或る貴婦人の回想

Lis Sucre

第一話 メゾン・クローズ

「愛してるよ、ミニョン」

 ブルジョワ紳士はそっと私の肩に手を置くと、柔らかな口髭を這わせながら首筋に口づけた。

「どうか僕を愛しておくれ。身も心も、君のすべてを僕だけに捧げておくれ」

「愛してるなら証拠を見せて。いつになったら娼館ここから出してくれるの?」

「もうちょっとだけ待ってくれないか。あともう少しの辛抱だよ」

「この間と話が違うわ。今すぐに身請けしてくれる約束だったじゃない」

女将マダムが君の値段をつり上げたんだ」

 あの女狐め――。

 私は苛立ちから波打つシーツをぎゅっと掴んだ。青年紳士はこちらの様子に気づきもしないで言葉を続ける。

「でも安心して。君の借金はすべて肩代わりして僕が絶対にここから出してあげるから。その代わり、僕だけを愛してくれる約束だよ? ほかの誰も愛さずに、僕だけだって今ここで誓っておくれよ、ミニョン」

 すがるように愛を求めてくる紳士にこれ以上会話を続けさせまいと、私は彼の口を封じるために接吻を繰り返す。そして、そのまま波打つシーツに相手を押し倒し、馬乗りになって体を動かした。まもなく、天使の装飾が微笑む閨房アルコーヴで、紳士は歓びの天上へと召されていく。



 私が身を置いている高級娼館メゾン・クローズは、モンマルトルの葡萄畑のそばにあることからル・クロと呼ばれていた。歓楽街のはずれに位置していながらも、パリで一、二を争う認可の家メゾン・ド・トレランスだ。そう。認可の家メゾン・ド・トレランス――すなわち、ここで働く娼婦たちは当局に登録されている。私たちは規制主義の果てに壁の中へと囲い込まれ、行政の監視下で安全に人々の欲望を満たす売春婦であり、社会の必要悪たる存在だった。

 もちろん、好きでこの世界に入ったわけではない。幼い頃、貧乏で無慈悲な母親によってお金のために売られたのだ。未成年者が娼婦として働くことは本来許されることではなかったが、女将(メトレス)が懇意にしている風紀課の警視が幼女狂いであったことから、私はミニョン(可愛い子)と呼ばれあえなく籠の鳥となった。

 ル・クロの女将マダムエステルは嫌な女だった。客の前では慎ましやかなブルジョワ婦人を気取っていたが、守銭奴の同性愛者レスビエンヌのこの女狐を好いているなんか、ここにはひとりだっていなかった。けれども、私はここから別の店へ移ろうと思ったことはない。どこへ行こうと娼館は娼館だ。籠の中であることに変わりはないのだ。

「ミミ、いつもの部屋で男爵がお待ちよ。すぐに行ってちょうだい」

『天使の間』から出て行くと、副女将スー=メトレスのヴィオレットに声をかけられた。ブルネットで目鼻立ちの整った妖艶なヴィオレットは、エステルのお気に入りだった。以前は私と同じように娼婦として働いていたが、最近新たに副女将スー=メトレスの職を与えられた。というのも、娼館ここには男装の麗人女の客もやって来ることがあって、嫉妬深いエステルがヴィオレットと女たちが交わることを嫌ったのだ。

 ヴィオレットもエステルと同じく同性愛者であったが、彼女は女主人を愛してはいなかった。愛していないが、計算高くその関係性を日々の暮らしに有効に利用していた。

「そういえば、例のブルジョワ紳士とはどうだった? 彼、身請けしてくれそう?」

「エステルの気が変わったせいでお預けよ」

 私の返答にヴィオレットは呆れたようにため息をつく。彼女は同情のこもった眼差しで私を見下ろすと、額にそっとキスをした。「大丈夫。きっとすぐに出られるわ。あなたみたいに美しくてウィットにとんだ娼婦はそういないもの。あなたを自分のものにしたいと思ってる男たちはほかにもたくさんいるんだから、必ず誰かがここから出してくれるわよ」

「たとえ七千フラン払っても?」

「七千フラン?」

 ヴィオレットは目を丸くした。「女将マダムったら本当に強欲ね」

 そう言うと、彼女は私の胸に愛おしそうに顔を埋めて言葉を続けた。「可愛いミニョン、私にお金があったらあなたを自由にしてあげられるのに」

「男爵が待ってるわ」

 女友達の優しい愛撫から逃れるように化粧着を翻すと、私は音もなく絨毯を踏みしめて『王妃の間』へと足を運んだ。



 マリー・アントワネットの寝室を模したという『王妃の間』は、金の装飾と色鮮やかな花の刺繍が溢れる豪華絢爛な部屋だった。馴染み客のルソンジュ男爵は女使用人の格好をして、天井まである背の高い鏡に自身の姿を写し、ひとり恍惚としていた。ガーゴイルのような厳しい顔つきをしたこの中年紳士は、『人に仕える』ことを愉しみとする秘かな趣味を持っていた。

 男爵は私がやって来たことに気がつくと、鏡越しに微笑んだ。「お帰りなさいませ、王妃様」

 どうやら遊戯はすでに始まっているらしい。

「その女装似合ってるわね。いつものお仕着せ姿も素敵だけど、今回のは傑作だわ」

 私の言葉を無視するように、男爵の演技は淡々と続けられる。

「何かご用意致しますか? なんなりとお申し付け下さいませ」

「そうねえ。お風呂に入りたいわ」

「かしこまりました」

「浴槽にシャンパンをたっぷり注いで頂戴。この店で一番高いやつをお願い」

「お支払いはあなた様がなさるのですよ? よろしいので?」

「たまには奢ってくれたっていいじゃない」

 ここで一瞬、男爵はユーモラスな笑いを浮かべる。私も微笑みながらベッドの上に寝転んだ。

「気分が変わったわ。新聞を取ってちょうだい」

 従順な使用人は、すぐさまル・フィガロ紙を私の元へと運んでくれた。

 この古くからの男友達は、無理に私の機嫌をとろうとしたりしないので、なかなか居心地が良かった。彼はある時は朗読者として、またある時は家庭教師として、私に字の読み書きを教えてくれた。最近の授業は上流階級のマナーや気の利いた会話の仕方、政治・経済の話から芸術に至るまで、ありとあらゆることに及んでいる。

 貴婦人のように教養のある娼婦を貴族やブルジョワ客は物珍しがり、私は男爵のおかげで彼らから一目置かれるようになった。

「ねえ、サロンで今話題になっている『悪夢』の彫刻、見に行った? なんでも作者は新進気鋭の若者で、相当な美男子らしいわねえ。作品よりも作者を求めてご婦人がたが会場に押し寄せたってこの記事に書いてあるわ」

「アンリ・ミュレルのことでございますか」

 私は男爵が勧めてくれた砂糖焼巴旦杏プラリーヌをひとつ齧って頷いた。「一体どんな人なのかしら」

「彼は国立美術学校エコール・デ・ボザール出身で、カリエ=ベルーズのお気に入りです。作品は確かに素晴らしい出来でしたが、本人はひどく傲岸不遜でいけすかない若者でした」

「本人と直接会ったことがあるの?」

「わたくしの義理の姉が名門貴族の出だという話は以前したことがございましたかな? 彼女の血をわけた兄であるラ・トゥール伯爵がミュレルのパトロンなので、一度お会いしたことがございます」

「へえ。早くも伯爵がパトロンについているだなんて、なかなか前途有望なのね」

「さて、どうでしょう。才能は花開くのも早ければ、散るのもまた早いこともございます」

 ルソンジュ男爵は時折核心をつくようなことをさらりと口にすることがある。そんな時、彼は確かに変わり者だが、とてもまともな種類の人間なのではないかと私は思う。けれども、パリのアパルトマンでひとり豪奢な生活を送るこの独身貴族は、一族の間ではただの変人でしかなく爪弾き者だった。

 ラ・トゥール伯爵の妹君にあたる義姉からは絶縁され、可愛がっていた甥っ子の子供たちにもなかなか会わせてもらえなくなってしまったのだと、つい先日漏らしていたっけ。そうだ。ラ・トゥールの名を初めて耳にしたのは、確かこの話を聞いたときだった。



 娼館の朝は遅い。だいたい十一時頃か十二時頃になってようやく皆が起き始める。私たち娼婦は大部屋に押し込まれるようにして二人一組でひとつのベッドを与えられていた。私はヴィオレットと一緒のベッドだった。エステルはヴィオレットに個室を与えたがっていたが、彼女は適当に言い逃れて大部屋に留まっていた。(ここにいれば女狐の相手をせずに済んだし、さまざまな女の子たちを相手に好きなだけ愉しめるからだ)

 ヴィオレットの誘いに興じて、私は気まぐれから時々彼女の相手をすることもあった。毎晩床を共にし、体を寄せ合っていればそんな気持ちになる時だってあるのだ。私は女と寝ることが出来るが、彼女たちを恋愛の対象として見ることは出来なかった。

 今朝も憂さ晴らしをするかのごとくヴィオレットと体を温めて、それから階下の食堂に下りて来た。テーブルについてカフェ・オ・レを飲んでいると、やがて皆が起き出して来て、食堂は瞬く間に鳥の囀りのような騒がしさに包まれる。

 女はお喋りが大好きだ。特にオレンジ色の髪をしたそばかすだらけのオランジュは、愛する情夫ヒモの話をいつも朝から晩まで飽きることなく続けていた。明るい性格のオランジュは客の男たちから評判が良く、ル・クロの人気娼婦だった。

 彼女の隣では金髪のアンジェルが天使のような表情で耳を傾けていたが、それは表向きだけのことであって、この娘は内心では相手を見下し、機会を見つけてライバルを蹴落とそうとする野心家だった。

 夕方になるまで、私たちは居間で思い思いに過ごすことが出来た。長椅子に腰をかけ小説を読む気だるい午後は、一日の中で私の最もお気に入りの時間だった。やがて、副女将ヴィオレットの号令で私たちは各々身づくろいをし始める。相変わらずお喋りを続けながら丁寧に体を洗い、クリームや香油を塗って、入念に化粧をほどこす。

 美容師がコテで私の髪を巻いているとき、無駄に大きな胸を揺らせてエステルがやって来た。編み上げた黒髪をこめかみの横からぐるりと前髪の上に沿って巻きつけたエステルは、古風で地味な顔立ちをしていたが、清楚で従順そうに見えるのでそれなりに男を魅了した。(この女を目当てにここを訪れる愚かな客も少なからずいるのだった)

「今日は芸術家のお客様方がいらっしゃってるわ。みんないつも通り愛想良くお願いね」

 エステルは女将マダムらしい振る舞いでもって、豪華な宝石がついたネックレスをひとつ選ぶと、それを私の首に回しつけながら耳元で囁いた。

「若手彫刻家のミュレルさんに付き添って、パトロンである大貴族の伯爵様もいらしてるのよ。ねえミニョン。ラ・トゥール伯爵をあなたの手腕で常連客になるよう仕向けてちょうだい」

 私はエステルに向き合った。「そんなことより、ユベールに大金を吹っ掛けたそうね」

「ユベール? ああ、あのブルジョワ紳士のことね? あなたほどの娘を手放さなきゃならないんですもの、もっと払って頂かなくちゃ。彼は自分では自由に出来るお金がないけれど、お父様に頼んできっとすぐにあなたを自由にしてくれますよ」

 私は飼い主がはめた首輪をもぎ取ると、これみよがしに床の上に投げ捨てた。エステルは私を嗜めてから宝石を拾い上げると、話を今夜の客に戻した。

「伯爵は相当な大金持ちよ。きっとあなたの負債を払って館のひとつでも買ってくださるわ」

 内緒話を聞きつけたアンジェルが笑顔で私たちの間に割り込んでくる。

女将マダム、伯爵様のお相手なら私が――」

「ああ、アンジェル。あなたは古参のお客様のお相手をしてくれればいいのよ。伯爵様を魅了出来るのは、きっとこのル・クロで一番人気のミニョンでしょうからね」

 その言葉に、アンジェルはあからさまに天使の笑顔を歪めたが、それは一瞬のことだったのでエステルは見逃した。いや、守銭奴の女主人は頭の中で捕らぬ狸の皮算用をするのに忙しかったので、気がつくはずもないのだが……。



 色鮮やかなドレスを身に着けた娼婦たちが、サロンで客とブルゴーニュ・シャンパンを楽しげに煽っている。眼鏡の奥から興奮気味に女を見つめる男もいれば、すでに酔いが回って上機嫌で歌を歌いだす者もいた。

 そんな男たちの中に、ひとり群を抜いて美しい若者が座っていた。ギリシャ神話に登場するアドニスの面影を残したようなその青年は、非常に整った目鼻立ちで、まさしく天の恵みのようだった。彼は色めきたった娘たちに囲まれていたが、彼女らの話に夢中になることはなく、勿忘草のように青い瞳をじっと私に向けてきた。この青年こそが、例の若手彫刻家アンリ・ミュレルに違いない。

 そして、手前に腰掛けている彼よりいくつか年輩の紳士こそが、パリ屈指の名門貴族であるラ・トゥール伯爵に違いなかった。洗練されたその物腰は出自を隠せやしないのだ。ビロード張りの長椅子に腰かけるその風貌は、礼儀正しく凛としており、貴族らしい傲岸さこそなかったが、顔立ちからある種の潔癖さが伺えた。ハンサムではあったものの、隣にいる若き彫刻家の圧倒的な存在感が眩い光を放ちすぎていたために、影となっているような印象を受けた。

 アンリ・ミュレルは彼の右隣りを陣取っていたアンジェルに私の名前を尋ねると、おもむろに長椅子から立ち上がりこちらに向かって歩いてきた。甘ったるい微笑を浮かべた青年は、隣りに腰を掛けるなり唐突に切り出した。

「僕の友人があなたのことを女神と呼んで湛えていました。『枯れない泉』の話は本当ですか?」

 それはつい先日、私が客のひとりに語った話だった。ただ繰り返されるばかりの日々の行為にすっかり無感動になっていた私は、客とセックスしても何も感じることがなくなっていた。だが、条件反射のごとく泉はいつもきちんと必要に応じて私の中から湧き出でる――という話を客のひとり(確か詩人だったと思う)に話したところ、北欧の神話を引き合いに出して女神と湛えられたのだ。

「気になるならご自分で試してみたら?」

 私の返答にミュレルは好奇の眼を光らせた。

「それはつまり、今ここであなたを抱いてもいいってこと?」

 彼が悪戯気に私に触れようとしたとき、いつの間に歩み寄っていたのか伯爵が静かにそれを制した。

「お遊びはよせ、アンリ。私はそんなことのためにわざわざ君をここへ連れてきたわけではない」

「……わかってますよ。ちょっとからかっただけです」

 青年は悪びれた様子もなく、屈託の無い笑顔を浮かべて辺りを見回した。私たちの周りでは、すでに連れ合いの男たちが娘たちのドレスを脱がせたり、自分の物を慰めてもらったりしていた。

「パリで評判の高級娼館メゾン・クローズだって言うから期待してきたのに、正直がっかりだ。どいつもこいつもブスばっかりじゃないか」

 ルソンジュ男爵が言っていたとおり、確かにアンリ・ミュレルはいけすかない若者だった。たとえこの男が血を流したとしても、そこからアネモネの花は咲いたりしないだろう。

 私はその場から立ち上がり、泡立つシャンパングラスをミュレルの頭上で傾けた。黄金色の液体に湿った羽毛のような髪の毛が、癖っ毛を一層増してくるくると飛び跳ねる。

「ここが気に入らないのなら、他店にでも行ったらどう? 新しく中国娘が入ったところもあるそうだから、きっとお気に召すんじゃないかしら」

 彼はしばらくの間呆然としていたが、滴り落ちる水滴を片方の口端でぺろりと舐め上げると、伯爵に向かって愉快そうにこう言った。

「この女が気に入った。ねえ伯爵、彼女と上の部屋へ上がらせてくれませんか?」

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