第6話 小樽の鰊御殿編

 小樽には鰊御殿と呼ばれる場所が2箇所あるが、私達が最初に出向いたのは小樽市鰊御殿だった。元々西積丹に建てられたものを高台に移築したものだが、建物そのものは明治三十年に建てられたままだそうだ。ただ、臙脂色の屋根が目を引くその巨大な建物は『御殿』というよりは『番屋』と言ったほうがしっくりくるかもしれない。

 確かに無駄な装飾が無い部屋の中はかなり広く、その点においては『御殿』レベルだった。中には当時の写真や漁に使われた道具などが沢山展示されていたが、それでも広く感じられたほどだ。最盛期には100人を超える漁師達―――ヤン衆が寝泊まりしていたとの事だが、それも充分に可能だろう思えるほどの広さだ。しかし広さはともかく鰊漁という目的にのみ特化した建物は、『御殿』というにはあまりにも質素だ。

 にも拘らずあえて番屋を『御殿』というからには何かしらの理由があるのだろう。その理由とは一体何なのか……と私達は海が一望できる窓辺に近寄った。


「ん?このガラス、もしかして・・・?」


 窓にはごく普通にガラスがはめられていた。しかしそのうちの数枚に『外のものが少しゆがんで見える』という、明治・大正時代のガラスの特徴が見受けられたのである。私は慌てて近くの説明書きにかじりつく。

 すると案の定、歪みのあるガラス窓は鰊御殿が作られた明治三十年代当時のガラス窓と書いてあるではないか。しかも雪害のある北海道にありながら、今まで割れなかった極めて運の良いガラス窓だと説明書きに書いてあった。思わぬ『お宝』の出現に、私はそのガラス窓にへばりついて舐めまわすように観察し始める。


「すっごいよねぇ。関東でこれだけのガラスを自宅の窓にはめ込んでいたのって財閥のお大尽の屋敷くらいじゃん。しかも雪害で割れちゃうリスク込みでこんだけはめ込んじゃうんだもん。豪胆というかギャンブラーというか……確かにこれは『屋敷』かも!」


 思いがけない歴史遺産に、私はテンション高く騒ぎまくる。そしてひとしきり騒ぎまくったあと、ふと旦那のほうを見ると、旦那は一歩下がったところで冷ややかに私を見つめていた。その眼差しは電車内で騒ぐ旦那をみつめる私の視線と全く同じだ。何だかんだ言ってもオタク夫婦、結局似た者同士なのである。

 私としては明治・大正期に作られた歪みガラスに未練はあったが、旦那に私のオタクに長時間付き合わせるのも忍びない。たっぷり未練を残しつつガラス窓から離れると、小樽にあるもう一つの鰊御殿―――旧青山別邸・小樽貴賓館へと向かった。




 旧青山別邸は先に見た小樽市鰊御殿のすぐ近くにあった。小樽市鰊御殿とは違いこちらは『御殿』の名にふさわしく、かなりゴージャスな造りの建物である。それもその筈、鰊漁で巨万の富を築き上げた青山家がその威信をかけて造り上げた別荘なのだ。先に見た機能性オンリーの番屋とはその意味合いからして全く違う。


 そしてこの旧青山別邸、伝わる話によると17歳の小娘の『おねだり』が元で作られたと伝わっている。鰊御殿の主人である青山氏の三代目娘・政恵が山形県酒田の本間氏の邸宅に魅せられ『本間邸と同レベルの屋敷が欲しい』と父親にせがんだというのだ。

 因みに酒田の本間氏とは三井家・住友家に劣らぬ大商家であり『本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様』と謳われるほどの栄華を誇った。北前船でも財を成した大豪商の邸宅と同程度のものが欲しいと言い出す娘も娘だが、それを実行してしまう父親も父親である。如何に鰊漁で儲けていたかよく解る話だ。


「だけどさぁ、展示物と通路の距離が近すぎない?これじゃあ手が届いちゃうよね」


 暫く見学した後、旦那がポツリと呟く。普段滅多に美術館に行かない旦那でさえ気がつくほど、旧青山別邸は展示物との距離が異常に近かった。中国の書画や焼物など地味で現在の流行からは少々離れているが、貴重な書画や焼物、螺鈿細工などが手に取れるほど近くに展示されているのだ。しかもガラスケースなどで守られてもおらず、あまりにも不用心である。


「確かにその気になれば盗めそうだよねぇ……ん?」


 螺鈿細工の箪笥の傍に何やら注意書きのようなものが置かれているのに気がついた。私達はそこに近づき、文面を読む。


「なになに?展示物との距離が近い故、盗みを働く人がいます。絶対にやめてください。この箪笥も引き出しが一つ盗まれました……って、盗まれちゃったんだ!!」


 私達は思わず螺鈿細工の箪笥を見返した。確かに引き出しの一つが抜かれて無くなっている。どうやら手が届き、しかも持ち運び出しやすい小さな引き出しが狙われたらしい。しかし繊細な螺鈿細工が施されているとはいえ、引き出し一つ持って行って何の役に立つのだろうか?

 だがこんな災難に遭っても来館者を信じて展示を出来るだけ近くに、そしてガラスケースに入れないよう努力している旧青山別邸のスタッフの心意気には脱帽である。

 これ以上展示物が盗まれることがないようにと心の中で願いつつ、私達は旧青山別邸を後にし、今夜宿泊する札幌のホテルへと向かった。

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