はそんな場所が存在するなんて知らなかったのよ。休暇を利用してパリに遊びに行った使用人の話を、幼い頃にこっそり廊下で立ち聞きしてル・クロのことを知ったんだもの。ここで働き始めてから店を移ることはいつだって出来たけど、愛着が沸いてしまったのね」

「エステルに?」

「まさか。あなたによ」

「私に?」

「あなたがここにいるうちは絶対に他所よそには行かないって決めてるの。あなたのことが好きなのよ。ミミ、あなたが幸せになるところを見届けるまで、私はここから離れないわ」

 ヴィオレットは真剣な眼差しで私の顔を見つめていたが、やがてふっと微笑んだ。「というのは建前で、店の女の子たちのことも大好きなのよ。娼婦の移り変わりは早いけど、みんないいばかりだわ。彼女たちの面倒を見ているのが幸せなの」

「あなたがル・クロの女将メトレスだったらみんな働きやすいでしょうに」

「そうなれたら素敵ね。いつかエステルを追い出して、私が女将メトレスになってやろうかしら」

 パリの大通りを駆け抜ける箱馬車に、女二人の軽やかな笑い声が響いた。



 モンソー原の空地に出来たばかりの新築の屋敷へ送り出され、私は召使いによって控えの間に通された。宮殿のような造りの建物は家具や装飾が足りておらず、寒々しいほどのがらんどうだった。そこに姿を現わしたのは、驚くべきことにアンリ・ミュレルだった。はだけた部屋着をだらしなく纏う様ですら絵になる美男子は、手袋越しの私の手に挨拶の口付けを落とす。

「お越し下さって感謝します。先日は時間がなかったとはいえ、あのように退出してしまった無礼をお赦し下さい」

「別に謝って頂く必要はないわ。……ラ・トーゥル伯爵はどちらに?」

「外出しています。あの人はいけすかない連中の相手をするのに忙しいんです」

「いけすかない連中?」

「アカデミーのやつらですよ。頭の固い馬鹿の集まり」

 そう言うと、ミュレルは悪魔のような天使のような、どちらともつかぬ甘い微笑を浮かべて言葉を続けた。

「伯爵がいなくてがっかりしましたか?」

「……なぜそんなふうに思うの?」

「さあ。なんとなく」

 意地の悪い様子で片方の口端を軽く上げ、ミュレルは奥にあるサロンへと私を案内する。

 鼻を突くじっとりとした粘土の匂い。そこはサロンというよりもアトリエとして役割を果たしているようだった。殺風景な部屋の中には寝椅子とピアノ、それから回転式の彫刻台やそれに付属する椅子が置かれていた。壊された胸像が床の上に転がっており、石膏が細々とした道具と共に部屋中に飛び散っている。

 私が胸像に目を向けていると、紅茶を淹れながらミュレルが弁明した。

「ひどい部屋でしょう。まだ越してきたばかりで何もないのに散らかっていて。ここのところずっと、思うような制作が出来ずに荒れていたんです。――レモンかクリームは入れますか?」

「レモンにお砂糖を一匙入れて頂ける?」

「承知しました。――話を戻しますが、実は今日あなたをここへお招きしたのは、僕のモデルになってもらうためです」

「モデルに? 私が?」

「先日、高級娼館ル・クロへ赴いたのは次の制作のモデルを見つけるためだったのです。女神の彫像を作る予定でしてね。『枯れない泉』の噂を耳にして、女神と湛えられるあなたに一度お会いしてみたかった」

 ミュレルは掻き回していた銀のスプーンをソーサーの上に置き、こちらにティーカップを差し出してきた。両手でそれを受け取ったとき、彼は私の首筋に唇を滑らせ、鬢のほつれを繕うように舌を這わせて肌を舐め上げた。ふいをつかれたために思わず手元が揺れ、ティーカップが陶器の硬い音を立てる。

 彫刻家はしたたかな顔つきで私を見上げると、肩を揺らせて笑いながら寝椅子に転がった。

「娼婦のくせに意外と初心うぶなのかな? 言っておくけど、今までの話は建前で、僕はあんたと寝たいだけ。伯爵がうるさいから一応制作も進めるけどね」

 下卑た口調で本性を現した彫刻家を、私は冷めた目で見下ろした。

「あなたみたいな下衆のモデルなんてお断りよ」

「まあそう突き放すなよ。君にとっても悪くない話だと思わないか、ミニョン? こんなにハンサムな男の相手が出来る上に、伯爵様から出張費を受け取れるんだぜ。娼館から解放されて自由の身になるには金が必要なんだろ? ラ・トゥール伯爵をうまく利用すりゃいいのさ。なんなら僕が手伝ってやってもいい。僕が頼めばルシエはなんだって言うことを聞いてくれるんだから」

「あなた、とんでもない悪魔ね。伯爵パトロンに養ってもらっておきながら、よくそんな口が利けるものだわ」

「説教やきれいごとならごめんだよ。君だってわかってるだろ? 世の中、うまく立ち回った者だけが大成するのさ。アカデミーの連中に適当に媚売ってりゃサロンにも入選出来る。新聞にいいように名前を出してもらうのも簡単さ。この屋敷だって伯爵に甘えたらすぐに買ってもらえたし」

 ハンサムで若く自信に溢れた彫刻家は、恐れを知らぬ無鉄砲さで一方的に言葉を続ける。「そうだ! 通いのモデルなんてまどろっこしいから、君も僕と一緒にここに住めばいいんだよ。伯爵に頼んで君のことを身請けさせよう」

 自分の着想に浮かれ、彫刻家は愉快そうに笑い声を上げ、それから、勿忘草のような青い瞳をあけすけに向けてきた。

「君を一目見たときにピンときたんだ。ああ、この女は僕と似ている――ってね」

「似ている? あなたと私が?」

「そう。僕たちは同じ種類の人間なんだよ」

 こんな放縦な振る舞いをする男と、自分の一体何が似ているというのか。私は不快さを通り越して呆れて物も言えずその場に立ち尽くしていた。

「もしも君が断ると言うなら、好きにすればいい。僕はまた別のモデルを探すまでだ」

 そう言って、ミュレルは寝椅子から起き上がり、床の上に転がるトルソーを跨いでピアノが置かれている場所まで歩いて行った。テンポよく奏でられる場違いな楽曲。彫刻家とは思えぬほどにほっそりとした指の動きを見つめながら、私は紅茶を一口啜り、落ち着いて考えてみた。

 確かに伯爵に身請けしてもらえれば娼館から解放される。下衆男のモデルになることは不本意極まりないが、ミュレルが伯爵を利用しているように、私もミュレルを利用してやればいい――。

 ラ・トゥール伯爵を騙すようで気の毒に思えたが、私がモデルになれば、建前上とはいえミュレルは制作をするはずだ。そして、伯爵はきっとそれを心の底から待ち侘びているに違いない……。

 そこまで考えてから、ふいにはっとした。一度きりしか顔を合わせたことのない紳士に対して、なにを親身になっているのか。

 私はティーカップをトレーの上に置いて言った。

「いいわ。あなたの女神になってあげる」

 その言葉を聞くや否や、ミュレルは美しい顔に一層の笑顔を浮かべて私を抱き上げ、ピアノの上に座らせた。彼が体を寄せてキスをするたび、弾かれた鍵盤がでたらめな音をたてる。

「今夜は眠らせないよ。君が泣きながら助けを請うまで休むことを許さない」

「馬鹿ね、私を誰だと思ってるの? その道のプロよ。泣くのはあなたの方だわ」


 このとき、私は気がついていなかった。自分がミュレルの思惑通りに動かされていたことに。彼は私がモデルを断るだなんてこれっぽっちも思っていなかったのだ。そう。彼はすべてを見通していた。人形劇ギニョールを操るように、ただ面白がっていただけなのだ。それを知るのはずっと後になってからのことだけど――。

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