第二話 彫刻家と伯爵

 エステルはサロンから離れた奥の部屋に私を引っ張ってくると、開いていた左右の扉を閉めて完全な密室を作り出した。彼女は背後にヴィオレットを伴い私と対峙する。

「お願いよ、ミニョン。ミュレルさんと二階へ上がってちょうだい」

 客に聞こえないよう声を低く落としているものの、その必死さは辺りの空気を巻き込んで強い語調で辺りに響いた。

「嫌よ。顔だけが取り柄の下衆野郎の相手はお断りだわ。アンジェルが行きたがっていたじゃない。私の代わりに彼女に頼んだら?」

「ミュレルさんはあなたを気に入ったのよ。あなたじゃないと駄目だと仰ってるの。ラ・トゥール伯爵もご一緒に上へ上がられるそうだから、伯爵にうんと優しくして差し上げて」

「だから嫌だって言っ――」

 エステルは言葉を遮るように私の顎を掴み上げると、両頬に指先を食い込ませた。

「いい子だから言うことを聞いてちょうだい。それとも、今すぐショート専門の店に売り飛ばされたいの?」

「どうせはした金で私を手放す気なんてないんでしょう? どこも買ってくれないわよ」

「生意気な口を利くんじゃありません! とにかく、今すぐにお客様の部屋へ行くのよ! さあ、早く! 昔みたいに鞭で叩かれないとわからない!?」

 ヒステリックに喚き立てる女将メトレスから私を庇おうとヴィオレットが間に入る。

「エステル、ミニョンに特別なお客様の相手を務めさせるのなら、彼女に支払う金額を倍にしてあげて。ねえミミ、あなたもそれでいいわよね?」

「三倍よ。でなきゃ今夜は誰の相手もしないわ」

 私の告げた金額にエステルは拳をわなわなと震わせたが、怒りを抑えて渋々と納得した。彼女の目的は伯爵をお得意様にすることだ。先行投資と考えたに違いない。金の亡者であるこの女にとって重要なのは兎にも角にも自らの収益なのだ。

 背後に私を従えて部屋から出たヴィオレットが、二階への階段を上りながら諭すような口調で言う。

「いいことミミ? 伯爵を虜にするのよ。また来たいって思わせるように仕向けるのよ」

「ちょっとヴィオレット、あなたまでエステルと同じこと言わないでよ。一体いつからあの女の味方になったの?」

 私の言葉に副女将スー=メトレスは頭を振った。

「馬鹿ね、そんなんじゃないわよ。籠の中で意地なんか張るだけ無駄だってわからない? 頑なに生きたって損をするだけなのよ。まずはここから飛び立つの。自由になることを第一に考えるのよ。ブルジョワの二世からただ吉報を待つばかりじゃなく、蒔ける種は蒔いておかなきゃ。ラ・トゥール伯爵はパリ屈指の名門貴族だそうじゃない。こんなチャンスをあなたにみすみす逃して欲しくないわ」

 彼女は私のこめかみに優しく接吻を落としながら言う。「いい? 向こうに惚れさせるのよ。でも、絶対に相手に惚れてはだめ。わかってるわね?」

「私が客に惚れるわけないでしょう? 冗談も休み休みにしてほしいわ」

 辟易とした口調で言い放つと、ヴィオレットは思わしげに微笑んだ。



 流行りの異国趣味で装われた『東洋の間』では、アンリ・ミュレルがたくさんの枕に寄りかかるようにして上半身だけ体を起こし、長い足を交差させてベッドの上に伸ばしていた。彼は私の姿を見るや否や陽気な声を上げる。

「やあ、さっきはどうも。おいしいシャンパンをごちそうさま」

 私は彼の言葉を無視してラ・トゥール伯爵に目を向けた。伯爵は日頃こうした場所とは無縁なのか、居心地が悪そうに肘掛け椅子に腰をかけ、屏風に描かれている画を眺めていた。だが、若い彫刻家の方はその逆で、さも快適そうに日本の団扇で顔を仰ぎながら早速私に指示を出す。

「とりあえず、裸になってもらおうか」

 ミュレルはそう言うと、笑顔のまま付け足した。「時間をかけて、ゆっくりと服を脱いで。その方が楽しいから」

 すると、伯爵が横から口を挟んだ。

「アンリ、わかってるな? 今夜は君を連れて顔を出さねばならない集まりがある」

「わかってますよ。あなたは女が裸になるのに、どれだけ時間がかかると思ってるんです?」

 伯爵は言葉を返さずに押し黙った。

 今夜のドレスは後ろ開きなので手伝ってもらわなければ脱げないことを伝えると、アンリ・ミュレルは自分は見て愉しみたいからと伯爵に私の手助けをするよう頼んだ。その言葉を聞くや否や、高潔な紳士の眉が憤りからぴくりと揺れ動く。

 ミュレルに対して向けられた伯爵の眼差しは、まるで相手を無言のままに批難しているようだった。やがて、彼は静かに立ち上がり、私と目を合わせることなく背後に周って「失礼」とかぎホックを一段一段外し始めた。不慣れな手つきで伯爵がこうしたことをする様を、彫刻家はひどく愉快そうに眺めていた。

 ドレスが重力に従ってするりと床の上に落とされる。私は言われたとおり時間をかけ、丁寧に身に纏っているものをひとつひとつ脱いでいった。ベッドに腰をかけてブーツの紐を解くとき、何気なく伯爵の顔を盗み見た。アンリ・ミュレルと同じように、ラ・トゥール伯爵の瞳もまた青かった。女が目の前で裸同然になっているというのに、わざと視線を逸らすみたいに部屋の片隅を凝視している。娼婦になってからもなる前も、こんな風に男に興味を示されず、見向きもされないことは未だかつてないことだった。

 気を使ってこちらを見ないようにしているのだろうか――?

 ミュレルは伯爵とは正反対で、一糸纏わぬ生まれたままの私の姿をさまざまな角度から食い入るように眺めていた。

雪花石膏アラバスターのように白い肌。うなじから肩にかけての清らかな線。美しく丸みを帯びた乳房。ひきしまった尻……。思ったとおりだ。完璧だよ。これこそまさに僕が求めていた理想の姿だ」

 得体の知れない焔が瞳の奥で揺らめいている。ミュレルは私の目を真っ直ぐに見つめると、にっこりと微笑んだ。

「君に決めたよ、ミニョン。君を僕の女神にする」



「先日、ラ・トゥール伯爵がこちらにいらしたそうですね」

 白髪のかつらを被ってお仕着せに身を纏い、いつも通りの従僕に扮したルソンジュ男爵が、リキュールを運びながら尋ねてきた。

「よく知ってるわね。――ああ、そういえばあなた伯爵の親戚だったわね。彼とここの話をしたの?」

「いいえ、女将マダムから伺いました。伯爵が最近どうしているのかお知りになりたいご様子でした」

「あの女は彼をここの常連客にしたがってるのよ。一度足を運んだきりしばらく経ってもやって来ないものだから、きっと気になって仕方ないのね」


『君に決めたよ、ミニョン。君を僕の女神にする』


 あの日、彫刻家と伯爵は私を抱くこともなく娼館から立ち去った。いや、正確に言うと、彫刻家の方は欲望のままに私の体へと身を寄せたが、不機嫌な伯爵に急かされて出て行くはめになったのだ。行為もせずに帰るだなんて、代金を踏み倒されるのかと思いきや、きちんと相応額支払われた。

「アンリ・ミュレルはあなたの言うとおり、いけすかない男だった。伯爵の方は……よくわからない方ね。私と目を合わせようともしなかったし、女の裸にも興味が無さそうだった」

「ルシエ・ド・ラトゥール伯爵は芸術に生きているのです。彼は今、五月の新作展サロン・ド・メに向けてミュレルに新たなる大作を生み出してもらうことに情熱を注いでいる。そもそも、あの方が娼館ここに足を運んだこと自体考えられない出来事なのです。大方ミュレルのわがままを聞いてやったといったところでしょう」

「でも、この私を前にして指一本触れなかったのよ? きっと男色趣味なのね」

 私の言葉にルソンジュ男爵は肩をすくめ、小さな笑いを滲ませた。

 ラ・トゥール伯爵の無関心さは、逆に私の関心を強く引いた。彼がどんな人物であるのか知りたいという気持ちが、日を追うごとに私の中で強まっていた。しかし、あれから早くも数週間が過ぎ去ったが彼らが再び現れる気配はなかった。



 大部屋に戻ると、カードゲームをしていた娘たちは私が戻ってきたことに気がつかず、世間話に花を咲かせていた。

「あれからミュレルさんも伯爵様も一度もル・クロに来ないよね。忙しいのかな? ミニョンが相手をした男たちは必ず三日以内にまたやって来るのに」

 オランジュの言葉をアンジェルが毒っ気たっぷりに引き継いだ。「ミニョンの魅力もその程度ってことだったんじゃない?」

 それからすぐに戸口に立っていた私の存在に気がつくと、彼女は慌てて口を閉じてゲームに興じるふりをした。相手にするだけ無駄なので、私は無視して羽織っていた化粧着を脱ぎ、彼女が手にしていた煙草を一口ふかしてからベッドの中に潜り込んだ。

 女たちの会話は新たな話題へと移ってゆく。

「それで? オランジュ、最近あんたの情夫はどうしてるの? ここんとこちっとも現れないじゃない」

 金髪で太ったリュシーの問いに対し、オランジュは歯切れ悪く言葉を返す。

「あの人は今、ちょっと忙しいのよ」

「まさかあんた、捨てられたの?」

「違う! そんなんじゃない!」

 すると、アンジェルが意地悪な笑顔で口を挟む。

「私、知ってるわ。あの男は二股かけてるのよ。このあいだ来た客が彼と知り合いらしくて、色々と教えてくれたわ」

 それを聞いて、オランジュはかっとなりアンジェルの胸倉を掴み上げた。「知ったような口利いたら許さないよ!」

「なにするのよ! 離しなさいよこのアバズレが!」

 天使の仮面が剥がれたアンジェルは、口汚くオランジュを罵り始める。「あんたみたいな汚れた女に本気で惚れる男がいるとでも思ってた? あの男に必要なのはあんたじゃなくて、あんたの稼ぎよ! 何も知らずにせっせとヒモに貢いで馬鹿丸出し。これだけ放っとかれてるんだから、いい加減気づきなさいよ!」

「黙れ! あんただって同じカゴの中にいるくせして! 自分を何様だと思ってるのさ!」

 そのとき、ドレスの裾をたくし上げて階段を上ってきたヴィオレットが、息を切らせながら部屋にやって来た。副女将スー=メトレスは取っ組み合う女たちの仲裁に入る。

「さあ、いい子だからベッドに入って! 女将に騒ぎがバレたら罰金よ。一番遅くまで寝てた子も罰金だってわかってるでしょ? 寝坊しないように早く寝るのよ」

 ふてくされた娘たちは、渋々とベッドへ移動する。普段から良くしてもらっているヴィオレットに対しては彼女たちも頭が上がらないのだ。

 手際よく娘たちを寝かしつけた副女将スー=メトレスは、ようやくと言った様子で私と向き合った。どうやら、急いで部屋にやって来たのは私に何か話があったからなようだ。

「ミニョン、明日は外泊出張よ」

「あらそう。そんなことをわざわざ伝えるために階段を走ってきたの?――それで、場所は?」

「モンソーの高級住宅街」

 そう言ってから、彼女は菫色の瞳を光らせて言葉を続けた。

「ラ・トゥール伯爵の思し召しよ」

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