第2話 Backdoor
ウラマドに落ちた少女とそれを助けた男性の実らない恋愛と歪なウラマドの世界の話。
Backdoor
真っ暗な夜、やたら陽気な音楽が細く漏れ聞こえた。ウラマドの遥か上方にある”シティ”で行われている大規模な祭の音楽だ。暗い谷底のようなウラマドに佇む青年には、シティの空に次々に打ちあがる花火は明るい太陽や星より空を焼く焼夷弾を連想させた。狂乱の音楽はさながらパトカーと救急車が奏でるBGMか。物騒な妄想を繰り広げながら歩く足がふと止まる。葉落の赤や青に焼ける光の中に不審な影が浮かび上がったからだ。
――――やっぱりな。
胸の中で呟く。明るく楽しい祭りの夜は、その明るさに弾かれたモノがこの町へ堕ちてくることがあった。「今夜もきっとそういう落としモノがいくつかある」、彼らオリオンのリーダーであるリゲルの指示で彼も自分が担当する地域を警戒していた。
「女か……」
近づくにつれ、シルエットがはっきりとしてくる。ふわりと膨らんでいるのは恐らく長いスカート、でなければ仮装のマントか何かだろう。正直、女の死体は見たくはなかった。
――――ぱっと地面に灯が差す。遅れて激しく空を乱れ叩くドドドンという音がした。
太陽とも月とも違う光の中にその姿がはっきりと浮かび上がった。まず目に入ったのは、あちこち引き裂かれてはいるものの、おとぎ話から抜け出したようなふわりとした薄青のドレス。次に目に入ったのは白い肌。影のような乱れた黒髪の中でそっと開く深海のような濃い青の眼が空の花火を見ていた。最後に、灯に黒く照らされた血溜まり。
その光景が、その彼女の姿が自分の中の何かと呼応して青年の鼓動が熱く激しく速まった。ゆっくりと息を浅く整えながら、いつものようにそっと自分の懐へ手を伸ばし、そこから無機質な塊を引き寄せる。
「生きているのか?」
「……」
唇が少し動き、目の端からぷっくりと膨らんだ雫が生まれ、押し出された。
「――生きるか?」
取り出した銃を女の額に押し付ける。女はしばし逡巡した後、呟いた。
「生き、たい……」
額に押し付けた銃をそっと銃を外すと、男は血まみれの女の髪にそっと口付けた。
金髪の青年は鼻歌を歌いながら、うらびれた通りを気分よく歩いていた。手には茶色の通りには似つかわしくない色鮮やかな花の束。もっとも、色だけで言えば、似つかわしくないのは花だけではなかったが。
「ご機嫌だね」
「リーダー、どこ行くの?」
すれ違った人々が声をかけたが、彼は明るく手を振っただけだった。
やがて、通りから少しだけ離れた一軒の家に着くと、彼はご機嫌でドアを叩いた。
「よう、コックス!」
しばし間が空いてから、がちゃりと鍵を外す音がする。そして、背の高いたくましい坊主頭が現れた。
「何の用だ……」
「決まってるだろ? 新入りの歓迎に来たのさ!」
コックスと呼ばれた男はうんざりとした顔でため息をつく。しかし、金髪の青年は変わらず満面の笑顔だ。
「……よく目が覚めたってわかったな。好きにしろ」
諦めて玄関から背を向けるコックスに向かって「はははっ」と意味無く笑い、青年は真っ直ぐに側の小さな扉をノブを捻る。ゆっくりと開いたドアの向こうに、真っ白な包帯で身体を覆われた女の姿が見える。頭も頬もあちこち包帯が巻かれているが、濃く暗い青の瞳が瞬くのが見えた。
――――初めて目を見たな。
俺と同じ、青い目だと、金髪の青年は心の中で呟いた。
目を開けると、たくさんの瞳が自分を見ていた。無表情に責めるようなその瞳がとても恐ろしくて、でも頭がしびれて目を閉じることができなかった。しばらく時間が経った後、ようやくそれらがうず高く積まれた薪の山だと気付いた。割り揃えられた焚き木の木目がぼんやりとした頭と視界を惑わしたのだ。
「あぶないじゃない……」
いつもより少しすっきりとした頭でよくよく見渡せば、薪はドアと窓を除いたすべての壁を覆い隠すように天井までびっしりと積まれていた。一応太いロープで縛り、壁へもくくり付けられているようだ。だが、何かあってこの山が崩れればベッドの上の自分は確実に下敷きになるだろう。
――――ベッド?
そっと身体を動かした。視線をあちこちと動かす。どうやら自分が居るのは、ぎしぎし軋る鉄製の手すり付き折りたたみベッドにマットレスと敷布を乗せたものだ。
――――ドラマや映画では見たことがあるけど、こんなベッドで寝たのは初めてだわ。
でも……。
その時、部屋のドアががちゃりと音を立てた。
――――扉が開くと、そこには派手な金髪の男が居た。いや、派手なのは金髪だけではない。
扉を開けたのが、いつもの坊主頭のコックスではないことと、彼の出で立ちに彼女は衝撃を受けた。
「あなた、誰よ……」
馬鹿みたいに派手な金髪、その下には光を出して輝きそうなくらい濃く明るい青い瞳。目に痛い程のどぎつい赤の上下の服は変な形にカッティングされ、ボタンの代わりに太い紐で繋がれてる。腰には髪に劣らず派手な黄色の布が巻かれていた。大胆な服の間からは褐色の肌がよく見えたが、頬を含めあちこちに色とりどりの落書きがる。
――――落書き? いえ、刺青なのかしら?
こんな色鮮やかな刺青があるのか知らないけれど。ショッキングピンクとか、パステルカラーとか。
「やあ! こんにちは。俺はリーダーだよ!」
「……はあ?」
テンションの高い彼の声に、反射的に声を出してからはっとする。
「もしかして、コックスの上司ですか?」
慌てて肩をすぼめて恐る恐る彼を見上げると、彼はハハハっと軽く笑った後、否定した。
「やめてよー。俺、片星の連中と一緒じゃないよ」
――――片星って何よ! 声に出さずに叫んだその言葉を察したのかたまたまなのか、彼は明るく続けた。
「片星っていうか、オリオンはコックスの所属してるグループさ!」
「えっ?」
――――片星。
その言葉にふと思い当たった。コックスは片耳に星のピアスを着けていた。屈強な彼に似合うような似合わないような銀の星のそれはふとした瞬間によく視線を奪う。それがそのオリオンの印か何かなんだろうか。
「この町ではいくつもグループがあってね。コックスが入ってるグループがオリオン。俺はまた別。それから……」
その派手な男は抱えていた色とりどりの花束を彼女の胸元に押し付けてきた。しかし、花束ごと自分の身体も押し付けて来たものだから、花束越しに彼の顔が近くなる。肌の発する熱を感じた気がして身体を引こうとしたが、元より怪我で動けない。そして、彼女が抗議するより早く、彼の目がきらりと光った――――気がした。
「この町ではね、名前は自分で決めるんだよ。だから、俺の名前は”リーダー”なのさ。
キミの名前は?」
おかしな名前だ。そんなの名前じゃない、そう思った。
しかし、彼の濃く明るい青の瞳が強く見つめられて、彼女は一瞬、息をするのを忘れた。それは、ときめきとは違う、もっとめまいのするような感覚。しかし、恐怖というほど強いものではなく……。
「――――マキ……」
誘導されるように、唇から言葉が滑り落ちた。その瞬間に彼女はこの町の住人になった。以前の名前は記憶の端から滑り落ちて深いところへうずもれていった。
彼は花束とベッド上の彼女から自分の身体を離すと、腰に手を当てて面白そうに部屋を見渡す。
「へえ! いい名だな。――――よろしくな、マキ!」
呆然と褐色の青年を見ていた”マキ”は一瞬、彼が唇の端を上げたのに気付く。
「ウラマドへようこそ!」
だが、次の瞬間、それは錯覚だったのではないかと思う。大げさに両手を広げて笑った彼がとても幼く見えたからだ。
「これ、わた、あたしできま……るわ」
怪訝そうな坊主頭の青年の視線を受けて、マキはさっと顔を赤らめた。慌てて軽く咳をひとつ。
「ごめん、ちょっと喉が乾いてて――――。
これあたしもできると思うわ。プログラムは得意科目だったの」
火照った頬を隠そうとした指先にガサガサとした感触。まだ顔の大部分に巻かれた包帯の存在を思い出し、別に自分がどんな表情をしてようと相手にはあまりわからないのではないかと気を取り直す。彼女の負った怪我は大分癒えて部屋の中を自由に歩けるまでに回復したが、堕ちた際に深く抉られた肌を隠すために身体を覆う包帯の大部分は取れていない。
マキがこの町に来てから半年が経とうとしていた。この町に”堕ちてきた”彼女は、その際に大怪我を負った。それを拾ってくれたのが目の前に居る屈強な坊主頭の青年、コックスだ。彼は町の自警団のようなグループに所属しているらしく、見回りの際に彼女を見つけ保護したと言っていた。彼の所属するグループの名前はオリオン。身体のどこかに星のピアスをつけるのがその印のようだった。それ以外はコックスがあまり話さないのでわからなかった。ただ、そのオリオンの仕事なのだろう。たまに、豆電球が吊り下げられ、ランプが並ぶアナログな彼の家には不似合いなノート型のパソコンを持ち込んでキーボードをカタカタを音を鳴らしていた。元々パソコンが好きなマキはそれがずっと気になっていたが、今日、淹れたコーヒーを置く際、机に広げられた仕様書が目に入って思わず口を開いてしまった。
「君が、プログラム?」
不思議そうな顔で問うコックスにマキは何度も頷いて、必死に自分をアピールした。
「そうよ、私、結構難しい教育プログラムを受けてるの。私……あたし、の家……は、専門職を育てる家なのよ」
実際は、息子はともかく娘は専門職として働く前に嫁入りをするのがかの家の通例だったが、それでも、適正を調べその辺りの人間に負けないくらいの教育を受けさせられる。少々理屈っぽかった彼女に与えられた教育の中で一番評価が高かったのがこのプログラムを組むことだった。
「あたしにも、コックスのお手伝いを何かさせて!」
この町に来てからずっとマキはコックスの世話になっていた。見るからに屈強な坊主頭の男である彼が、怪我人のマキのために日常の世話はもちろん、熱を出せば介抱してくれた。さらに問題の無い範囲で包帯を替えてもらったことすらある。男に嫁ぐための女として生きて来たマキには感謝と同時に恥ずかしさやいたたまれなさに苛まれた生活だった。歩けるようになってからは、頼んで食事を交代で作らせてもらったりコーヒーやお茶を出すようなことをさせてもらっていたが、相変わらず彼が家事の主であることは変わらず、彼女にすべて任せることは無かった。もっとも、客人への扱いとしては当たり前なのかも知れないが。それでも、マキはこの家とこの世界と、何より彼の世界にもっと馴染みたかった。
「…………」
彼が難しい顔をしたのがわかり、思わずマキは両手をぎゅっと握り締めた。自分のこの願いは、彼への感謝の気持ちはもちろんのこと、恐らくこの町での役割を持ちたいための我侭なのだろうということはうっすらとわかっている。それでも。
「簡単なものなら」
少し黙った後、彼は何枚かの紙を選んでマキへ渡す。思わずマキは彼の指ごとその紙を握り締めた。
「ありがとう!」
ぎゅっと握った指の中で驚いたようにもぞりと動く太い指に気付いて再び赤面して手を離す。コックスが軽く苦笑いを漏らした。
「これはオリオンの仕事だから全部を頼むことはできないけど、手伝ってくれるなら嬉しいよ」
コックスの言葉に、こくこくとうなずくマキ。キラキラと顔を輝かせた彼女に優しい視線を投げかけて、「あとで別なパソコンを持ってくる」とコックスは続けた。
そうやって、マキがコックスの手伝いを始めてから更に年月が経った。男女の、同棲とも言えるような暮らしが続いたが、二人は恋人どころか友人未満のような関係のままだった。マキの身体に巻かれた包帯も少しずつゆっくりと外れていったが、顔と身体にはまだ僅かに残った包帯はいつまでも残っていた。
「やあ! マキ。いい加減、俺もそのかわいい顔が見たいな」
リビングのテーブルに半ば突っ伏しながら陽気に声をかけてくる派手ないでたちの男に、マキは素っ気無い態度でお茶を出す。
「ん、うまい。お茶の淹れ方とかってあるもんなの? いつもやたらいうまいよね、コレ」
「あるわよ。っていうか、なんかここんとこ毎日来てない?」
「マキの顔を見に!」
「お茶が飲みたいだけなら、飲んだらさっさと帰ってね」
冷たくあしらいながら、マキは再び薄いノート型のパソコンを開いた。
リーダーと名乗った男は、マキの元へしつこいくらいよく顔を出した。そのくせ特に用事も無いらしく、こうやって彼女の周りをうろうろとするだけだ。一度、暇なのかと尋ねたが、戻ってきたのは「リーダーは忙しいもんなんだよ」という矛盾した回答だった。
ピピっと小さなアラームがマキのパソコンから鳴る。
「いけない、コックスが帰って来る前に夕飯作らなきゃ!」
今日はマキの当番の日だ。夕飯の準備をする前に、恨めしげな視線をよこすリーダーを追い出しにかかる。
「まだ一杯しか飲んでないんだけどなあ」
「一杯飲めば充分でしょ? 夕飯の支度するのに邪魔だからさっさと帰って」
「別にいいじゃん、俺が居たって」
リーダーの言葉に内心ドキリとしながらも、上辺は冷静を装って先程より更に素っ気無くあしらう。
「夕飯食べたかったら、せめて前日までに約束してから来てください~」
更にぐだぐだと絡みたがるリーダーを、マキはととんっと背中を軽く押して玄関の外へ追い出す。
「はあ、コックスに尽くしたって辛いだけだよ」
ドアが閉まる直前、そんなリーダーのぼやきが耳に入った。そのまま押さえるようにドアによりかかって耳を済ませると、彼独特の足音が遠ざかるのが聞こえた。
「だって……好きなんだもの……」
唇から思わずこぼれた呟きに、慌てて両手で口を覆う。頬がかあっと熱を帯びる。
長い同棲生活で、無口で親切なコックスにマキはすっかり好意を抱いていた。それに対してコックスは――――彼女と一緒の時はずいぶん楽しそうに笑うし、自分を嫌っていないのは確かだったが、彼女とはごく自然に一定の距離を保ち続け、恋愛に発展するような気配は皆無だった。
――――恋人が居るのなら、いつまでも私がここに居ることを許してくれるはず、ないもの……。
ならば、恋愛対象から外されているのか。無意識に、言い訳のように外せない包帯を触る。この布の下ではほとんど傷も癒えているが、この弾力のある薄い布が、自分がここに居座ることができる免罪符のように感じて、そして、素顔を想い人に晒すことがなんだか恐ろしくて――――今では自分を守る薄い鎧のように思えて外すことができない。でも…………。
マキはリビングの奥の台所を見て、きゅっと口を結ぶ。散々もやもやと悩み続けて、決めたことがある。今日でここへ転がり込んで一年が経つ。この区切りの日に、コックスへ自分の精一杯の想いを伝えようと決心したのだ。
「とりあえず、夕飯を作らなきゃね」
小さい拳をぎゅっと握って気合を入れると、マキはパソコンの電源を落として台所へ向かった。
かちゃり、夜の空気に響き渡る鍵の開く音。できるだけ静かに押したドアの向こうから黄色い灯りが漏れてくる。
――――まだ起きて……。
真っ先に目に入るリビングテーブルの上に黒髪。すっかり冷めた夕食の前で突っ伏したまま眠っているマキの姿にどうしようもなく胸が痛んで、コックスは小さく息を吐いた。
「どうして……」
思わずこぼれた呟きに自分でぎょっとして口を閉じる。目の前の彼女はその声が聞こえなかったようで変わらず眠っている。テーブルの上には手のつけられていないパンとサラダと彼が好きな魚料理。食べる時に用意するつもりだったのかスープ皿は空のままだ。
――――先に食べてくれればよかったのに。
そう思うも、彼女がそうしないこともわかっていた。わかっていて、それでも今日のこの日を避けた。
――――こんな思いを互いに何度も重ねるほどの、意味のあることなのだろうか。
無意識の近寄りと無意味な突き放し。傷を深めるだけのこの繰り返しをやめる方法をコックスは知っていた。マキが住める家と入れるグループを世話し、同棲を解消すればいいだけの話だ。それだけで、この関係にはだいぶゆとりが生まれる。しかし、コックスの中にはどうしてもそれを選択できない自分が居た。切ない想いに揺り動かされて、彼はそっとマキの髪を撫でる。所々包帯のざらざらした感触が混じるものの、滑らかな黒の髪は紛れもなく女の髪だ。
「……無意味だ」
無意味どころか、悪くなるばかりの引き伸ばしだ。
「…………無意味って、どういうこと……?」
急に発せられた消え入りそうな声にコックスの身体はぎくりと強張った。先程まで眠っていたはずのマキの頭が持ち上がり、さらさらと髪が流れ落ちる。
「教えて」
黒く長い髪の間から覗く、涙がたまった両目にコックスの心臓が激しく鳴る。しかし、それをおくびにも出さず、彼は淡々と言葉を吐いた。
「俺を待つことだよ」
「待っていたかったんだもの」
「……今日のように帰りが遅くなる日もある。これからは食事は別々にしよう」
それが、彼のできるギリギリの選択だった。しかし、彼女にはそれは伝わらず、涙をこぼして訴えた。
「それは嫌! 私はあなたと一緒に過ごしたいの」
その言葉にコックスはもう限界だと判断した。そして、ついに最後の言葉を切り出した。
「――――君がこの家で暮らす限り、俺はもう君とは食事できないし、するつもりはない」
言葉を失うマキを背に、コックスは再び家を出た。
「どういうつもりなんですかネ?」
「――――どういうつもりも」
あれから、数日経った。
天井から吊り下げられた豆電球の狭い灯りの中でよくわからない機械をいじっている坊主頭の青年を、派手な赤い服の青年が少し離れた椅子の上からなじる。普段ヘラヘラとした笑顔を作っている顔が今は少し険しい。だらしなく椅子に寄りかかりながら、指揮棒を振るように指先をくるくると動かす。
「見捨てて置けなかった? でも、なんでさっさと他所に預けなかった?
こうなることが予想できなかったワケじゃないだろ」
少し張り詰めた空気に、コックスは瞼を下ろした。その手が止まる。彼のそっと胸の奥で諦めたような呟きが漏れた。
「お前には……」
「ん?」
褐色の肌の上で唇が弓形ににっと笑みを作る。しかし、その青く明るい瞳はぎらぎらと光っている。
――――ああ、逃げられない。こいつは”リーダー”だ。
彼がオリオンのコックスであるように、普段は馬鹿な男でも彼は”ウラマド”に棲むジョーカーだ。
閉じた瞼の裏にはっきりと浮かび上がる光景。うち捨てられた人形のような彼女の姿が自分の中の何かのように感じたあの気持ちを思い出す。その度に乱されたあの想いがコックスの胸の奥を何度でも揺さぶる。
「……仕方無かった。倒れてぼろぼろの彼女を見て、助けたいと思ったんだ……。お前に言わせれば、俺にはそんな資格は無いんだろうが」
「一目惚れねェ? オリオンのお偉いコックスさんは普段仲間になんて言ってたんだったかね」
どちらかのため息が短い沈黙を破った。
「俺が貰うよ?」
リーダーの真っ直ぐな冷たい視線の先で、青年の瞳に一瞬暗い光が灯った。しかし、それは即座に曇った闇の向こうに隠された。
「……それが、いいんだろうな」
バチンと赤服の青年が座っていた椅子が跳ねて、派手な彼の姿は豆電球の絞られた光の中から姿を消した。後に残った青年は思わず振り上げた拳を引き戻して強く握り締め、大きく息を吐いた。
マキは薄暗い部屋のベッドの隣に膝を抱えて座っていた。心臓の嫌な鼓動が苦しくて、服の上から乱暴に胸を掻き毟った。外れかけた包帯の端がひらひらと動いてやたら勘に触る。感情のままにそれを乱暴に引っ張ったがよけいに解けただけで引きちぎることはできない。
「どうして――――」
――――どうして、好きになってしまったのだろう。
私は恋がとても下手なんだろうか。恋ですべてを駄目にするんだろうか…………そう自問する。きっとコックスには嫌われたのだろうと思うと、胸をぐちゃぐちゃに切り裂かれたように、切り裂いてしまいたいくらいに苦しい。こんなに苦しいのなら、どこかへ逃げてしまいたいが、シティからウラマドへ逃げた自分にそうそう次の逃げ場所は思いつかない。いっそ思いっきり泣いて感情に溺れてしまいたかったけど、涙も出ない。もう、どこへも逃げ場はない。
と、針のような細い光が目を刺した。
「やあ、元気なさそうだね」
少し開いたドアから覗いたのは派手な金色の髪といつもの濃く明るい青の瞳。
「……リーダー……」
眩しさに目を細めて見上げると、彼は室内に身体を滑り込ませた後、後ろ手でドアを閉めた。部屋は再び薄い闇に満たされる。
「ひとりにして欲しいんだけど……」
「俺は、独りにしたくないんだよね」
薄い闇の中でも彼が笑ったのがはっきりとわかった。足を止めることもなく悠然と近づいてくる。
「…………居候にはプライバシーも無いわけ? 待って、今灯りを点けるから」
小さく息を吐くと、マキは軽く腰の埃を払って立ち上がった。そのまま背を向けてサイドテーブルのランプに手を伸ばした。
「灯りはいいよ」
言うと同時に、彼はマキの手首をぎゅっと掴む。ぎょっとして身を引く彼女に優しく言った。
「落ち込む必要は無いよ。」
「あなたに何が――――」
言いかけて、彼女は口をつぐんだ。彼が何がわかっているのか。コックスに聞いて何もかもわかっているに違いない。
「――――オリオンの連中は、愛が違うのさ」
唇を噛んでうつむくマキにさらに優しくリーダーは言った。
「愛が違う?」
そう、と頷きながら、彼は手を伸ばしマキの髪をすくった。さっと頬を赤らめた彼女に笑いかける。もう薄暗さなんて役に立たないくらい二人は近づいていた。
「好きな人間が居たら、ずっとそばに居たくなる。そして、触りたくなるだろ?
でも、オリオンの連中は違うんだ。
色んな奴らがいるから一概にこうとは言えないけど、愛を感じるけど深く触ることができないやつ、逆に誰とも深い関係になれるけど愛を生めないやつ、そんな奴らが集まっているんだ。
別にそれが悪いことってわけじゃないけどな」
距離を一瞬忘れて、マキは彼の顔を見つめた。何を言っているのだろう? 言葉の裏に一体何が隠されている?
「……コックスのこと?」
「あの坊主頭は、君を気に入ってるさ。でも、決して深く触れることはない。わかるだろ?」
その言葉はすとんと頭に入って来た。今までの辛かった記憶と時折見たコックスの暗い顔がマキの脳裏を過ぎった。
「あたし――――嫌われてはいないの?」
「残念ながら。
でも、たぶんそれは君にはとても寂しいことだし、奴にも辛いことだと思うよ」
彼は答えた。
そう、嫌っているわけではないから、むしろ大事に思っているから、きっと互いにこんなに辛い…………。嫌われるよりも残酷な事実があるなんて知らなかった。辛うじて形を保っていた心が奈落へ突き落とされ砕け散る。堰を切ったように彼女の両目から涙があふれ出した。
「…………あたし、こんな恋ばかりだ。やっと好きって本当はこんな気持ちだったんだってわかったと思ったのに」
両目から落ちてくる雫を両手で拭うけど、涙は、間に合わないくらいぼたぼたとこぼれてくる。涙の副作用で身体の内と外が熱くぐちゃぐちゃになった。その赤く熱に染まった耳から胸を震わす優しい声が流れ込んだ。
「きみはオリオンには入れない。オリオンの人間はオリオン以外の人間と深い関係を築かないルールなんだ。ルールには罰があって、コックスはそのオリオンの幹部だよ」
オリオンってどんな星座だったろうか。澄んだ夜空に誰でも見つけられる星、女神を襲って罰を受けた不埒な英雄……彼らはどんな意味でオリオンを名乗ったのか。
「このウラマドでたった一つの”片星のピアス”をしているのは男女共にオリオンの連中か、あいつらの熱狂的な信者さ。オリオンの連中はコックスのように普段は一見温厚だ。だけど、愛とかそういうのと関係なく敵に回したらヤバイ奴らが多いんだ。
――――君がコックスと添い遂げるつもりなら、きっと君も彼も面白くない試練をたくさん受けることになると思うよ。もちろん、それは奴も望まないし、俺も望まない」
彼の声は耳からすんなりと入りそのまま抜けていきそうで、実際は脳のひだをあちこち這い回りひとつひとつの言葉の意味を焼き付けていく。もう一緒に食事をとらないと言った時のコックスの苦しそうな顔がはっきりと浮かぶ。
「この町はめちゃくちゃな町さ。でも、めちゃくちゃだからこそ、ルールは重い」
ウラマドにも面倒くさいバランスがあるんだ、と派手な青年は少しおどけたポーズでぼやいた。
「だから、俺にしなよ。次の恋を見つけるまで、俺の所に来ればいい。奴との関係が壊れる前に、ちょうどいい距離を取ってコックスとも付き合っていけばいい」
顎を優しくなぞる彼の指先を感じながら、涙を抑えるマキの頭に閃くものがあった。
「…………リーダーも、よく振られそう」
濡れた両目で派手な青年を見る。不思議と涙がゆっくりと止まっていく。
「哀しいかな、ご明察通りだよ」
一瞬、驚いた表情を浮かべた後、柔らかく笑った彼が優しく優しく答える。
「ううん、振らせるようにするのがうまそう」
コックスよりもずっと。
彼女を慈しむように動いていた指先が止まる。明るい青の瞳に名前を聞かれた時に感じた不思議な光が過ぎった気がした。
「…………そう?」
ぎこちなく笑った彼の顔を見て、マキは確信する。
「うん、きっとすごくおせっかい。厄介な問題に惹かれるのね。
――――だから、解決したら居なくなるひと」
不思議なことに、次から次へと溢れ出ていた涙はゆっくりと止まっていっていた。ぽろ、ぽろと最後の涙がガラス玉のように頬を伝い落ちる。その粒に一瞬、愛おしそうな視線を投げかけて彼は首を傾げた。
「そう、かな? じゃあ、マキは俺を振らないでよ」
「…………無理よ。きっと長くは続かないと思うわ」
「俺たち結構合うと思うんだけどね」
マキは大きく息を吸って吐く。今まで身体に満ちていた苦しく清廉な熱は消え始めていた。代わりに、だるい疲れのような感覚が身体を侵食していく。
「あたし、自分がずれているって思っていたけど、あなたほどじゃないと思うわ」
「この町は変な人ばかりだからね。でも、君はきっとうまく生きていけるよ」
褒めてないのよね? と苦笑するマキにリーダーはそっと口付けた。
彼女はそれを拒むのをやめた。
明け方、扉を開けるとリビングテーブルでコーヒーを飲むマキの姿があった。彼女は早朝だというのにすっかり身支度を終え、僅かに残っていた包帯も全て取り去られていた。品のある顔立ちに深く美しい青の瞳が無骨なコックスの姿を映す。
「おかえりなさい」
微笑む彼女の雰囲気がいつもと違うことに気付いて、コックスの胸は痛んだ。
「ただいま」
彼女はさっと席を立って、彼のぶんのコーヒーを淹れる。その後姿をいつものようにそっと見つめる。所作のひとつひとつを忘れないように、じっと。湯気の立ったコーヒーをトレイに移すと、振り向く前にマキが言った。
「今までありがとう。あたし、あなたが好きだった」
「…………」
「落ち着いたらまた遊びに来る。もし、あなたがいいと言ってくれるならだけど」
「ああ、来てくれ。――――君の助けがないともう仕事も捗らないしな」
コックスの言葉に、振り返ったマキの顔が泣きそうに歪んだように見えた。しかし、それは一瞬のことで、彼女が前髪をそっと払った後にはいつも笑顔が浮かんでいた。マキはそっとトレイを運び、コーヒーを彼の前に置く。
「ありがとう、さようなら」
彼のコーヒーが無くなると玄関の扉は再びゆっくりと開き、閉じた。
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