第9話 江差の鰊蕎麦編
開陽丸を舐め回すように見学し、土方歳三ごっこもしっかり堪能できてて大満足の私は、少し遅目の昼食を取る為に江差のメインストリートへと足を伸ばした。江差といえば小樽同様鰊漁で繁栄した街である。ならばその繁栄の元である鰊を食べてみたいと思うのが当然だろう。
更に北海道はなにげに蕎麦の生産量日本一の蕎麦王国だったりする。となれば目指すはただ一つ『鰊蕎麦』だ。雨の中、傘もささずに開陽丸の甲板に上がって土方歳三ごっこなどしていたものだから身体はすっかり冷えきっていた。ここは温かいお店の中で鰊蕎麦を堪能するしか無いだろう。
そんなお昼ご飯妄想を抱きつつ江差のメインストリートを歩いてゆくと『やまげん』と書かれた暖簾の店が現れた。ガイドブックにも掲載されている有名な蕎麦屋だ。引き戸の和風っぽさも私好みだったので、迷わずその引き戸を開ける。するといかにも古民家風の店内が目の前に広がった。
入り口の小ささに比べ、店内は意外と広かった。落ち着いた店内の半分ほどがお客で埋まっているだろうか。ほんわかと暖かな空気と共に蕎麦汁特有の甘辛い匂いが鼻をくすぐる。その香りに引き寄せられるように私は案内された席に座り、ちょっと迷ってから鰊蕎麦を注文した。
実を言うと温かい蕎麦はあまり得意ではない。少なくとも関東南部の温かい蕎麦はコシが無く、お世辞にも美味しいとは言い難いのだ。できることなら鴨南蛮のように温かいつけ汁と冷たい蕎麦の組み合わせで……と目論んでいたのだが、鰊蕎麦は温かいかけ蕎麦しか無い。鰊を食べたければこれを注文するしか無いのだ。温かい蕎麦に対する根強い不信感を抱きつつも、名物を食べたいという誘惑には抗えなかった。
「はい、鰊蕎麦お持ちしました」
次に向かう鰊御殿の場所を確認しようと地図を見ていたら、思ったよりも待たずに鰊蕎麦がやってきた。蕎麦そのものは色が濃い目の田舎蕎麦である。更科蕎麦と違って、これなら少し濃い目に見えるかけ汁にも負けない力強さがありそうだ。更に上に乗っかっている鰊も飴色の照りを放って美味しそうである。
しかし問題は蕎麦のコシだ。関東の蕎麦のようにすぐに伸びてしまっては美味しさも半減してしまう。果たして北海道の蕎麦はどんなものなのだろうか?私は早々に割り箸を割り、蕎麦をつまんだ。そして軽く息を吹きかけた後、一気に蕎麦をすする。すると芳醇な蕎麦の香りとかけ汁の鰹出汁の旨味が口の中に広がった。
「お!これはかなり美味しいかもっ」
蕎麦をすすった後、思わず呟いてしまうほどその蕎麦は美味かった。田舎蕎麦ならではの香りの強さも然ることながら、それ以上に私を驚かせたのは麺のコシである。温かいかけ汁であるのに、その蕎麦はしっかりとしたコシを保っているのだ。
食べて続けていても伸びる気配を殆ど見せないその蕎麦は、明らかに関東のかけ蕎麦とは違うものだった。つなぎが違うのか、それとも打ち方が違うのか、完全に温かい蕎麦用に作られた麺だ。間違いなく私が今まで食べたかけ蕎麦の中で1、2を争う美味さである。余談だがもう一つの美味しいかけ蕎麦は新潟のへぎそばで作ったかけ蕎麦である。どちらも冬、寒くなる地域なので『冬場に美味しい蕎麦』が出来上がったのかもしれない。
更に美味しかったのはトッピングの身欠き鰊である。いつも食べている身欠き鰊はみりんの甘さが強いのだが、今回頂いた身欠き鰊はあまり甘くない。すっきりとした醤油味で、鰊本来の味が生きている。この味付けは間違いなく日本酒のアテ用だろう。
そもそも蕎麦に日本酒は付き物なのだが、悲しいかなアルコール類で唯一私が受け付けないのが日本酒なのだ。きっと日本酒片手にこの鰊蕎麦を食べたら最高に美味しいのだろうなぁ、とちょっと残念に思いつつ私は鰊蕎麦を平らげた。
札幌や函館とは違い、それほど美味しいものは無いだろうと高をくくっていたが、この鰊蕎麦にはいい意味で裏切られた。地元でしか食べることが出来ない温かい鰊蕎麦を堪能し、冷えきっていた身体もすっかり温まった私は会計を済ませるためにレジへ向かう。すると思わぬものがレジ横に置いてあった。
それは真空パックされた身欠き鰊である。冷蔵庫にも入れず、駕籠に放り込んであったのだ。確かに冷蔵庫が無い時代から全国に販売されていたものだから、冷蔵でなくても問題はないのだろう。だが驚いたのは冷蔵庫に入っていなかった事ではなく、その値段である。
「うわっ、800円もするの!」
思わず私は小さく叫んでしまった。不漁が続き今や貴重品となった鰊だが、魚の真空パックの価格としてはかなり高額だ。そんな貴重品の鰊だけに味付けもこだわっているのだろう。なるほど確かに美味なはずだと私は思わず納得してしまう。因みに鰊蕎麦は900円だった。
さすがに蕎麦に入っていた鰊はパックに入っているものより小さめだったが、原価ギリギリでの提供に違いない。今や幻となりつつある名物を提供し続けるのも大変なんだな、と妙に納得し、私は店を後にした。
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