ウラマドのこどもたち

第1話 灰色の空

自分を変えられないプライドの高い少女がウラマドへ逃げ込む話。






ウラマドのこどもたち



おとなが考えているほど、ぼくらはばかじゃない。

おとなが考えているほど、ぼくらは賢くないんだ。




灰色の空



 雨が振り出しそうな天気の日は自分の背中に鳥の翼が生えてこないかと期待する。そのまま飛び立ち、この薄暗い空に溶けて消えてしまいたい、と思う。

 もちろん、それは人間の私が考えた戯言で、鳥は鳥での空の生活があるのだと私も知っていたけれど。



 「大丈夫?」と彼女は少し心配そうに、少し大人ぶって私に声をかけた。しかし、その神妙に作った表情の奥、その青い瞳の奥に私を見下ろす勝ち誇った笑いが、まだ、うまく隠しきれていない。それとも、隠す気が無いのか。私は不機嫌さを露にして彼女をにらみつけた。それは、更に自分をみじめにみせるだけの態度だと気付きながら、私のプライドは敗者として彼女に寛容な言葉をかけることを許さなかったのだ。そんな私の態度に彼女はかなり気分を害したようだったが、気を取り直して、またこびるように話しかけて来た。


「そのドレスかわいいよね、私の方がいいやつだけど」


 余計な一言は、仕返しのつもりらしい。相変わらず馬鹿だ。それに対し、私は傲慢に笑って──────少し、唇の端が歪んでしまったが──────「ありがとう」と短く答えてみせた。その後、壁にかけられた時計の方をチラッと見るポーズをとって、


「じゃあ、私は父さんと母さんの様子を見てくるから」


と、その部屋を出た。それ以上、その部屋に彼女と居るのが耐えられなかった。そのままそこに居たら、私は彼女を怒鳴り付けていただろう。

 サラサラと絹擦れの音を必要以上に立てながら私は両親の居る部屋のドアを叩いた。扉はすぐに開いた。


「お、綺麗じゃないか」


 開けたのは父だった。大げさな素振りでそう言うと、私の背中に手を回して、部屋に入れた。


「本当に、綺麗ね。馬子にも衣装って言うんじゃないの?」


 中に居た母が冗談めかして笑う。

 ……………わざとらしい。

 私は二人の気を使った態度に腹が立ったが、それでも、怒りを腹の中に飲み込んで、さっきより少し柔らかい言い方で「ありがとう」と言い、笑顔を作って見せた。


「それより、準備はできたの?」


 二人の姿を交互に見る。珍しく、私が呼びに行く前に支度は整っているように見える。


「ああ、でも、もうちょっとかかりそうなんだ」


 ちょっと顔をしかめるふりをして、母を見ながら父が言う。対して母は、


「いいじゃない、少しよ」


と「ヘラヘラと」笑う。


「どうでもいいけど、急いだ方がいいんじゃないの。あれも待ってるし。遅れちゃマズイんでしょう?」


 あれ、とはさっきの部屋の彼女のことだ。私のその言い方に、父の顔が一気に曇り、一転して厳しい口調になる。


「妹に向かって『あれ』とはなんだ?」


「なんだっていいじゃない。それより早く支度してよね」


「もうちょっと、時間がかかりそうだから、隣の部屋で先に軽く食べておいでよ」


 にらむような目で吐き捨てた私の言葉に父が怒鳴るよりも早く、母がその間に入った。私は母の言葉に従って、何か言いたげな父を尻目に部屋を後にした。ドアが閉まる瞬間に父の機嫌の悪そうな声が一瞬、耳に入った。


 ――――なにも聞きたくない。うるさい、放っておいて。


 私は、ぶつぶつと口の中で何度かつぶやいた。

 隣の部屋にはまだ灯りが灯されて無かった。私はテーブルの上に支度された一人分の食事を見て、恐らくここには両親は来ないだろうと思った。そして、そのままま静かにドアを閉めた。部屋の中は暗闇に満たされた。食べ物を見ても、食欲は全く起きず、私は暗闇の中でドレスのまま、冷たい床に寝転がった。疲れていた。死びとのようにそうすることで何もかも無くしてしまいたかった。






 彼に初めて会ったのは、親戚が中心に集まったパーティの時だった。私と彼女はその場で、両親にこの辺りの実力者の息子だと紹介された。それが意味することがわからないほど私と彼女は子供ではなかったが、その時は軽く挨拶を交わしただけだった。

 私も彼女もその時、すでに親から与えられていた教育はクリアしていた。私はその一年ほど前に、彼女はその数日前に。普通、教育を終えた私たちは数年以内になるべく有益な結婚をするのが常識だ。彼はその有益な結婚をもたらす理想的な相手で、両親は勿論そのつもりで紹介したのだろう。そして、彼も私と彼女が――――特に二人が持っている黒髪と濃い青い目が――――気に入ったらしかった。それから彼はちょくちょくと屋敷に姿を見せるようになった。私と彼女は彼を歓迎したが、その態度はまるで正反対だった。私はいつもテラスでお茶を入れる他は黙って笑っていた。対して、彼女は彼の腕を引き、よく色々な所へ遊びに出かけていた。そして、数日前、当然の結果は訪れた。彼は彼女を選んだ。







 部屋のドアが開いた。突然の出来事に私は一瞬、ビクッと体を震わせたが、部屋が暗いために相手には気付かれなかったようだ。入って来たのは両親で、床に転がった私はどうしていいのかわからず、そのままジッとするしかなかった。ただ、問い詰められた時に言い訳できるように、コッソリと両腕で腹を抱えるようなポーズをとった。

 しかし、両親は私に声をかけずに、低い声でヒソヒソと話し始めた。


「ここまですることは無かったんじゃないの?」

「この方がいいんだ。この方が傷つかずに済む。それに、この子はキレると何をするかわからない所があるからな」

「でも、もし途中で目が覚めたらどうするのよ、その方が怒るに決まってるわ」

「大丈夫だよ。ドアの外で俺が見張ってる。それに、軽い食中毒ということにする」

「……………かわいそうに」


 いつの間にか私は固く両目を閉じていた。腹を押さえた掌がじっとりと汗ばんでドレスを汚してしまいそうで嫌だった。


「お前が余計なことをするから悪いんだろう。彼は最初から妹を紹介してくれと言って来ていたのに」

「だって、この子にだってチャンスがあってもいいじゃないですか。姉なんだもの、最初に結婚させてあげたいじゃないの」


 だんだん、本当に気分が悪くなった。腹の中で何かが重くうごめいている。このまま起き上がって、この滑稽な芝居を終わらせようかと思った。なんで、気付かないのだろう。

 その声が聞えたかのように、急に、父の厚い手が私の頭を撫でた。


「だが、結果はこれだ」

「でも、チャンスがあった分、いいじゃないですか」


 母の言葉に、違う、と頭の中で叫んだ。もし、始めから彼が彼女の婚約者として現われていたら、たぶん、私のプライドはこんなに傷つかなかっただろうと思う。先だの後だの、そんなことは私の中ではいくらでも言い訳できた。

 私は、彼にそんなに執着していた訳じゃない。


 ――――ただ、最初に挨拶した時に見た、彼の照れたような横顔が少し好きだっただけだ。


 空しさと悔しさで閉じたまぶたが熱くなった。――――どうして、わからないのだろう。

 やがて、ドアが閉じる音がして、二人の息づかいも聞えなくなった。部屋の中に聞えるのは押し殺した私の呼吸する音だけ。それでも、まだ父が私の顔を覗き込んでいるような気がしてしばらく動けなかった。


 暗い部屋の中、のそのそと体を起こして、辺りを見回した。部屋のドアはきっちりと閉まっていて、テーブルの上には手をつけていない私のために作られた食事がある。


 ――――夢だったのかな。


 幼児のように泣きたかったが、涙は眼球の表面を湿らせただけだった。


「なんでよ……」


 なんで、つまらないことでこんなことをしようとするのだろう。なんで気付かなかったんだろう。今ならまだ間に合うかもしれない、ドアを開いて外に出れば、見張っているはずの父が飛んで来るだろう。そして、食事に手を付けて無いこと、全て聞いたことを全部ぶちまけてヒステリックに怒鳴り散らせばいいのだろう。

 だが、そんな気力は全くわかなかった。

 ぼんやりと暗い部屋を見回して、窓に目が止まった。窓際に歩み寄って外を見た。いつもの三階の景色に鮮やかなパレードの花火と色とりどりの灯が見えた。窓をゆっくり静かに開くと、微かに祭の音楽が聞えた。私の手は勝手に壁に伝った管に伸びた。

 さっき、力を入れ過ぎたせいだろう、指の関節の具合がおかしかった。配管や欠けた古いレンガを手がかかり足がかりに体を動かす。途中で何度か後悔した。

 最後の三メートルほどを飛び降りて、うまく着地できずに倒れ込んだ。見上げると嘘のように高い場所にさっきまで居た窓がある。彼女と両親が褒めてくれたドレスはボロボロで掌がズキズキと痛かったが、胃の中にたまったむかつきに比べればそれも気持ちよく感じた。そして、誰にも見られないようにと私は庭の芝生の上を駆け出したが、夢の中のように足が重くて、イメージしたようにうまく走れなかった。






 しかし、走り出せばもう楽しくなった。むかつきを忘れるために半ばヤケ気味な所もあったが、果たしてこれからの人生で、こんな格好でこんな時間にこんな日に、街の中を、しかも裏通りを一人だけで走り回る経験なんてあるだろうか? まるで映画のスパイのように。

 ――――街の裏通りはカラッポだった! それこそ夢の中のように。

 いつもうるさく駆け回っている子供たちの姿も無い。


「面白い」


 今日は年に一度の大がかりな祭の日だ。中心街で街中の人が喜びに沸き返る。そんなおめでたい日だからあちこちで祭典と……結婚式が行われる。祭に興味が無い人もそれらのイベントに呼ばれ、また呼ばれなくても自然と集まって街の中はカラッポになる。彼女も彼と今日、祭の中で婚約式をあげる。


 ――――その間、私は自由になる。全ての制限の無い時間、そう、決めた。


 ふらふらと裏通りを走り回る。野良猫が眠って居たのでそっと近づいて抱きしめた。普段は、服が汚れるからしてはいけないこと。猫はドレスの襟に爪を立てて私の腕の中からぽんっと路上に走り降りた。ケタケタ笑いながら猫の後を走るがすぐに見失ってしまった。ふと、横を見ると民家の窓が大きく開いていた。覗くと、傍にパンの積まれたバスケットがあったのでそこからパンをひとかけら掴む。少し噛って、すぐに飽きて、道端に放った。私の手から離れた噛られたパンのかけらが石畳でバウンドした。

 その瞬間、大きな音がして、当たりが赤く染まった。見上げると建物の陰で四角く区切られた夜空に大きな花火が流れ落ちる所だった。



 気がつくと、微かに流れていたはずの祭の音楽が大分ハッキリ聞えるようになっていた。私は少し慌てて、今、自分が居る場所を知ろうと辺りを見回した。と、目の前を延びる小道のずっと先に明るい光が見える。ふらふらしているうちについ、パレードの開かれる目抜き通りの傍まで来てしまったらしい。


 どうしようか、そう思った瞬間、その光の中でふっとこちらを覗き込んだ人影が見えた。


 覗いた顔に思わず、あっと息を飲んだ。そして、瞬時に反対側に駆け出す。今パレードの灯りに照らされたのは間違いなく彼の顔だ。恐らく近くに彼女も居るのだろう。こんな姿を彼に見られたのかと思った瞬間、理性が勝手に働いて顔がかあっと赤くなった。目をつぶって逃げるように全力で走る。やがて、顔に当たる夜の風がだんだん熱を冷まさせてくれた。「彼女に見られるより、いい」――――走りながら、そう言い聞かせた。


 ――――もう、どうでも、いい。自由なのは今だけ。後のことは今は、いい。






 行き止まりだった。辺りが暗いせいで、どこか道を間違えたらしい。いつの間にか裏通りの石畳から階段に似せて並べられた花壇を駆け降りている。しかし、そんな自分の間抜けさ加減さえ、すべて可笑しくてクスクスと笑いが込み上げて来た。どれくらい走っただろう。もう、祭の音楽も花火の光も見えない、何も無い。

 …………そう、思った私の視界の角で何かがキラリと光った。思わず、そっちを見る。

 私が今立っている場所は、ちょうど階段の踊り場のような形に石畳が張り出している。見上げれば私が駆け降りて来た階段状の花壇が、坂を下ればさっきの大通りへと向かう道がある。それ以外には石で造られた低い塀で囲まれていた。光はその塀の向こう側、暗闇の中にいくつかひっそりと浮かんでいた。


「ウラマド」


 確か、そう呼ばれていた。塀の向こう側、ここから数メートル下に広がるスラムのような場所。この街から逃げ出した子供たちがたどり着くところ。掃き溜った世界の果て。


 呼ばれた気がして、振り返ると遠くにこっちへ走ってくる父らしい人影が見えた。


 ――――唐突に、私は鳥の翼が無くても空を飛べることを思い出した。


 これは、逃避に過ぎないのだろう。だけど、今なら飛べる気がした。今しか飛べない気がした。

 鳥には鳥の生活があって、きっと逃げた空でも誰かに負けることはあるだろう、屈辱に唇を噛む日もあるだろう。それでも、飛べるのなら、一度飛んでみたい気がした。引き返したら悔やむ自分が見えるから。


「大好きだよ、父さん、母さん」


 素早く呟く。傷つけられたプライドの傷がまだ生々しくて、一緒に口に出す気持ちの余裕がなかった彼女の名は心の中で続けて呼んだ。

 私は、迷って迷って、それから空へ踏み出した。

 暗い空へ向かって。





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