第15話 不死身のモーム

 街の噂できいた話だ――ほんとうか嘘かは、わからない。

 ラフマーンが警官になる以前、兵士として戦場にいたころ――かれの部下に、マウルードという名の男がいた。童顔の、気弱げな、年端もいかない新兵だった。ラフマーンは、かれのことを露骨に嫌っていた――マウルード自身も、この歴戦の上官に仲間と認められていないことを、重々承知していた。

 ラフマーンに限ったことじゃない。熟練の兵士たちはえてして、新兵に対して冷淡なものだ。戦場で最も死にやすいのは、経験の少ない新兵だ。敵兵に見つかりやすいのも、敵兵の罠にかかりやすいのも、新兵なのだ。新兵を助けようとして、ぎゃくに犠牲になった老兵も少なくない。敵兵とまちがわれて、新兵に射殺された上官だっている。多くの場合、部隊において新兵というものは足手まといでしかないのだ。

 特に、マウルードの臆病さは、目に余った。銃声が響いてはその場でふるえ、援護を要請しても銃の引き金を引こうとしない。屍体をみれば、その場で嘔吐するありさまだ。結果としてマウルードは、前線にいるというのに、いまだひとりの敵兵も殺せないでいた。

「ラフマーン曹長――曹長は、初めて人を殺したとき、どんな気分になりましたか……?」

 その夜、マウルードは小銃を力なく抱えながら、暗闇に消え入るような声で、そんなことを問うた。たとえ嫌われていたにせよ、如何に冷淡であったにせよ、かれにとってこの長身の上官は、たったひとり、頼るべき、そして心情を打ち明けるべき味方だった。

 マウルードは、さらに言葉をつぐ。

「じぶんはほんとうに、人を殺せるように、なれるのでしょうか。慄えが止まらないんです。殺さなければ、殺される、頭ではわかっていても――いざ、突撃銃を構えると、敵兵にも家族がいるのだ、かれを愛する母親が、父親が、兄弟がいるのだ、と考えてしまう。そうじゃありませんか? たとえ眼の色が青い化け物たちでも、かれらがいう『自由の国』とやらへ帰れば、家族や恋人がいるに違いないんだ。そう思ったら、もう、どうしてもだめです、ぼくに引き金は、引けません」

 ラフマーンは、なにも答えなかった。マウルードに背を向けたまま、淡々と歩を進めていく。当然だ――かれらはそのとき、バドル遺跡にいた。悠久の時のなかで朽ち果てた、廃墟の町。その瓦礫の陰から、いつ血に飢えた敵兵が襲ってこないともかぎらない。物見遊山気分で談笑していられる場所ではないのだ。ラフマーンはきわめて慎重に、バドル遺跡の中央めざし、軍靴で瓦礫を踏みしめていく。

 バドル遺跡は巨大な円形を成す、かつての城塞都市――煉瓦造りの二重の城壁は、八つの城門によって開かれている。そのそれぞれから、友軍の分隊が侵入している筈だった。マウルードとラフマーンも、そのひとつを担っている。マウルードは空に目をやった。星ひとつない漆黒の夜空に、蝙蝠たちが無数に飛び交っている。マウルードは一瞬、身を慄わせた。

 かれらの任務はひとつ――バドル遺跡に逃げこんだ、たったひとりの敵兵を追跡して捕えること――その敵兵の名は、不死身のモーム。

 不死身のモームの伝説を知らない者は、この国の兵士のなかに、ひとりもいない。たったひとりで一個小隊を殲滅したという、悪夢のような敵兵だ。青い瞳を爛々と輝かせ、夜の闇に身を隠し、銃で撃たれてもけっして死なない怪物――しかし、伝説はあくまで伝説――マウルードは、そうも思っていた。如何に得体の知れない邪眼ばかりの異国の地とて、不死身の兵士など、いる筈がない――と。だけど、いざモームの時間たる暗夜を迎えると、ひたひたと、疑心暗鬼の恐怖が胸もとに忍び寄ってくる。

「新入り――おれはおまえに、なんの期待もしちゃいない」ラフマーンは背を向けたまま、冷やかにそういい棄てた。「その代わり、おまえが窮地に陥ろうとも、おれがおまえを助けることも、けっしてない。じぶんの身はじぶんで守るんだ――それだけは覚えておけ」

 マウルードはごくりと唾を呑んだ。だけど、かれが恐れたのは、殺されることではなかった。かれはむしろ、味方であるラフマーンに恐れを抱いたのだ。

 敵兵を捜すラフマーンの眼つきには、凄まじいまでの憎悪がこもっていた。上官は青い眼の敵兵を、心底憎んでいる。いったいなにがあれば、人はこれほどまでに、他人を憎むことができるのだろうか――マウルードには、わからなかった。

 ふいにラフマーンが足を止めた。マウルードも、それに倣う。

 暗闇の向こうに、無数の円柱に支えられた、石造りの神殿が見えた――目的地である。それは、バドル遺跡のちょうど中心に辿りついたことを意味していた。

「曹長――そろそろ、ほかの城門から侵入した分隊と合流してもよさそうなものですが……」

 辺りを見まわしながら、マウルードはいった。

「見えないのか――ばかめ」

 ラフマーンの背中が、苛立たしそうに視線の先を促す。マウルードは、訝りながら目を細めた――闇のなかに、ほんのわずか、なにかの影がうかび上がってくる――そして、うっ、とかれは呻きを上げた。

 鉄と木を組み合わせた、見慣れた突撃銃が、瓦礫の闇に埋もれていた。そのそばには、砂色の迷彩服を纏った浅黒い肌の兵士が横たわっている。瞳の色も髪の色も黒――友軍兵士だ。胸からは、まだぬくもりさえ残る夥しい血を流している。

「まちがいない」ラフマーンは注意深く辺りを見まわした。「やつだ――やつが近くにいる」

 迫りくる緊張感に、マウルードは息を荒げた。胸の鼓動がみるみる早まり、貌から血の気が引いていくのがわかる。

 そのときだ――夜のバドル遺跡に、獣のような唸り声が響くのをきいた。憎しみとも悲しみともつかぬ声。それは、耳鳴りのようにマウルードの背骨に揺さぶりをかけた。

 声の方向には、石造りの神殿。

 続いて悲鳴がこだまする――神殿にささげられた生贄の悲鳴が。

 吐息のような低い声で、ラフマーンが声を洩らした。

「不死身のモームだ」――と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る