第3話 オリオン

自分を責めたい少女が、彼を責める話。




オリオン




 狭い通りに短い怒声が響いた。その場に偶然居合わせた何人かが驚いてそちらに目を向けたが、そこに立つ若者たちに気がつくと慌てて視線をそらした。


「あんたみたいな奴は迷惑なのよ」


 きつい目をした少女が地面に倒れ込んだ青年に向かって言い放つ。少女の性格のトゲトゲしさを現わすように小柄な彼女の体を包むのはラインのピッタリとした奇抜で毒々しい服だ。対して少女を見上げる青年はボロボロの似合わないGパンと大きすぎて細いそのひよわな体に合わないぶかぶかのTシャツ姿だった。


「なんだと、お前……」


口を開いた青年の声は妙に甲高くハッキリとしていたが、最後まで言う前にそれは少女の低く暗い声にさえぎられた。


「あんたみたいなのが居るからオリオンが誤解されるんだ。あんたみたいなのがリゲルの傍に来るから」


「リゲル?」その名前を聞いて青年は唇を歪めた。


「お前か、リゲルにつきまとってる女ってのは! あぁ、お前、自分が相手にされないから僕に当たってるんだろ?お前………………」


 青年はまたしても最後まで言うことができなかった。激高した少女の靴底が青年の脇腹に食い込んだからだ。


「……ね!」


 少女は口早に毒づくと胃液を吐いてのたうちまわる青年を尻目に、昂る気持ちを抑つけたような早い歩みでその場を去った。その場からその少女の姿が見えなくなると、周りで遠巻きにその一幕を見ていた青年の仲間たちの一人が、腹を抱えてうめく彼に声をかけた。そのまま、のっそりと歩み寄る。







「くそっ、あの女…………今度会ったら絶対ぶちのめしてやる…………」


 呻き声と少女への恨み事を呟く彼に、しかし、声をかけた青年は首を振った。


「そんなことできるわけねえよ。今だってそうだ。手を出したのがベスじゃなくてお前だったら、次の瞬間、ぶちのめされてたのは、クスノキ、お前だ」


 その言葉に驚いてクスノキは目の前に来たそのたくましい坊主頭を見た。


「馬鹿だな、お前。オリオンに居て、リゲルに恨まれたくなかったらベスのことは知らないふりをしておく。そういうもんなんだよ」


「それに」別の仲間が言った。「ベスはいい子よ。あの子を怒らせるあんたが悪いのよ。仲良くしときなさい」

 愕然としてクスノキは周りの「仲間」を見回した。しかし、彼を囲む者の中の一人として、クスノキに近い感情を持った者は見つからないようだった。


「まぁ、お前は入ったばかりだからな。そのうちわかるさ」


 また別の誰かが言った。

 そんな馬鹿なことがあるか?

 クスノキは目を白黒させて頭の中で怒鳴った。だが、声に出せなかったのは痛む脇腹のせいだけではない。代わりに弱々しく口から漏れたのは全く別な言葉だ。


「仲間……だよな?」


 僕も、オリオンの。

 腹の痛みと混乱と不安の中で、クスノキ自身、その時の自分の顔にどんな表情が浮かんでいるのか気付いていなかったが、目には卑屈でこびるような光が浮かび、口元は自信無く歪んでいた。それを見て、周りの青年たちは軽い苦笑いを浮かべながら、それでも「そうだよ」と言った。彼らはクスノキが起き上がるのに手を貸し、さらに何人かは「オリオン」の溜まり場まで付き添ってくれた。

 オリオンの溜まり場は昔、この辺の若者が自動車を整備するために使っていた広いガレージだ。中心部だけはきれいに片付けられて少し洒落たテーブルや椅子も置いてあるが、端の方にはまだよくわからない部品がたくさん転がっている。

 椅子のひとつの足元に座らせられたクスノキはミネラルウォーターの入った小さな瓶を渡された。せき込みながら瓶の中味を半分ほど一気に流し込む。ズキズキ痛む脇腹は少し楽になったようだった。例の坊主頭を残して他の連中はすでにそれぞれの場所に戻っていた。


「もう少し、鍛えたらどうだ?」と坊主頭。

「俺が鍛えてどうすんだよ。僕は頭脳労働者だよ」


 笑う。クスノキが一番、自分で気に入っている笑い方だ。だが、坊主頭からは何の反応も返って来なかった。


「ベスに蹴られて転がってるようじゃあな」

「あんな奴、女じゃないよ」


 今度は脇を向いて吐き捨てるように言ってみた。しかし、まだ坊主頭はクスノキを軽く見ただけで、どこか冷めた態度のままだ。


「コックス。僕、もうオリオンに入って三週間だ」

「COXだ」発音を直す坊主頭。「名前も覚えられないようならまだ新米だな」


 クスノキは自分の感じた不愉快さを隠す気もないらしく、奥歯を噛んで下を向いた。下を向いてしまったので彼にはわからなかったが、COXはいかにもやれやれといった苦笑いを浮かべた。


「まぁ、お前もオリオンとしてやって行く気があるみたいだから、俺も新米の世話役としてお前にベスのことを教えてやる」

「ベスのこと?」


 不愉快そうに脇腹をさするクスノキ。いきなり因縁をつけて来た少女の顔を思い出して、腹がもう一発蹴られたようにギュッと痛んだ気がしたのだ。COXはお構いなしに話を続ける。


「俺はベスを昔っから知ってるんだ。リゲル程じゃないけどね。俺がリゲルと会った時、ベスはまだ十歳にもなってなかった」

「あの女、そんなに昔からリゲルに付きまとってたのか?」


 クスノキは驚いて声を上げた。ずいぶん年季の入った「ストーカー」だ。グルーピーとでも言うべきか? ウラマドにすでに十歳の頃から居たことにも驚いたが、オリオンで最も古株のCOXよりも昔からリゲルの傍に居たというのが衝撃的だった。

 COXは今度はクスノキにもはっきりとわかる苦笑いを浮かべて、彼の顔を見た。


「ベスはリゲルの『妹』だ。驚くなよ、血は繋がってない。リゲルの妹で、俺たちオリオン全体の妹みたいなヤツなんだ」


 驚くなよ、というCOXの言葉の後にはいつも驚くだけの話が付いて来る。クスノキは驚き過ぎてぽかんとした。

 オリオンに、「妹」だって?


「今、十五、六くらいかな。オリオンができて五年半。ベスはリゲルとオリオンと一定の距離を持って、だけどずっと一緒に居たんだ。もちろん、距離を開けてたのはいつもベスの方……。だけど、一年ちょっと前、その距離はいきなり大きくなった。

 でも、ベスはそれまでは時々ここへ来て、リゲルや俺たちと一緒にいたんだよ」


 COXの話を要約するとこんな感じだった。ベスは五歳くらいの時にシティから文字通り「落ちて来た」子供で、その時、リゲルが見つけて拾って育てた。つまり、オリオンが結成されるずっと前からリゲルと一緒に暮らしていたらしい。


「リゲルは彼女にベテルギュースという名前を付けて、いつも一緒に居た。呼びづらいだろ? でも、彼女もそう呼ばれることを好んでた。――――もちろん、シティでの名前もあったみたいだけど、それは俺は知らない。ここではずっと彼女はベテルって呼ばれてた。

 そして、彼女が俺たちと疎遠になってから、あの子は自分で名前を変えて”ベス”になった。

 ベスの中で何があったか知らないけど、とにかくベテルからベスになってもベスは俺たちとリゲルの妹なんだ」


 ベテルギュース? クスノキは頭をひねるとCOXはオリオンを構成する星の名前だと言った。リゲルとベテルギュース。どちらもオリオンという星座にある星の名前らしい。

「お前もオリオンなら覚えておけよ。ベスは俺たちの…………何よりリゲルの大切な妹だ。俺たちはベスを守ってやらなきゃならないんだ」

 それは、とても優しい言葉だった。クスノキはCOXの口からそんな優しい言葉を聞いたのは初めてだった。だから、彼は長い時の壁を感じて絶望した。


「僕は…………『仲間』じゃないの??」


 クスノキは、ずっとオリオンに入ったら『仲間』になれると思っていた。だけど、その中にも時間の絆はちゃんと存在していたのだ。がっくりと肩を落としたクスノキにCOXは言った。


「お前はオリオンに入ったよ。だけど、仲間になるのはこれからだろう?」








 太陽の光がやけに熱いと感じる日だった。

 その日、彼はいつものテリトリーからかなり外れた場所へ出かけていた。裏通りのそのまた裏通りのその店で珍しいジャンク品やシティの新しいコンピュータの部品が手に入るという情報を得たからだ。彼はオリオンに入って半年余り経つが、入った当初の「頭脳労働者」の看板はかろうじてまだ健在だった。入ってしばらくしてわかったことだが、彼がひよわな体力を隠す盾として掲げたその看板は実はとても小さなもので、オリオンには彼よりもっと優れた「頭脳労働者」向きの人間はたくさん居た。だから、彼は最初、自分が思っていたよりも役立たずだった。しかし、「頭脳労働者」向きの先輩たちからたくさんの仕事を貰い、仕事を教えて貰ったお陰で、彼らにはまだ及ばないとはいえ、クスノキにもそれなりの能力は身についていた。


 ウラマドにはそこでの能力を計るひとつの目安がある。


 ウラマドを繋ぐネットの中には一人の『幽霊』が住む。名前はハナコ。金次第で仕事を請け負う知能を持ったハッカープログラム。噂ではウラマドとは遮断されているはずの「シティ」のデータまで提供してくれるという。ただし、そこまで万能な何でも屋なだけにハナコに接触するためのハードルは高い。クスノキは、ここ半年の必死の努力のお陰でそのハナコとの接触を許されてるほどになっていた。


 今日の情報もハナコのものだ。ただ、ハナコの情報でも、幾らふっかけられるかまでは主人の気分次第でわからないと言われ、仕方なくクスノキは一見して到底そんな大層なモノが入っているようには見えないボロ鞄に、割と大量の緑の紙束と何枚かのカードを詰めて外出した。もちろん、ソレに対する『保険』も携帯している。しかし…………。


 ――――誰か、付けてくれればいいのに。


 クスノキはこっそり、ため息をついた。

 『保険』だけで不安なのでは無い。この半年でコンピュータの扱いだけではなく、ひとりで”お使い”をこなすのに支障の無い程度には、オリオンの名前と『保険』の使い方を覚えた。


 だが、重いのだ。荷物が。


 いくら少したくましくなったとは言え、肩からかけた厚い合革とビニールの鞄はぎゅう詰め、しかも、時間が悪かったのか、途中の電車もすし詰め状態で二時間も鞄を抱えたまま座れなかった。もしかして、すし詰め電車の乗客たちの湿気を吸ってさらに重くなったんじゃないのか――――つまらない考えは振り払った。


 天気は空は雲ひとつない晴れ模様、埃っぽくて日陰のない乾燥した通りが長く伸びている。


 ―――――少し、休んでもいいだろうか。


 駅から重い鞄と熱い熱い太陽を背負って歩くこと、一時間。目の前のカフェを見てクスノキは迷った。まだ変な所で新人の緊張感の抜け切っていない半新米者であった。


 ――――今回の用事は、別に至急だとか人目につくなとか休むなとは言われてないし。


 しばらく、迷った後、彼は涼しそうなカフェへ続く階段に足をかけた。




「あんたなんか!」


 クスノキは店に入ることはできなかった。


 それどころか、階段を登り終わることも許されなかった。どこかで聞いたような声が聞こえ、目の前のドアが開くのと同時に細身の男が飛んで来た。

 いや、突き飛ばされて来たと言った方がたぶん正確なんだろうと思う。背中から降って来た男のすぐ後から反動で閉まろうとするドアを乱暴に払って、いつかの少女が出て来るのが見えたからだ。突かれたのではなくて、蹴り飛ばされたのかもしれない。


 男の右耳で太陽の光を強く反射して星が輝いた。クスノキの視界はそこで一瞬暗転する。反射的に鞄を抱えたクスノキは背中から叩きつけられた。続けざまに吹っ飛んで来た男は鞄がクッションとなって思った程の衝撃は受けなかった。背中の痛みをこらえてクスノキが細く目を開けると、今クスノキを押し潰している男とは別の新しい男がドアの前で少女の両手をねじり上げていた。


 ――――仕方ないな。


 倒れ込んで来た男を鞄を抱えていた手で乱暴にどけると、別の手で鞄のポケットに詰めた『保険』をつかみ取る。それから、スイッチを入れて少女、ベスを地面に叩きつけようとしている男へ投げつけた。狙い誤らず、それは男の体に命中し、男は悲鳴を上げて逆に倒れ込んだ。ベスはそのままうまく着地し、クスノキが投げた警棒のようなモノをつかんで階段を駆け降りる。


「こっちだよ!」


 クスノキはベスの手を強引につかんで走り出す。起き上がった最初の男が慌ててベスとクスノキ、そして倒れた男を交互に見る。その隙に近くの小路に駆け込むクスノキ。


「それを…………」


 逃げながら、武器を返してもらおうとベスの方を振り返るとベスは疑心に満ちたあのきつい目でクスノキをにらみ、別の手でぎゅっとその武器を握った。


「とりあえず、今は僕をそれで殴らないでくれよ」


 情けなさそうにクスノキは言った。走っているので言葉も切れ切れだが、言い終えて彼女相手に最後まで言葉を続けられて良かったと思った。もしかしたら、途中で殴られるかもしれないと思ったからだ。彼女の持っているのは警棒型の護身用のスタンガンのような物で、スイッチを入れると持ち手以外の棒全体に青い電流が走る。殴られても命に別状はないが倒れている間にさっきの男たちに捕まるのはご免だ。少し距離はあるが、後ろから荒々しい乱れた足音が聞こえる。







 相手はかなり執念深い性格のようだった。いくつも曲がり角を過ぎても足音と怒声は消えなかった。だんだん、クスノキとベスの息があがる。そして、とうとう、どこかの裏口の傍に並んでいた三つのゴミ箱を蹴倒すとラストスパートとばかりに傍の小路を滅茶苦茶に駆け、その先に置いてあった大きな樽の陰に二人で座り込んだ。ベスは相変わらず、何か言いたそうな目をクスノキに向けているが、まだその小さな体に空気を送るのに忙しくて何も言えないらしく、隣にへたり込んでいる。クスノキは汗ばんだ手で慌てて鞄から小さな観音開きのコンピュータを出し、開く。続いて、いくつかボタンを押し、何かを打ち込む。最後に鞄からカードを一枚、コンピュータの一部に差し込んだ。


「ハナコ、頼む!」


 ぱっと小さなディスプレイからいつもの陽気な幽霊の幻影が踊り出て、いつもの調子で一人でペラペラと喋り始める。そうしている間にも足音は近づく。


「ゴメン、今話てる所じゃないんだ! ちょっと追われてて何とかしてくれ!」


 はぁ~?とプログラム上の幻は面倒そうな表情になる。しかし、それがスタイルだけであるのは、ハナコとの付き合いが短いクスノキもなんとなく気付いている。ジュ、ジュジュッと差し込んだカードから何かデータが動く音がする。


『はい、終わり~』


 重い物が無理に動くような音がして、足音と怒声は聞こえなくなった。


『ラッキーだったわねえ。この辺りはねえ、地下に昔のヤバ気なでっかい工場跡があってね~、一部の建造物がいまだにコンピュータで動くもんだから、こーゆーのはカンタン

 …………って、アレ? ベスちゃんじゃない? 久しぶり……』


 ブツッとハナコの姿がディスプレイから消えた。クスノキが接続を切ったのだ。長い安堵のため息をつく。


「って、アレ、ハナコと会ったことあるんだ」


 少し間があいてから気付く。息が整えたクスノキがベスを見た。もう既に回復していたらしいベスは小さな眉間にオーバーなくらいのしわをギュッと寄せて何か言いたそうに彼を見ている。


「もしかして、ハナコと喋りたかった…………?」

「あんた、何?」


 ベスはクスノキの言葉を無視するように喋った。少し、クスノキの顔が引きつる。


「何で一緒に逃げたの?」


 一般的には助けた、って言うんだと思うけど。言おうとして、ベスの右手にまだしっかりと握られているさっきの警棒に気付いてクスノキは黙った。いつかのように余計なことを言って途中で殴られたらたまらない。


「COXに君のこと聞いたんだ」


 口早に答える。注意しないと、このお嬢さんは恐ろしい。


「COX! あのバカ」


ベスは顔をしかめた。


「アイツが最初、片星のピアスなんかするから悪いんだ。あぁいう自称『オリオン系』の奴らが真似して、今じゃやつらの象徴だよ」


 COXの話題は何かベスの勘に触ったようだ。


 ――――いや、COXというより彼の星形のピアスか


 さっきの男たちの耳で星が光っていたのを思い出して、クスノキは心の中で呟いた。


「COXは、今はしてないよ。……………他のヤツでしてる奴はまだ居るけど」


 クスノキは、少し好意的な、苦笑いを浮かべた。


「じゃ、あんたはオリオン?」とベス。


 クスノキは少しめまいがした。あの時の脇腹の痛みが再発したような気がして、思わず脇腹に手を置くと、途端にベスの顔が険しくなった。


「あんた…………あの時の!」


 クスノキは慌てて両手でバックを目の前にかざした。警棒とバックの合革がぶつかってギュッという変な音がした。


「…………スイッチ、つけ放しだったから充電切れかけてるんじゃないの?」


 フッと鞄にかかっていた圧力が緩んだ。鞄の下でクスノキは少し笑って、次の瞬間、体重をかけて鞄を少女の方へ押し付けた。男のクスノキがようやく持っていた鞄だ。ベスはすっかり鞄に潰されてしまい、その隙にクスノキは警棒を取り上げて、スイッチを切る。


「冷静に話合おう、なんて今更言っても仕方ないけど、とりあえずCOXにキミがオリオンとリゲルの妹だって聞いたから、何もしないよ」


 左手でまだ熱い警棒を脇に押やり、右手でベスを潰した鞄を抑えながら言う。たぶん、鞄の下のベスは凄い顔でにらんでいるだろう。怖い怖い。


「とりあえず、助けたんだから、形だけでも感謝しろよ」


 鞄ごと手をどかす。手だけどかせば、鞄を跳ね除けて彼女が殴りかかって来そうな気がしたからだ。事実、鞄の下のベスは押し付けられた鞄の縫い目の跡を顔にべったりつけながら目玉が飛び出そうな程彼をにらんでいた。そんな彼女の前に、さっきコンピュータに差し込んだ一枚のカードがヒラヒラと振られる。


「ハナコを呼んだせいでコレ一枚使えなくなっちゃったよ」


 ハナコを呼び出して、助けて貰うのは有料だ。しかも、あのがめついオバケはかなりの高額な仕事をする。


「あんたも逃げていたんじゃない」


 …………このベスのどこがオリオンとリゲルに愛される妹なのかクスノキにはわからない。


 だが、事実、オリオンではよくベスの話が話題のぼる。大半はベスが何か騒ぎを起こしていたのをオリオンの面子が手を回してもみ消したといったような内容で、いずれもクスノキが青くなるようなタチの悪さだ。なのに、なぜか皆はベスの名前が出ると嬉しそうで、その様子は本当におてんば妹の自慢話をする兄たちの姿を思わせる。彼らにしてみれば、そのドタバタも彼女が元気な証拠で、ベスが五体満足ならそれで良いのだろうか。中でも特にリゲルはベスの話題が出ると、滅多に見せない表情で、嬉しそうに、楽しそうに、笑う。


 だからこそ、クスノキはもう一度ベスに会ってみたいと思っていた。


 そして、今、再び会うことができた。目の前でむくれているベスを見て――――それはそんなかわいいものじゃなかったが――――、クスノキはつい自分も兄の一人になった気持ちで何か言ってみたくなった。


「いくらリゲルの妹だからって言ってもオリオンがかばうのにも限界があるんだ。こんなオリオンの勢力範囲外まで来て問題起こすな…………」


 何気なく言ったつもりだったが、ベスの顔を見て口をつぐんだ。充分遅すぎたが。






 ――――どうして俺はこう、へまばかりしてしまうんだ。


 まだ、ふとした時にぼろの出るまだ未熟なクスノキだった…………。


「オリオンが、わたしをかばう?」


 一転して、憑きものが落ちたような気の抜けた表情でクスノキを見るベス。いつものきつい目とトゲトゲしさがないせいだろう、彼は出し抜けにベスがまだ十五、六の少女だと言うことを思い出した。


「知らなかったのか、あれだけ問題を起こしておいて??」


 だって、と動揺したまま、彼女は自分の服のポケットをあちこち探り始めた。


「あたしがオリオンの…………ベテルギュースだったからかと思っていた…………」


 そして、ジャケットのポケットに入っていた銀の煙草ケースから細い煙草を一本、取り出した。その煙草を見てクスノキは少し驚いた。珍しい旧式煙草だ。今はウラマドでも煙草を吸う人間はほとんど居ない。吸ったとしても、体に害が少なく、旧式煙草と同じ効果の得られる薬品の合成煙草が主流だ。かと言って昔の旧式煙草が消えた訳ではなく、もちろん企業などはもう無いが、昔の旧式煙草の煙草畑や工場を先祖から受け継いだ頑固な人間がそれはそれでまだ作っており、それなりの値段で昔を懐かしむ人たちが入手している。


「リゲルが…………命令した?」


 大きく煙草の煙を吸い込んで、吐く。ベスはいつもどおりのにらむような姿勢だったが、薄い煙の向こうで、確かに瞳が揺れていた。


「リゲルが、というか」言葉を選びながらクスノキは答えた。ふと、不覚にもベスにまた凶器を持たせてしまったことが気になっていた。彼女の気性なら煙草でも充分危険な凶器になるだろう。


「オリオン全体が君を妹だと思っているみたいだよ。皆、君がかわいいらしい。何故かね」


 ふうん、と鼻を鳴らすと嫌な笑顔でベスはクスノキを見上げた。


「他のオリオンたちを真似て、あんたも? わたしを妹だと?」

「僕は…………別に思っちゃいないけど。でも、オリオンとして不本意ながらあんたを助けないとね」


 少し、ためらう。クスノキには軽い恨みはあっても少女に対して好意的な執着はなにも無い。だが、オリオンで何度も彼女の話を耳にしているうちに、彼も彼らと同じような気持ちであるような錯覚を抱いていたのだ。


「あんた、まだオリオンに居たの? とっくに辞めたと思ってた」


 ずけずけとベスの言葉には容赦というものがまるでない。

 おのれの未熟さを痛感していたところだったし、そうでなくても、あからさまな悪意はグッとこたえた。だが、それでも少し余裕があったのだろうか。この時、クスノキは初めて少女の態度を奇妙におもった。


「なんでそんなに僕につっかかるのさ?」


 嫌なものを見るかのような少女の瞳はクスノキを射た。それから、出来の悪い生徒を責めながら、ゆっくり教えるサディスティックな教師のように表情を動かした。


「あんたが、あの時、わたしを見たからよ。わたしはあんたみたいな奴をよっく知っている。あんたはオリオン系の奴らそっくり!」


 ベスの瞳は暗い色を増した。嫌な目だ。


「オリオンはオリオン系の奴らが妄想しているようなものじゃない。あんただって…………。あんたは、あの日、ずっと自分を見てる女の子に気付いたろ」


 ベスの言葉にあの日の自分が鮮烈に浮かび、なぜか少し嫌な予感がした。が、遅かった。ぶっとベスは唾を地面に吐きつけた。


「あの日、女の子に気付いてあんたは自分に気があるのかと思った。

 そうだろ?

 あんたはわたしを誘おうとしたじゃないか。

 あんたみたいな奴をわたしはよっく知ってる。

 あんたは本当は意気地が無くて、不満を抱えてるくせに何もできなくて、自分と違う存在とわかり合うことが怖い。仲間もできなくて、一人だけど、そんな自分を優れた幻影に重ねてる…………。

 だから、利用してるんだ。あんたはオリオンに依存して頼ろうとしてる、そんな虫けら!」


 激しい不快感が襲って来た。

 罵詈讒謗とはまさしくこのことだ。

 クスノキを襲ったのは、怒りで拳を固めるような類の不快感ではない。グラグラして倒れ込みそうな、立ちくらみにも似た不快感…………だんだん、頭に昇った血のせいで視界が狭まり、少女の毒づく口と悪意の満ちた目しか見えなくなっていく気がした。

 それでも、堰を切ったように少女の罵りは続く。

 ぎゅっと…………、無意識に彼は先程少女から奪い返した警棒を握っていた。いやな、もくもくとした暗い気持ちが奥底からにじみ出して内面を侵していく感覚。ベスの声が耳障りな雑音に変わってゆく。このとき頭をよぎった恐ろしい考えはのちに冷静さを取り戻し改めて振り返るまで自分も自覚できない類いのものだった。


「…………あんたみたいな奴が」


 罵っているうちに少女もすっかり興奮していた。


「あんたみたいな奴がオリオンを喰いものにするんだ! 仲間みたいな顔をして、うすら近付いてくるあんたみたいな奴が、リゲルを傷つけるんだ!!」


 悲鳴みたいな声がわずかに引き金を引っ張った。

 お陰で彼は狭まった暗い視界を広げることに辛うじて成功した。

 壊れたテレビのような視界が正しい機能を取り戻す。ノイズのような悪意が少女の姿に戻ると、彼の気持ちはストンと落ち着いた。

 小さい体。立って並んでもクスノキの胸くらいまでしかない。強く握ったこぶしも、非力なクスノキが力任せに潰せそうなくらい細い。顔形だって、いつもの表情をぬぐえばまだ幼さが見えるのに、今は紅潮した頬で泣き出しそうな瞳で、ダダをこねて今にも地団駄を踏み出しそうに見えた。

 さっきからベスは何本も、尋常じゃないスピードで煙草に火をつけている。さっきまで全然煙草の匂いがしなかったから、そんなヘビースモーカーのはずもないのに。






 ――――…………。


 クスノキは同じような煙草の吸い方をよく知っていた。合成物だったが、半年前、オリオンに入るか入らないかの頃、よく煙草を持って眺めた部屋の鏡を思い出した。そういえば、彼自身はいつの間にか煙草を吸わなくなっていた。


「煙草はそんな風に吸うものじゃないよ」


 ついこぼれた言葉に、ベスはきつく彼をにらみ、新しく火をつけたばかりのまだ長い煙草を乱暴にふたりの間の地面に叩きつけた。投げ付けられるか、殴られるかと思っていたので少し意外だった。そうならなかったのは、知らず、クスノキの言葉に何らかの感傷がこもってしまったせいかもしれない。


 ――――関わるんじゃなかった…………俺の手に負える話じゃないのに。


 深い落胆にも似た感情。面白半分だった気持ちが、急に重くなって体中にしみていった。

 だけど、もうこのままにはできない。置いて、ひとりでオリオンに戻ることなんかできない。


「…………オリオンに行こう。きみはまだ彼らの大切な妹だよ」


 自分にそんな台詞を言う資格があるようには思えなくて、頭を抱える両腕の影からようやくこっそりと吐き出した。返事は無い。


「きみも、本当は意気地が無くて、不満を抱えてるくせに何もできなくて、孤独に耐えてて。

 ――――そして、本当はリゲルにすがりたいんだろ」


 今度こそ、ベスの蹴りが飛んだ。気配ははっきりとわかったけど、クスノキは、なんだか体がだるくて避ける気がしなかった。それはすぐに太ももを押さえて後悔したけど、それでも、本当にベスが欲しい力を考えると痛みよりなお痛い悲しい気持ちに襲われた。


「ベスは」少しためらって名前を呼ぶ。


「リゲルを守りたいんだろ」


 再び蹴りつけられたが、さっきより力無かった。「ベスに蹴られて転がってるようじゃあな」言った時のCOXの顔を思い出した。


「オリオンが好きなんだな。リゲルだけじゃなくて、オリオンの奴らが」

「…………だから何よ」

「俺も、好きなんだ。オリオンが」

「あんたのは違う…………」

「俺が一緒に守るよ。リゲルもオリオンも」


 無理…………、消えそうな声でベスは言った。


「少しは、変わったろ、俺――――だから、信じてよ。一緒に守ろう?」


 ベスは一瞬、語気荒くアッと何か勢いよく言おうとしたが、急に言葉はしぼんで風船の漏れた空気のように宙に散り…………間を置いてコクンと頷いた。



 吹き込んだ風に淀んだ煙が巻上げられた。







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