第11話 盲目の少女

 つぎに眼を醒ますと、ジブリールは白い部屋のベッドに横たわっていた。濁った意識のなか、懸命に記憶を辿る。こめかみに激しい痛みを覚えた。手をやると、貌じゅうに堅く包帯が巻かれている。やがてジブリールは、失った右眼の死角に、白衣を着た見知らぬ男女の姿を認めた。かれらはじっ、と冷たいまなざしでジブリールを見下ろしていた。

「気がついたようだね」医師とおぼしきその男は、無関心な声でそういった。「弾丸がそれてね――致命傷には、至らなかったんだ」

 死ねなかったのか――ジブリールにはそれが喜ぶべきことか落胆すべきことか、わからなかった。医師に礼をいうべきかどうかも、わからなかった。医師はかれの言葉も待たず、残酷な言葉を平然とついだ。

「きみは、邪眼だね」

 心臓を、素手で摑まれた気がした。ジブリールの呼吸が、しだいに乱れていく。

「それもご丁寧に、青い瞳に片眼とは――。災いはいつも、邪眼の人間のそばに寄ってくる。きみの町は、戦火に燃え落ち崩壊状態だ。ほとんどの住民は死に絶えたらしいが、邪眼のきみが生き残るとは、なんとも皮肉な話だな。医師の務めだから治療はしたが、動けるようになりしだい、早めにここから出て行ってもらいたい。たとえ迷信だとしても、邪眼の者がいると、ほかの患者が怯えるのでね。不安は、治療の大きなさまたげになる。薬や物資も不足しているし、治療費の払えない患者を、いつまでも置いておくわけにはいかない」

 その声は穏やかだったが、ジブリールへの嫌悪にみちみちていた。

 わかりました――ジブリールはそう答えるほかなかった。邪眼への差別や迫害は、家庭のなかでさえ厭というほど味わってきた。怒りや悔しさなど、感じなかった。むしろ、ここで息をすることさえ、申し訳なく思われた。もとよりかれを歓迎してくれる場所がこの世のどこにもないことなど、かれは生まれ落ちたその日から、もう、とうに知っていた。

 医師のそばにいた年配の看護婦は、ジブリールへの恐れを露骨に表情に顕していた。ジブリールに、だれかを傷つけたり苦しめたりするつもりなど、毛頭ある筈がない。だが、かれは邪眼だった。そのうえ、いまやおぞましい怪物に成り果てていた。それは、きっと、だれかをじっさいに傷つけることよりも、殺すことよりも、はるかに罪深いことだった。

 うなだれるジブリールに同情の視線を落とすこともなく、医師と看護婦はせわしなく病室を出た。冷たく厳しい音を立て、扉が閉ざされた――まるで監獄の扉を閉ざすかのように。ジブリールの、最後の希望を閉ざすかのように。

「邪眼――」

 声がした。

 ジブリールはふり返った。

「あなたも――邪眼なの?」

 隣りのベッドのカーテンが、音を立てて開いた。ジブリールは息を呑んだ。声の主はひとりの少女だった。なにかの病であるのか、その腕は細く、肌は白かった。だけどそのことがなお少女の儚げな美しさをきわだたせていた。この世のものではないような、つくりものであるような、そんな美しさだった。

 ジブリールは咄嗟に自身の醜い貌を恥じ、手で覆い隠そうとした。しかし幸運にも、いや――不幸にも、その必要はなかった。その少女の美しさは完全ではなかった。たったひとつの致命的な欠落によって、深く暗い影を落としていた。少女は、その瞳を、鉄の牢獄のように堅く閉ざしたまま、けっして開けることはなかったのだ。

「あたしも、邪眼なの。いまはもう、ないけれどね」

 少女はそういって、にこりと笑った。

「生まれたばかりのころ、お母さんにえぐり抜かれたのよ。おまえの眼は災いを招く邪眼だ――って」

 ジブリールは、まるで自身の胸をえぐられるかのような痛みを覚えた。なんというひどいしうちだろう。画を描いて暮らせただけ、じぶんの境遇のほうが、まだましかもしれない。純然な義憤が、かれの胸をしめつけた。しかし、少女の目がもしみえていれば、厭わしい姿のこのじぶんに、ほほえみかけてくれることはけっしてなかっただろう、そうとも思った。

 つらい境遇を生き抜いてきた少女には、まるで聖女の如き、圧倒する気品があった。そこには虐げられてきた者特有の卑屈さは微塵もない。その気品は、おそらく後天的な教育によって得たものではないだろう。あきらかに、生まれながらに、天から与えられたものだった。ジブリールは究極の美を具現化すべく、画を描きつづけてきた。だが、その少女は、ジブリールのあらゆる努力を嘲笑うように、ジブリールがめざす究極の美を、生まれながらに自身のその身に与えられていた。

「あなた、なにをしている人なの?」少女は無邪気な好奇心を頬に浮かべながら、 ジブリールに問うた。

 ジブリールはすこし考え、答えた――「画家だ」

「すばらしいわ。でも、残念ね」少女は悲しげに呟いた。「あなたの画をみることは、あたしにはけっしてかなわない」

 少女の頬に、一筋の血の涙が流れていた。


        †


 ジブリールがあとで医師からきいた話になるのだが――、少女の邪眼は、彼女の母親が「自由の国」の敵兵と姦通した結果のもの、ということだった。つまり、少女は敵兵の青い眼を受け継いで生まれたのだ。母親は、このことを知られるのを恐れた。夫に知られれば、離縁されてしまうことは目に見えている。町にも居場所など、ある筈もない。敵兵と姦通した女は髪を刈られ、すべての財産を奪われて町を追われるのが常だった。だから、けっしてこのことが公にならないよう、母親は娘の邪眼をえぐり抜いたのだ。

 ジブリールの心は、重い悲しみに沈んだ。少女の過去にふりかかった壮絶な話に、言葉が見つからなかったのだ。そして同時に、かれの胸に、ちいさな疑念の芽が生じた。もしかしたら、じぶんの邪眼も、母が敵兵と姦通した結果のものなのかもしれない。だからこそあれほどまでに、父から虐げられたのかもしれない。それまでジブリールは誇りとともにその家名を自身の画に書き添えてきた。なのに、ほんとうの父親が碧眼の敵兵であるとすれば、かれはジブリール家とは縁もゆかりもない人間ということになってしまう。神はかれが唯一誇りとしていた家名さえも奪い取ろうとしていた。名を両親から与えられなかったかれにとって、ジブリールという家名は、最後の親の形見であったというのに。

 しかしその疑念がおそらく真実であることは、かれ自身がもっともよくわかっていた。それは、かれの描く画だ。だれに教わったわけでもなく、まったく異質の画風を獲得したかれの才能は、「自由の国」の人間の血を受け継いだことによるものではなかったか。その才能がまったくの異国で育ったことで、独自の画風を得るに至ったのではないか――。


 絶望が深まれば深まるほど、それを埋め合わせようとするように、ジブリールは少女に惹きつけられた。少女のほうでも、それはおなじだった。かれらは、非常に境遇が似ていた。同じように邪眼を持って生まれ、同じように幼少から迫害されたかれらが、強く惹かれ合うようになるのは至極、当然のことだった。そしてそれ以上に、ジブリールは少女の聡明さに敬意を払っていた。少女は目がみえなかったけれど、目で見るよりもはるかに多くのことを、みずからの悲しみから学び取っていたからだ。

「光のある世界とは、どんなものなの?」

 少女はジブリールに問うた。

「色と光にみちた世界は、たとえるなら目で見る音楽だよ。音と同じで、色と光は、流れているんだ。音楽みたいに、始まりからおしまいに向かって、絶えず流れている。まったくおなじように見えても、一度流れた世界の色と光は、二度とみられない。おれはそれをカンヴァスに描きとめたくて、画筆を握るんだ」

 ジブリールは身ぶり手ぶり、自身の仕事について力づよく語った。しかし少女に、ジブリールの言葉はほんとうの意味では届かないようだった。少女は、色を想像することができないのだ。光という言葉の意味を、理解することができないのだ。ジブリールが、少女の住む闇の世界を、けっして理解できないように。

「ジブリール、光のない世界がどんなかわかる? だれの姿もみえない、じぶんの姿さえみえないの、じぶんがここにいるかどうか、それさえわからないのよ。不安になるわ。まるで世界のすべてから置き去りにされたような気分」

 気丈をふるまってはいたけれど、ときおり少女は気弱げに嘆くことがあった。

 ジブリールは少女の手に、そっとじぶんの手をかさねた。

「おれがここにいる」

 少女はほんの少しだけ、安心したように頬をゆるめた。


        †


 ジブリールはふたたび画を描く意欲を取り戻しつつあった。片方の邪眼と右腕だけが無傷だったことを、幸運だとさえ思えるようになった。かれにできることは、画を描くことだけなのだから。そしてそのモチーフはもちろん――美しい盲目の少女だった。

 かれは少女の面影をカンヴァスに写し取りながら、ふと、この少女と結婚できればどれほどすばらしいだろう、と考えた。しかしそれは、じぶんの醜さを考えれば、到底できないことだった。たしかに少女は目が見えない。だけどそれをいいことに、じぶんの醜さを隠しとおすのは、ゆるされざる卑劣なやりくちだと思えた。それに、かれには少女を幸福にするだけの力はなかった。およそじぶん自身が不幸の極致にいるかれに、いったいこの世のだれを幸福にすることができるだろうか。かれが抱える不幸は、あまりにも大きかった。それは周りの人間をも巻きこんで不幸にしていく、深い呪いだった。かれはいままで愛する人びとの幸福だけを望んで生きてきた。だけど結果的に、かれが生きることで、周りの人間を不幸にさせてばかりだった。

 少女は笑いながらジブリールと話しこんだかと思えば、ふいに表情を歪め、泣き出すのが常だった。

「なんでもない――なんでもないのよ」

 そういいながら泣きつづける可憐な痩身の少女をまえに、ジブリールは狼狽するほか、なにもできなかった。跫音もなく彼女の脆弱な心に忍び寄る過去の呪わしい悲しみに対し、かれはあまりに無力だった。そばにいるのに、なにもしてやることができない。悲しみに捕まったとき、少女には文字どおり救いとなる光がなかった。彼女は永遠に続く、けっして明けることのない夜の牢獄に幽閉されていた。少女のいちばんの理解者を自負するジブリールにさえ、その不安は計り知れないものだった。

 じぶんが彼女にしてやれることはなんだろう。

 じぶんにはいったい、なにができるだろう。

 愛する少女に、いったいなにを与えてやれるだろう。

 かれは病室で少女の肖像を描きながら、ただ愚直にそのことだけを考えつづけた。

 じぶんには、なにもない。思い出も、未来も、金も、力も。

 あるものといえば、ただ――。

 立ち上がったジブリールは、醜く爛れた貌を青黒いターバンで隠し、一路、都をめざした。病院にはさまざまな街から、さまざまな人間が集う。かれらの話のなかに、めざすべき場所をみつけたのだ。

 盗品、銃、大麻、娼婦、人間の屍体に至るまで、そこに行けば売り買いできないものはなにもないという、悪名高きザックーム市場スーク。金は、持っていなかった。ただ、父親譲りの一挺の回転式拳銃と、一枚のカンヴァスだけを携えて。


 そして砂嵐の夜――ジブリールは、店で親方に出会ったのだ。

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