第16話 夜に潜む怪物

 神殿に駆けこんだマウルードは、咽喉もとを込みあげる反吐を、必死に堪えねばならなかった。

 それは、あまりに凄惨な光景――柱の陰、至るところに味方の屍体が転がっている。咽喉を切られている者は、大輪の花のように血を散らせ、胸を突かれた者は、傷から血泡を噴かせている。腹部を突かれた者は、胃液まじりの悪臭を放つ血を粘つかせるありさまだ。

 死にかたによって、血の痕も異なってくるのだな――マウルードは蒼白な貌で、そんなことを思った。

 屍体の数は、ひとつやふたつではない。闇にまぎれて定かではないが、ざっと十は下るまい。

 たったひとりの敵兵を相手に、この数が。

 不死身のモームの伝説が、その真実味を色濃くしていく。

「何処かに、隠れているってわけですね……」

 マウルードは、辺りを見まわしながら、そういった。無数の石造りの円柱の陰、その何処かにやつはいる。マウルードは、必死に両眼をを闇に慣らせようとする。

「この闇だ――やつもそうそうたやすく、おれたちの居場所を摑めるとは思えない」

 上官、ラフマーンはそう答えた。

 そうだ――暗闇は恐怖をび起こしもするが、それは同時にこちらの身を隠してくれる味方でもある。向こうも視力は利くまいし、探り足でしか動けないだろう――マウルードは、必死にじぶんにそういいきかせた。相手は飽く迄、人間なのだ――怪物ではない、と。

 だけど、それが甘い算段であることを思い知るまでにさほど時間はかからなかった。

 闇のなか、仆れこんでいた屍体のうち一体の双眸が、ゆっくりと開いたのだ。

スチール・メットの陰に隠れ、その貌までは、わからない。ただ、瞳だけが、爛々と光っていた。

 その瞳は――青かった。邪眼と恐れられる、あの青い眼だった。

 不死身のモーム――マウルードは叫んだ。

「やつです! 屍体に紛れて待ち伏せしています!」

 その声を合図に、屍骸は起き上がり、青い眼を光らせてラフマーンに襲いかかっていた。右手には、捻じれるような刀身がぎらりと光っている。ひと突きでもすれば傷口は塞がらず確実に出血死せしめる異形の短剣だ。

 ラフマーンは咄嗟に身をかわし、すばやい動きで不死身のモームから距離を置く。凶悪な刃が腕をかすめたが、深い傷ではないようだった。マウルードはその間、圧倒されて身動きひとつ、取れなかった。ただ、その場で身を竦ませるだけで。

それがいけなかった。

 漆黒の闇夜でも、不死身のモームはマウルードの心の隙を見逃さなかった。百戦錬磨のラフマーンよりも与しやすい相手と見るや、即座に標的を替え、襲いかかってきた。

 マウルードは引き金を引いた。しかし、冷静でない射撃など、不死身のモームには当たらない。青い瞳の化け物は、視界の利かない闇のなか、恐ろしいまでに正確に銃弾の群れをかわしながら、いともたやすくマウルードを地面に引き仆し馬乗りになった。そして躊躇うようすを微塵もみせず、両手でナイフを振りかぶる。

「ラ、ラフマーン曹長! おれごと、おれごとこいつを撃ってください!」

 マウルードは泣くように叫んだ。かれが初めて、戦場でみせた勇気だった。

 だけど、ラフマーンは撃たなかった。小銃を構え、狙いをモームの頭部につけてはいた――なのに、撃たなかった。いや、撃てなかったのだ。

 マウルードはみた。引き金に手をかけたラフマーンの右手は、ぶるぶると激しく痙攣するように慄えていた。

 不死身のモームがナイフを振り下ろす――マウルードが悲痛な声を上げた。

しかしそれより早く、ラフマーンは銃を棍棒のように構え直し、モームの頭を横殴りに捕えていた。

 スチール・メットが瓦礫の上を跳ねて転がった。モームはたまらずマウルードを離し、手負いの猿のように闇の中へと走り去る。

「だいじょうぶか、新入り」

 ラフマーンが差し伸べた左手を摑み、マウルードは答えた。

「なんともありません。ラフマーン曹長こそ、けがを」

「おれはなんともない」

「でも、血が……」

「おれはな、マウルード」ラフマーンはひと呼吸置き、言葉をついだ。「生まれつき――痛みってやつを感じないんだ」

 ラフマーンの右手は、まだ小きざみにふるえつづけていた。まるで、ラフマーンとは別の意志を持つように。

 ラフマーンは、舌打ちしながら、左手でそれを必死に抑えようとする。いったいどういうことなのだ――マウルードは眼を見開き、ごくりと唾を呑んだ。

「さっき訊いたな、新入り。初めて人を殺したとき、どんな気分だった、と」

マウルードは無言でうなずいた。

「おれが初めて殺した人間は、おれの父親だった――」

 ラフマーンはけっして視線を合わせることなく、言葉を絞り出した。

「おれの父親はウード弾きだった――心やさしい男で、武器よりも、楽器を愛する男だった。かれの歌は、つねに愛と平和を歌った。子守唄がわりに、よくきかされたものさ。おれも子どものときには、その歌をいっしょになって口ずさんでいた。おれも、おれの双子の弟サーリヤも、そんなやさしい父親のことを、愛していた。だけど、歌のように平和な日々はいつまでも続かなかった。街に青い眼の敵兵どもが押し寄せてきたからだ。 

 やつらは面白半分に市民を殺し、町に火をつけ、女を攫い、好き勝手に略奪を働いた。その混乱のなか――弟サーリヤは家族からはぐれ、屍体さえ、もうみつけることは叶わなかった。

 邪眼の敵兵どもが嵐のように去ったあと、親父はただ泣くばかりだった。よくおれを抱いては耳もとですまない、すまないと謝ったよ。おれと弟は生き写しだったからな――罪滅ぼしのつもりだったんだろう。初めのうちは、それでいいと思った。親父の悲しみは、よくわかった。おれを抱くことで、親父の気が休まるんなら――そう思っていた。だけど、年月を重ねるにつけ、おれの躰が大きくなるにつけ、考えがしだいに変わっていったんだ。

 親父は家族を守らなかった。家族が殺されたのならば、仇を討ちにいくべきだった。親父は、楽器を武器に持ち替えるべきだったんだ。耳あたりのいい歌ばかり歌っていないで、戦うべきだった。その考えは、まるで亡霊のようにおれの心に取り憑いて、離れようとしなかった。違うか、マウルード――おれの考えはまちがっているか?」

 言葉をつぐにつれ、ラフマーンの双眸は、青い眼の敵兵への憎悪でみるみる血走っていた。その黒い瞳は、まるで凍えるように小さく慄えている。

 マウルードには、答えられなかった。ただ、息を乱しながら、話にききいるだけだった。

 ラフマーンは返答を待たず、さらに言葉をついだ。

「戦争に行くよ――おれは小銃を携えて、親父に告げた。そして訊いたよ――どうしてサーリヤの仇を討とうとしなかったんだ、と。親父はなにも、答えなかった。ただ、うつろな眼をおれに向けて、茫然と佇むだけだった。生きた屍さ――やつはもう、廃人だったんだ。おれはかつて愛した父親の、そんな姿をみて悲しくなった。親父を救ってやりたかった――だから、小銃で狙いをつけ――やつの頭を吹っ飛ばしたんだ」

 マウルードに、口を挟むことは、できなかった。ただ、暗闇のなかに呑まれたように、押し黙ることしかできなかった。

 ラフマーンは、闇のなかでさらにつづける。

「親父は粘りつくような血を流しながら、頭を半分失った状態でいったよ――ラフマーン、おまえが正しいよ、と。立派な男に成長してくれた、おまえはおれみたいになっちゃいけない――と。もともとこの世は、他人を殺せる人間しか、生き残ることはできないんだ、と。おれがまちがっていた、おれの音楽がまちがっていたんだ、と。

 そのとおりさ――親父はばかだった。臆病者だった。おれは腰抜けにはならない。青い眼の化け物どもを、ひとり残らずぶち殺してやる。ただその一念だけで、おれはこの戦場で戦ってきた。何人も、何十人も、敵兵をこの手で殺してきた。数えきれないほどの味方が死んだが、運よくおれは生き残った。いつしか、おれは英雄とさえ呼ばれるようになった。だが――いくら足掻こうとも、血は争えんものだ。所詮はおれも臆病者の親父の血を受け継いでいるんだな――ときどき、この右手が慄えちまって、使いものにならなくなる。奇妙なことに、右手が意志を持ったように、銃を撃つことを拒みやがるんだ。ぶざまなもんさ、なさけないったらねえぜ。嗤えるだろう――マウルード?」

「嗤いません、ラフマーン曹長」

 そのとき、ようやくマウルードは言葉を返すことができた。

「それは、ラフマーン曹長の良心の証です。あなたはさっき、ぼくもろともモームを撃ち殺すことに躊躇したんです――臆病ゆえの慄えじゃない――まったく別物です。ぼくは、ラフマーン曹長の良心ゆえに、死なずに済んだんです――そう思います」

 闇のなか、ラフマーンは暫し生意気な物言いの新兵ををじっとみつめていたが――やがてにやりと嗤い、小銃を両手に構えた。

「行くぞ、マウルード。ようやく手の慄えも止まってきた。不死身のモームめ――つぎは逃がさねえ」

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