第10話 江差の鰊御殿と土方歳三嘆きの松編

 江差の鰊御殿は、海岸に対し山がかなり迫っている地理的状況を活かした極めて独特の作りをしている。

 一番低い海側の部屋が舟屋兼作業場だ。漁から帰ってきたらそのまま自宅に船を入れ込み、加工作業できるようになっている。共同の港ではなく、個々の自宅に船を直接入れられるだけでかなりの労力削減になるだろう。

 その隣が使用人部屋である。魚臭さには辟易したと思うが、作業場からの移動は一番楽な場所だ。更に分厚い蔵と主人家族の部屋が続き、一番陸側の通りに面した場所が店舗となっている。この店舗は漁で取ってきた鰊だけではなく、その他の物品の販売もしていたという。

 江差にはそんな鰊御殿がいくつかあるのだが、私はその中の一つ、旧中村家住宅を見学しようと入場券売場へ声をかけた。すると売り子のお姉さんが『旧檜山爾志郡役所も見学するのでしたら、入場券が100円引きになりますよ』と進めて来るではないか。

 実は江差に来た途端ぐねった足の痛みがひどくなりつつあり、高台にある旧檜山爾志郡役所へ行こうかどうか迷っていた。しかし100円とはいえ見学料が安くなるというのはかなり魅力的だ。それでなくても江差への道のりはかなり大変であり、再び来ることができるか極めて心許ない。この機会を逃したら二度と旧檜山爾志郡役所を見ることが出来ないかもしれないのだ。私は最悪足の痛みがひどくなったら函館で湿布でも買えばいいやと開き直り、勧められるまま割引入場券を購入した。

 そしてひとしきり鰊御殿の見学した後、私は旧檜山爾志郡役所へ向かった。しかし旧檜山爾志郡役所は予想していた以上の高台の上にあり、一歩ごとにぐねった私の足首は悲鳴を上げる。だが既に入館料は支払っているのでここで諦めるのは勿体無い。私は貧乏人根性丸出しで急斜面の高台を登り切った。そして旧檜山爾志郡役所を見た瞬間、私は思わず声を上げてしまった。


「うわぁ、かわいい!!」


 役所に対して一番似合わない形容詞かも知れないが、そんな言葉が飛び出すほど旧檜山爾志郡役所は可愛らしかった。白い壁に緑色の窓枠が印象的で、まるで『赤毛のアン』に出てくるグリーン・ゲイブルズのようだ。『赤毛のアン』は確か旧檜山爾志郡役所が出来た頃、19世紀後半くらいに書かれた文学作品であるから、きっと19世紀後半当時に流行った建築様式なのだろう。

 中に入るとその愛らしさが更に際立っていた。その中でも特筆すべきは壁紙で、小花をあしらった極めて女子力高めのものである。それこそグリーン・ゲイブルズそのものだが、これはあくまでも明治時代の役所である。働いていたのは頭の硬いむさ苦しいおっさんばかりだった筈だ。

 そう考えるとちょっと侘びしい気分になるが、それが現実である。そんな現実を噛み締めつつ、一通りの見学を終えた私は旧檜山爾志郡役所を後にする。だが、この直後思わぬサプライズが待ち受けていることなど、私はつゆほども思いもしなかった。




 役所にしてはあまりにもメルヘンチックな旧檜山爾志郡役所の建物を後にし、出口から出ようとしたその時、ふと目の端に白い看板が見えた。どうやら何かを説明しているものらしい。せっかく高台まで登ってきたのだし、ついでだから看板の内容を確かめようと、私は看板に向かって少し道をそれた。

 どうやらその看板は、近くに生えている松の説明をしているものらしかった。そこそこ大きな松で年輪も重ねているにも拘らず、盆栽のように腰が曲がっている。私の地元の防砂林に使われている松は大抵まっすぐ生えているので、この形は確かに珍しいかもしれない。何か特殊な種類の松なのだろうか?と私は看板の文字を読む。その瞬間、私は驚きのあまり声を上げてしまった。


「土方歳三嘆きの松ぅぅぅ!!!こんな所にあったのぉぉぉ!!」


 ここ旧檜山爾志郡役所に来たのはあくまでも割引制度に目がくらんだからで、そうでなければ完全にスルーしていた場所である。そんなところに新選組の聖地があったとは・・・きっとオタクの神のお導きだろう。絶対そうに違いない。

 私は周辺に誰も居ないことを確認した後、土方歳三と榎本武揚が拳を叩きつけたと思われる松の瘤の部分を遠慮無くペタペタと触りだした。たぶんこの時の私の顔は誰にも見せられないほどにやけきっていたであろう。萌えを前にしたオタクの習性だけはどうしようもない。

 そして散々『土方歳三嘆きの松』を撫で回した後、私はようやく函館へ向かう算段を始めた。本当は電車で松前を経由し函館へというルートを考えていた。しかし今朝方のスーパー北斗の遅延原因でもある豪雨によって、そのルートが運行停止になっているのだ。

 となると、一旦八雲に戻ってから電車に乗るか、函館まで直接バスでいくかの2択になる。しかし八雲行きのバスは夕方5時まで一本も無く、それだと宿に着くのが7時過ぎになってしまうのでこれも却下だ。つまり残った選択肢はただ一つ、直接函館まで向かうバスに乗るルートだけになる。

 これも本数が少なかったらどうしようか、という杞憂が無かったわけではない。だが、バス停に行って時刻表を確認すると、1~2時間に1本ほどあるではないか。しかも幸いな事に30分ほどバス停で待つだけで函館行きのバスがやってきた。1時間に1本バスがあるかないかの場所でこれは極めてありがたい。私はそそくさとそのバスに乗り込み、今夜の宿がある函館へと向かった。




 北海道の夕暮れは私の地元・神奈川より早い。5時半頃に到着した時には既に日は落ち、あたりはすっかり暗くなっていた。そして案の定、旦那は迎えに出てきてくれはしなかった。

 その点に関しては全く期待はしていなかった上に、ぐねった足用の湿布の購入もしなければならなかったので旦那に迎えに来られても却って邪魔になる。申し訳ないが私は『邪魔者がいなくてこれ幸い』と近くの薬局で湿布を購入、その足で宿泊先の宿に辿り着いた。天然方向音痴の私がオタク関連以外で迷子にならないのは奇跡に近い。

 フロントに事情を説明し、案内された部屋に通されるとそこには既に旦那が居た。ただ、嫁をほったらかしにして丸一日ゴルフを満喫してきた割には何となく不機嫌そうだ。もしかしたら私の宿入りが遅かったのが原因か?と私は一応『遅くなってごめんね』と謝りながら荷物を下ろす。すると旦那は不機嫌そうな表情を崩さぬまま私に尋ねてきた。


「今日のお昼、何食べた?」


「ん?江差名物鰊蕎麦だけど。何で?」


 今までの結婚生活で昼ごはんのメニューを聞かれたのはこれが初めでである。一体何があったのだろうか―――私が怪訝そうな表情を浮かべると、旦那は面白くなさそうにその理由を口にした。


「今日食べたゴルフ場のカレーがすごくまずかった」


 どうやら旦那の不機嫌の原因はそこらしい。そもそも前日にカレーを食べたのに、何故2日続けてカレーを食べようと思ったのだろうか?旦那がそんなカレー好きだとは今までの同居生活からは想像がつかないのだが……。


(あ、もしかしてゴルフ場でも昨日と同じレベルのカレーが食べれるとでも思ったのか?)


 確かに昨日のシーフードスープカレーを旦那はいたく気に入っていた。それ程大食漢でもない旦那が私に一口も味見をさせなかったのだから、相当美味だったのだろう。しかし昨日のカレーはあくまでもカレー専門店のものであり、ゴルフ場にそれを求めるのは酷だ。


「うみはずるいよな~。美味しいものが食べれてさぁ」


 ずらりと並べられた函館の海の幸フルコースを目の前にしても昼間のカレーの文句を言い続けている。もういい加減諦めて目の前の海鮮を愉しめばいいじゃないか。元々海鮮食べたいって言っていたんだし。

 食べ物の恨みは恐ろしいというが、まさにその通りである。これだと明日の昼も思いやられるなぁと思いつつ、私はイカを口の中に放り込んだ。因みにこれ以後の旅行で、ご当地カレーがある場所では必ず旦那はカレーを食べるようになったのは余談である。

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