第8話 江差の開陽丸編

 数年ぶりの全力疾走をしつつ駅の改札を抜けると目的のバス停は本当に近くにあり、江差行のバスがドアを開けたまま停車していた。その開いた扉の前には人の良さそうな運転手さんがニコニコしながら手招きをしている。


「江差行きのバスはこちらですよ~!」


 地獄で仏とは正にこの事を言うのだろう。私の目には運転手さんから後光が射しているように見えた。決して彼の頭髪が寂しいからというわけではない。

 私は息を整える間も無く急いでバスに乗り込むと、後ろの方の席に崩れるように座り込んだ。そして息を整えながら改めてバスの中を見回すと、私の他に乗客は2,3人ほどしかいなかった。どうやらこの路線はかなり乗客が少ないらしい、というか私みたいに札幌から江差に向かう変わり者しか利用しないのだろう。道理で一日に2本しかバスが無いわけである。

 そして辛うじて乗ることが出来たバスに揺られておよそ2時間、私はようやく江差のメインストリートに到着した。時間も距離もここまで本当に長かった。ルートは違えどきっと旧幕府軍の江差行も長い道のりだったに違いない。それほどまでに陸路で江差に行くのは大変なのである。


「わーい、江差だ江差!!まずは開陽丸だよねぇ~!旧幕府軍推しとしてはやっぱり最初にチェックしておくべきでしょう♪一体どっちにあるのか……おわっっ!!」


 江差に到着したことに浮かれまくっていた私は不意に身体のバランスを崩し、派手にコケた。浮かれすぎて段差があることに気が付かなかったのだ。因みにコケた場所はバス停から10mと離れていない。

 初っぱなからこんな体たらくで大丈夫なのか?まずは薬局へ行って湿布を購入しなければ、と冷静な状態だったら考えただろう。だがこの時の私は『開陽丸』という巨大な萌を目の前にぶら下げられたオタクである。到底冷静な判断など望めず、痛む足を引きずりながら本能の赴くまま目的地である開陽丸へと向かっていた。

 更にこれもオタクの本能のなせる技か、極度の方向音痴である筈の私が迷いもせずに開陽丸がある『えさし・海の駅』到着したのである。コケた痛みにも方向音痴にも打ち勝つオタクの本能恐るべし。

 ただ、『えさし・海の駅』に辿り着いたものの、目の前にそびえ立つ茶色い巨大な建物に邪魔されて開陽丸本体の姿は入り口からは見えなかった。


「本当にここで大丈夫なのかなぁ。こうすんなりたどり着けるとむしろ不安だ」


 一抹の不安を感じつつ、建物の中に入り入場料を支払う。そして順路にそって長い通路を進み続けると、その最終地点でようやく念願の開陽丸の姿が現れたのである。


「これが……開陽丸!!」


 しとしとと降り始めた雨の中、私は傘もささずに停泊している船に近づいた。私の目の前、そこには実物大で復元されたという開陽丸が静かに停泊している。帆は折りたたまれているがその大きさ、そして美しさは変わらない。

 開陽丸は全長72.80m、全幅13.04mという大きさを誇り、当時としては最新鋭の主力艦として期待されていた。にも拘らず冬の嵐によって江差沖で座礁し、多くの旧幕府軍兵と共に沈没してしまった悲劇の船である。しかしテンションが上がりまくっている新選組オタクはそんな感傷に浸る間もなく、船の横にある入口へと突進する。そこには開陽丸関連の展示物があるからだ。勿論片っ端から全部見るつもり満々である。

 そぼ降る雨の所為だろうか、私が開陽丸に入った時、中に居たのは数人の修学旅行生だけだった。どうやらグループごとに行動しているらしい。そんな彼らを横目に見つつ、私は海の底から発掘された幕末当時の品物を見学していく。何せ戦時中の艦内にあったものである。美術的な価値は皆無だが、当時の息遣いを感じるものばかりだ。

 それらを見終わったら今度は船本体の見学である。復元とはいえ当時幕府軍の兵士たちが乗船し戦っていた軍艦だ。隅から隅まで見たくなるのは当然だろう。尤もそう思うのは歴史オタだけかもしれないが……ということで私は早速行動を開始した。

 艦内中央より前方に甲板へ昇る階段がある。ここに入ってきた頃から雨脚が少し強くなってきていたので、誰も上がろうとする気配はないが、甲板に続く階段塞がってはいない。つまりその気になれば甲板にも上がれるということだ。勿論私は甲板に上がり。土方歳三ごっこをする気満々である。

 一応人の目を気にしつつも土方歳三ごっこの誘惑には勝てず階段を上り甲板に出ると、やはり誰も居なかった。私は濡れた甲板に足を滑らせないよう慎重に船の舳先へと進むと、すぅ、と息を吸う。そして口から出した言葉は勿論『あれ』だ。


「アボルダージュ!!」


 本当は宮古湾海戦における『回天』での台詞だが、そこは目を瞑って欲しい。司馬遼太郎氏の『燃えよ剣』にも書かれた土方歳三の決めゼリフ、新選組オタクとしては叫ばずにはいられないのだ。オタク丸出しのこの行為、さすがにこの時ばかりは心の底から旦那と別行動で良かったと思わずにはいられなかった。

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