第17話 片手のラフマーン
マウルードは歯を鳴らし、身を
一歩、また一歩と進むたび、闇がその暗さを増していく。両眼をどこかに落としてきたかのような暗黒のなか、またあの不気味な唸り声が響きはじめた。飢えた狼の遠吠えのような、赤子の悲鳴のような、墓場で蠢く屍体の叫びのような、おぞましい声。遠くからきこえているようでもあったし、すぐ背後からきこえるようでもあった。
「油断するな、マウルード」
息が詰まりそうな闇のなかで、ラフマーンが一歩、歩を進める。軍靴に踏みつけられた瓦礫が、音を立てて砕け散った。
「マ……ウルード……」
闇のなかで名を呼ばれ、ふり返った、その刹那。
「違う! いまのはおれの声じゃない!」
上官の声が響く――しかし時すでに遅し。マウルードの頸を、ぐっ、と後ろから摑む者がいた。マウルードは、内臓を握られたような叫びを上げる。
息苦しさのなか、眼を凝らす――そこには、青い瞳の長身の男の影がマウルードの怯える貌を不気味にじっと見下ろしていた。
不死身のモーム。
こいつが、伝説の、青い眼の
闇夜のヴェールから、その貌がちらと覗いたとき、マウルードはハッと息を呑んだ。
この貌は――まさか、この貌は!
すぐそばで銃声が響く――ラフマーンの小銃だった。
不死身のモームはマウルードから手を離し、胸から血泡を噴きながらふっ飛んだ。
ラフマーンの小銃は容赦なく、さらに弾丸を連射する。頭。胸。腹。手足。全身に風穴を開けるたび、モームは痙攣するように蠢き、瓦礫の山についに仆れこんだ。
安堵も束の間、マウルードは信じがたい光景に眼を見開く。
驚くべきことに――モームはすぐさま立ち上がり、悲鳴のひとつさえ溢さず、闇のなかにまた溶けるように身を隠したのだ。
「死なない……撃たれても死なない、不死身の兵士」
マウルードは悲鳴にも似た声で叫んだ。
「ばかな。そんなばかな――だけどそれ以上に、やつの貌」
マウルードは闇のなか、憔悴するラフマーンと眼を合わせ、言葉を洩らした。
「青い瞳だった――だけど、だけど、あの貌は」必死に呼吸を整えながら、マウルードはいった。「ラフマーン曹長そっくりでした。瞳の色以外、うりふたつ」
ラフマーンは、なにもいわなかった。ただ、息を乱すだけだった。
かれもまた、闇のなか、モームの正体を、はっきりとみたのだった。
「サーリヤか……? がきのころ、戦火の混乱のなかで行方不明になったあいつが、伝説の不死身のモームだというのか――?」
深海のような闇のなか、唸りとも呻きともつかぬ声が、また辺りにこだましはじめた。
「サーリヤ。おまえの兄、ラフマーンだ。おれがわからないのか」
唸り声はやまなかった。一瞬の躊躇もみせなかった。言葉が、通じないのだ。サーリヤは、すでにこの国の言葉をわすれてしまっている。幼いころに連れ去られ、完全に異国の民になってしまっている。
しかし、自身にうりふたつの兄、ラフマーンをみれば、向こうもすべてを理解できる筈――マウルードがそう思ったとき。
闇のなか、ゆらりと亡霊のように、不死身のモームが姿を現した。ウウウ、ウウウ、と突風が木々を揺らすような不気味な声を上げながら。まるでその声は、その躰じゅうに開いた無数の銃痕からきこえてくるようだった。
マウルードは、ふたたびモームの姿をみて、すべてを悟った。それは、絶望以外の何物でもない姿――、
モームの青い瞳には、なにも映っていなかったのだ――その青い瞳は、まるで曇ってしまったガラスのように、なにも映しだしてはいなかったのだ。
盲目――! かれの瞳は「自由の国」の軍隊によって、おそらくなにかの薬品で青く染め上げられたのだろう――その代償に、かれは永遠に光を失ってしまった。
これがかれに与えられた邪眼。呪われし宿命。
「サーリヤ」
ラフマーンは、涙を流しながら、愛する弟の名を呼んだ。
しかし、当のサーリヤの傷だらけの胸に、その言葉は寸毫も届かない。
かれの青い双眸は、兄の姿を映さない。
怪物――? そうじゃない。
むしろかれにとっては、すべてが闇に蠢く怪物。
理解できない敵国の言葉だけが飛び交う永遠の闇に閉じ込められた囚人。
かれは自分の身を守るために、わけもわからず戦い続けてきただけだ。
嗚呼、なんと数奇な運命――悲しい再会!
不死身のモームは唸りを上げながら、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。その足どりは、弱々しかった。当然だ。何十発もの銃弾を、その身に受けているのだ。この国のあらゆる戦場で、何人もの兵士の憎しみがこもった銃弾を、その身ひとつに受け止めてきたのだ。
不死身のモーム。痛みを感じない兵士。闇夜に蠢く青い眼の
モームは唸り声を上げ、また一歩、ラフマーンに歩み寄った。かれは光に頼らない。蝙蝠のように、その唸り声の反響で標的の位置や数を測っているのだ。だからこそ、暗夜のなかでも昼間と同様の正確ですばやい動きができる。
「痛みを感じないんだな、サーリヤ。だから息の根が止まるまで、戦いつづけるんだな。躰じゅうから血を流し、ぼろぼろになりながら、それでも戦うことをやめられないんだな。青い眼の化け物どもめ、惨いことをしやがった。おまえの躰に、命に、まるで敬意を払うことなく、犬のように扱いやがった。可哀相に、おれの愛するたったひとりの弟――おれの分身。止めてやる。おれがおまえを止めてやるよ」
ラフマーンは小銃を構え、向かい来る弟サーリヤに銃口を向けた。
金属音と火薬の臭いを察した青い眼の盲人は、異端きわまる捻じれた刀身の短剣を構え、躰じゅうから血を滴らせながら、最期の力をふり絞って、跳ねた。
銃声が鳴った――まるでウードの音楽のように、旋律を奏でるように、鎮魂歌のように、何発も、高らかに鳴った。
ラフマーンが愛した、たったひとりの弟は、その身を砕け散らせながら、瓦礫に血しぶきを上げて仆れた。
びくりびくりとその場で痙攣し、眼からは涙を流し、口から大量の血を吐きながら――やがてついにあきらめたように、かれは動くのをやめた。怪物でもない。不死身でもない。いまや壊れやすい、ただの一兵卒。そのなにも映さない青い瞳は――悲しげに、じっとラフマーンを見据えていた。
ラフマーンは、弾丸のきれた小銃を捨てた。そして腰のホルスターから自動拳銃を引き抜いた。
かれの右手は、またも暴れるように慄えはじめていた――ラフマーンはじぶんの右手を憎々しげに眺め――みずからその右手を、自動拳銃で撃ちぬいた。
「曹長――いったい、なにを」
マウルードの制止の声は、もはや、かれには届かない。
何発も。何発も。何発も。ラフマーンは自身の右腕に銃弾を撃ちこんだ。まるで、自身の罪を罰するかのように。
やがて右手は血に濡れながらちぎれ飛び――瓦礫の上を跳ね、かれの弟、サーリヤの亡骸のそばに寄り添った。
切断された右腕から夥しい血を溢しながら、ラフマーンは高らかに哄笑を上げた。その身に残った最後の良心さえ失い、しだいに狂気を帯びていくその黒い瞳から、大粒の涙を流しながら。
その日から、かれは、畏れとともに呼ばれるようになったのだ――片手のラフマーン、と。
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